2016年7月27日 (水)

日々の捨身 7/27

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梅雨明け間近。
新たにFujiFilm XQ1を導入、試し撮り一枚目哉… 
(捨身 FujiFilm XQ1)

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2016年6月 1日 (水)

出光美術館で伴大納言絵詞中巻を観る

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前回、当館で伴大納言絵詞を観たのは、何年前だったか。
おそらく、十年近くは経っているだろう。
当時は、絵巻の痛みが気になり、
てっきり、次回展示は無いものと想っていた。
でも、今回、開館五十周年記念の特別公開で、
再会出来たのは、まったく同慶の至りである。
この間、修復が進んだみたいで、
絵巻の状態が大分鑑賞に堪えるものになったのもいい。
全三巻を順次展示しているが、今日は以前より注目していた、
「中巻」のある場面を確かめて来た。
応天門放火の罪を着せられ、「天道」(仏神)へ無実を訴える、
「左大臣源信」(みなもとのまこと)とされる部分だ。
解説もそうなっているが、何だか説得力不足で、
「定説」とまでは謂えまい。
伴大納言絵詞は、長年の間に切り取られたりした可能性が高く、
各場面と詞書が「錯簡」(さっかん=繋ぎ間違い)で、
物語の筋立てや、登場人物の特定が難くなっているからだ。
筆者は、中世史家の黒田日出男氏の指摘のほうに強く惹かれる。
画中の人物が源信であることは正しいが、
「庭中」(ていちゅう)と云って、裁定を不服として、
所謂、直訴を試みる姿を描いているのではないかと言うのだ。
「庭中」が行われるのは、文字通り、御所の「庭」であり、
場面設定も、中世世界の作法に合っているようにみえる。
果たして、本当のところはどうなのだろう?
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(捨身 Canon S110)

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2016年2月14日 (日)

神田万世橋界隈(8)

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櫓門を枡形の内側から観る。
隙間なく積まれた「切込接」(きりこみはぎ)の石垣が美しい。
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「雁木」(がんぎ)と呼ばれる、階段状の石積み。
表面を丹念に削った鑿跡へ眼が往く。
江戸城には「伊豆石」が多く使われたと云うが、それであろうか。
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門扉の鉄金具や蝶番、白壁の漆喰も綺麗に塗り直されていた。
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(捨身 Canon M3)

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2016年1月29日 (金)

神田万世橋界隈(7)

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高麗門をくぐり「枡形」の内へ入ってみる。
桜田門の場合、水濠の中に突き出た立地で、
根石を積んだ土塁(腰巻石垣と呼ぶらしい)上に土塀を廻らして、
「枡形」を囲む構造になって居る。
現在、一部工事中で、全貌を見渡せないのが残念だ。
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すぐ右へ、直角に折れると、立派な「櫓門」がある。
江戸城の往時の遺構をほぼ留める構造物として、
数少ない重文指定だが、関東大震災後に大きく修復の手が入り、
先だっての東日本震災でも、瓦が落ちるなど再び被災、
数年前まで、二度目の大規模な修復工事が行われていた。
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門扉の鉄金具や木部は、綺麗に復元されている。
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「櫓門」を出た向こう側から「枡形」を覗く。
やはり、現存する近世城郭の中では、図抜けて大きい城門だろう。
こんな城門(枡形門とも呼ぶ)が「筋違御門」も含めて、
江戸府内の各所に聳えていたわけだ。
(捨身 Canon M3)

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2016年1月25日 (月)

神田万世橋界隈(6)

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今回の探索の仕上げに、
「筋違御門」とよく似た構造の「桜田門」(現存)を観てきた。
まず、水濠の橋(現存せず)を渡ると、手前に「高麗門」があり、
門内は「枡形」になって居る。すぐ右手へ直角に曲がれば、
「桜田門」である。上掲右側の櫓がそれだ。
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堀側へ張り出した「櫓門」の右隅。
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「高麗門」の正面に立つ。
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「高麗門」とは、内側左右の「控柱」(ひかえばしら)の上に、
屋根が設えられた形式の門を云う。
(捨身 Canon M3)

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2016年1月19日 (火)

神田万世橋界隈(5)

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明治五年(1872)筋違御門、見付、及び筋違橋は取り壊され、
石垣の石材を再利用して、洋風の二重アーチ橋、
万世橋が架けられた。
現在の橋は三代目で、震災後の帝都復興事業に拠り、
昭和五年(1930)元の場所から、やや下流に再建されたものだ。
幕末維新期に撮られた古写真を掲げる。
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現存の桜田門によく似た、堂々たる見付(枡形)だ。
立派な櫓門の筋違御門、そして橋前の高麗門、
筋違橋は伝統的な反り橋で、欄干に擬宝珠を備える。
赤坂見附の初代弁慶橋(明治二十二年=1899 築)の擬宝珠として、
転用されたとも云う(今の弁慶橋は昭和六十年=1985 築)
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神田川対岸の、カメラ位置とおぼしき場所に立ってみた。
もとより、赤レンガアーチの高架橋と旧万世橋駅跡以外、
往時を偲ばせる遺構は何も残って居ない。
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(捨身 Canon M3)

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2016年1月16日 (土)

神田万世橋界隈(4)

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旧万世橋駅下の高架橋は、創建当時(明治45=1912)の、
赤レンガアーチを残している。
最近、駅跡の遺構を整備して、ショッピングモールが開店した。
上掲は「昌平橋」側より「万世橋」方向を見通したところ。
因みに初代駅舎は、東京駅と同じ辰野金吾の設計だった。
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明治末から大正期にかけて、
万世橋駅前は、帝都東京屈指の繁華な場所だったようだ。
朧げながら、その賑わいの記憶を父親が話したことがある。
ある意味、良き時代だったのか。
しかし、辰野金吾の瀟洒な赤レンガ駅舎は、
大震災(大正十二=1923)で焼失した。
再建は成ったが、中央線の東京駅延伸などで、
駅前は衰退、戦時中の昭和十八年(1943)廃止に至る。
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大正十四年(1925)頃の万世橋駅前を撮ったものだ。
広重の「筋違内八ッ小路」とほぼ似たような構図を取る。
奥のガードは「昌平橋」、右手に二代目駅舎とホーム、
左上方遙かに、お茶の水の白い「聖橋」が観える。
手前に立つ銅像は、有名な「広瀬中佐と杉野兵曹長」だが、
敗戦直後に撤去されとたと云う。
(捨身 Canon M3)

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2016年1月13日 (水)

神田万世橋界隈(3)

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江戸後期の「切絵図」で「八ッ小路」と「筋違御門」を示す。
中央やや下、左の神田川上流より「昌平橋」「筋違橋」と並ぶ。
下方、右斜めに日本橋方向から、中山道が入り、
左斜めに御成道が「八ッ小路」に入ってくる。
御成道とは、将軍が菩提寺たる上野寛永寺へ参拝する道と云う。
二つの道は「筋違橋」と渡ると、再び別れ、中山道は左上方、
神田明神と湯島聖堂の間を抜けて、本郷、板橋へ向かい、
御成道は、右上方へ「筋替え」て直上、上野へ至る。
「筋違橋」の袂、墨線の四角い囲みは「枡形」を表し、
左側の切れたところが「筋違御門」になる。
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現在の万世橋上から「昌平橋」を観る。
眼前、左岸の赤レンガアーチ高架橋下に、
「筋違橋」が架かっていたようだ。
高架橋の上は、甲武鉄道(現中央線)旧万世橋駅跡だ。
(捨身 Canon M3)

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2016年1月12日 (火)

神田万世橋界隈(2)

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今回、想い立つきっかけとなった、
広重の「名所江戸百景」のうち「筋違内八ッ小路」を掲げる。
右手上方の小丘に観えるのは、神田明神と湯島聖堂だ。
その下、画面を斜めに切る土塁状の構造物は、
神田川に沿った「柳原土手」で、
現在は、中央線の赤レンガ高架橋が走っている。
土塁の切れたところ、番所と冠木門の裏に「昌平橋」が架かる。
番所脇の小路を往けば「淡路坂」を上り、お茶の水へ至る。
手前の広場が「火除け地」を兼ねた、
画題の「八ッ小路」と呼ばれる大きな辻である。
肝心の「筋違橋」と「筋違御門」「枡形」は、
画面右下にあるはずなのだが、
トリミングされてしまって描かれていない。
今の「万世橋」より、一寸神田川を上流(左側)へ、
寄った辺りだろうか。
左手下の大名行列が、ちょうど「筋違御門」を、
通り抜けて来たことを暗示するのみだ。
絵師が江戸城の重要防備施設を憚り、
わざと外したとも云われるが、意図は判らない。
俯瞰した構図も取るが、もとより想像上のものだろう。
何とか現状を撮ってみたが、
ビルに阻まれて見通すことは出来なかった。
右手のガードが「万世橋」だ。
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(捨身 Canon M3)

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2016年1月10日 (日)

神田万世橋界隈(1)

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暫く、ここと謂う探索地が想い浮かばないで居たが、
広重の「名所江戸百景」のうち、
「筋違内八ッ小路」を観る機会があって、
一寸、同地を歩いてみたくなった。
現在の神田万世橋辺りである。
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懐かしい昭和の洋菓子店にも立ち寄り、
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「昌平橋」ガード下へ至る。
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同橋上からの神田川だ。
かつては江戸城の外堀の役割を果していた。
向こうの「万世橋」との間の風景を描いたのが、
前述の名所絵だったわけだ。
(捨身 Canon M3)

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