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2008年4月16日 (水)

勘助のイメージ(4)

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なぜ、「市川文書」だけでは、

勘助実在の実証にならないのか。

文書によれば、「山本菅助」という人物は存在したかもしれないが、

これが甲陽軍鑑に語られる山本勘助と、

同一人物とは限らないからである。

 (この際、菅と勘の違いは問題にはならない。

  この時代、人名の当て字はごく普通であった)

だから、甲陽軍鑑と「市川文書」の間を埋める、

新たな文献の発見が待たれるわけだ。

甲陽軍鑑の再評価につながった、

国語学者、酒井憲二氏の研究も、興味深く、説得力がある。

軍鑑には中世・室町期の甲斐信濃地方の、

方言や庶民の言葉が多用されて、

とても、後世の人が書けるようなものではないという。

信玄の重臣であった高坂弾正が、生前口述したところの、

武田信玄、勝頼(この項は弾正死後の書き継ぎ)二代にわたる、

甲州武士の心得、事跡、合戦、軍法、裁判などを、

甥の春日惣次郎、家臣・大蔵彦十郎が筆録したものが、

甲陽軍鑑であるというのが、酒井氏の推論だ。

たしかに、本文中に高坂自身が自己紹介と、

軍鑑を口述筆記させた経緯を語る場面があり、

臨場感十分のところである。

(写真 Caplio GX100)

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