宿坂にて(1)
雑司が谷でみつけた中世遺跡から中世古道の跡を辿って、
宿坂界隈を探索してきた。
宿坂の坂下に金乗院という真言宗豊山派の寺がある。
(あの紀州根来寺の新義真言宗の一派である。
戦後、目白の地名の由来となった目白不動が移って来ている)
開山はそう古くなく、16世紀の天正年間というが、
その前の中世にも辻堂のようなものがあったかもしれない。
裏手の斜面に広がる墓所には、
江戸期の墓石(丸橋忠弥の墓も)が所々にあり、わりといい感じだ。
中世世界の坂は境界地であり、葬送地でもあったから、
ふさわしい立地なのだが、ひょっとしたら中世でも、
ここでは似たような景観がみられたのではないだろうか。
門前に豊島区の案内版が設置され、
江戸名所図会に描かれた宿坂の様子が紹介されている。
その頃は鬱蒼としており、狐狸が出たようで、
「暗闇坂」とも呼ばれるようになったとある。
(写真 CX1)
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コメント
「江戸名所図会」と坂の感じはほとんど変わっていませんね。
横浜の鎌倉街道は、長らく通勤道路だったですが、何の知識もなく、写真を撮りたいと思ったところが、古道だったというのはよくあることですね。
「宿」とはどういう集落なのでしょう。「夙」とは関係ないのですか。今後の展開を楽しみにしましょう。
投稿: 振り子 | 2009年12月14日 (月) 22時34分
「宿」の定義にはいろいろな要素があって、一口に言うのは難しいですね。それは「別所」と同じだと思います。まぁ、坂や河原のような境界地に発達し、特定の世俗権力の埒外におかれた、道々の輩が集住する都市的な場…しかも交通の要地で、市が定期的に開かれ、宗教や芸能の場でもあった…とでも言うか…
投稿: kansuke | 2009年12月15日 (火) 10時38分