« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

2009年12月の記事

2009年12月31日 (木)

別府と別所

B09123001

「中世史用語辞典」(佐藤和彦編 1991 新人物往来社)届く。

こちらは、大分は別府の古書店から(ああ温泉入りたい…)

さっそく、「別所」の項を引いてみる。

……本寺から離れて修行者や念仏聖が本寺の周辺に草庵を結び、

  集落化した場所。平安時代から南都・比叡山・高野山周辺に、

  見られ、特に高野山の別所聖は高野聖と呼ばれ、高野山の、

  歴史に大きな役割を果たした……

一昨日投稿の、宿坂下、南蔵院の開山伝承に、

出て来る乞食僧とは、実は高野聖ではなかったか。

彼らは高野山に出入りはするが、もとより正式な僧ではなく、

その周辺にいた諸国を遍歴する宗教者集団である。

高野山から分派した根来寺にも出入りしていたことだろう。

現在のこの寺の宗旨、新義真言宗豊山派との接点は十分にある。

草堂に薬師如来を安置したのは、

東国の山岳信仰との関連が指摘されているようだ。

こっちには遍歴する修験者(山伏)の影が感じられる。

高野聖と修験者、どちらも道を歩き回る人々で、

付き合いは浅からぬものがあったはずだ。

(写真 CX2)

| | コメント (2)

2009年12月29日 (火)

宿坂下にて(1)

B09122801

B09122802

B09122803

B09122804

中世の「宿」があった宿坂下は、今ではごく普通の街である。

ただ、道筋は殆ど変わっていないように見える。

宿坂道を挟んで、左側に氷川神社、右側に南蔵院、

その真前の鍵形のカーブもそのままだ。

(一番上と三番目の写真、一番下の古地図参照)

この妙な鍵形カーブ、そして、南蔵院という寺は極めて怪しい。

宿坂直ぐ下、左側の金乗院(12/15 投稿 宿坂にて① 参照)と、

同じ真言宗豊山派だが、開山はずっと古くて14世紀の室町初期。

遍歴の乞食僧、円成が何処かで入手した、

奥州藤原一族の持仏と称する薬師如来像を安置する、

辻堂を建てたのが始まりという伝承を持つ。

(上の古地図にも薬師堂とある)

境内には、かつて宿坂周辺に沢山あったと思われる、

地蔵像、庚申塔、馬頭観音像が集められている。

さて、ちょっと、この謎解きに挑戦してみるか…

(写真 CX2)

| | コメント (0)

2009年12月28日 (月)

武蔵国豊島郡下高田村絵図

B09122701

B09122702

昨日の投稿で触れた古地図を購入した。

@\1500也 残部稀少…(古書で探すと結構大変だろう)

「豊島区地域地図 第5集 近世(村絵図Ⅰ)編」

(武蔵国豊島郡下高田村絵図 正徳6年-1716)

(    〃   雑司谷村絵図 明和9年-1772)

(読みおこし参考図 各1枚 付解題及び参考資料1冊)

(豊島区立郷土資料館編集 豊島区教育委員会発行 1992)

上の写真は下高田村絵図から宿坂の部分。

ついで、宿坂下の当該地域を探索してきたが、

本日、右肩の激痛にて少しも腕が上がらない。

トートバックに書籍を何冊も入れて歩いていたので、それ故か。

その為、今宵は安静にせざるを得ず。

宿坂下の探索結果は明日に送る。ご容赦。

(写真 CX2)

| | コメント (0)

2009年12月27日 (日)

坂の下

B09122601

豊島区の郷土資料館に、

雑司が谷・宿坂関係の史料を探しに行って来た。

文献史から近世・江戸期の雑司が谷を研究している学芸員の方と、

一時間あまり討議する。

思わぬ見落としがあった。宿坂の宿は坂下にあったのだ。

そう言えば、奈良坂、清水坂、極楽寺坂、いずれも宿は坂下だった。

豊島区では雑司が谷界隈の江戸期の古地図を収集し、

何枚かのセットで復刻、出版している。

今回、その地図を詳細に検討した結果、

宿坂下の神田上水と挟まれたごく狭い地域に、

「上宿」「中宿」の字名を発見したのである。

これは学芸員の方も初めて気づいたことらしい。

区の宿坂の案内板に、宿坂の名前の由来は、

坂上にあった例の中世の関によると書いてあるのだが、

(12/15 投稿 宿坂にて ② 参照)

それは誤りということになる。

(関を管理した関守も宿の人々であったとすれば話は別だが)

この坂がかつて、集落と集落の境界地であり、

(その古地図でも端っこだった)

現在も豊島区と新宿区の境界地であるため、

目が行き届かなかったのが正直なところだ。

神田上水(神田川)に架かる面影橋は「大橋」となっており、

上水が出来る中世以前にも、

何らかの小河川があったことが想定し得るが、

水運の可能性は無さそうだ。

一方、雑司が谷の由来となった、谷戸の存在もおぼろげながら、

浮び上がってきた。

(写真 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 PR400)

| | コメント (0)

2009年12月26日 (土)

しょうが葛湯

B09122501

B09122502

B09122503

生姜と葛根、両方の薬効が期待できる「しょうが葛湯」が良い。

馬鈴薯澱粉で増量した製品が多いけど、

最近、わりと気に入っているものがある。

葛が多めに入っているようで、味もまぁまぁか。

しかも行きつけのドラックストアで@\158也(4袋入)

見つけた時にまとめ買いしないと、すぐに売り切れてしまう。

(写真 CX2)

| | コメント (2)

2009年12月25日 (金)

また年末年始の非日常が…

B09122402

今年は、いきなり年末年始の非日常に突入した感あり。

例年の如く、「アー否だ」 の季節には違いなし。

何事も無いような、静かで淡々とした日常がいいに決まっている。

それにつけても、毎度…

キリスト教関係者でもないのに降誕節を祝う異様さよ。

筆者親族に関係者は多いにしても、

筆者自身は年々臈長けるに、ますます宗教というものから離れ、

相対化するようになっているのは否定のしようがない。

べつに、世の人がそれに頼るのを止めはしないが、

こっちは「もういいだろう」という気分が強まる一方なのだ。

人類の歴史を知っていけば知っていくほどね…

Amazonにて購入、

「北条高時と金沢貞顕 やさしさがもたらした鎌倉幕府滅亡」

(永井晋著 山川出版社 2009)

「弾左衛門とその時代」(塩見鮮一郎著 河出文庫 2008)

「被差別部落の歴史」(原田伴彦著 朝日選書 1975)

加えて本日発注、

「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」

(安田元久著 有隣新書 1984)

「中世史用語辞典」(佐藤和彦編著 新人物往来社 1991)

いずれも今まで買い損なっていたものを。

(写真 CX2,GX200)

| | コメント (0)

2009年12月24日 (木)

別所坂にて(4)

B09122301

B09122302

B09122303

さて、B説だが、今のところ最有力なのは確かだ。

でも、別所の地名由来には答えていない。

吾妻鏡の出てくる「目黒の別所の某」という名前も、

目黒氏の一族で、別所というところに住んでいる者といった、

意味合いで、中世ではよく言い慣らわした通称であろう。

ここの別所の起源が鎌倉期以前に遡る可能性はある。

ただ、この界隈に地名の由来と関連しそうな、

古い宗教施設が見当たらないのが気になる程度か。

それはそうと、目黒一族の館址のこと。

前を流れる目黒川に河口の品川津から船が遡って来て、

物資を降ろす「舟入場」が出来たのは大正末期だが、

江戸期にも、江戸湾から新鮮な魚介を運ぶ船が上って来ており、

それが「目黒の秋刀魚」のネタモトになったともいうから、

中世以前の水運も考慮に入れてよいだろう。

もちろん、最寄りには目切り坂、宿山橋の中世古道が通る。

別所坂の谷戸の微高地に、この水陸両方の交通を監視出来る、

かつて「別所台」と呼んだところがあって、

現在、その辺りが館址とみられているのだが、未調査である。

 (一番下の写真は、

  1990年に碑文谷・円融寺の隣接地で発見された、

  目黒区で最初の中世遺跡から出土した遺物。

  10/14 投稿 もう一つの暗闇坂④~⑥ 参照

  16C戦国期頃の天目茶碗、かわらけ、古瀬戸片など)

(写真 CX2)

| | コメント (0)

2009年12月23日 (水)

別所坂にて(3)

B09122102

B09122201

まず、昨日のA説についての論点。

学芸員の方によると…目黒川流域は低湿地で水害多く、

目黒川の水も海水が混ざるので灌漑に使えない。

耕作には全く不適で、別所坂近辺の水田開発は難しい。

…因ってこの説は採らず。

対して筆者は…別所坂近辺の淀橋台の崖線は入り組んでいて、

鎌倉あたりの谷戸のようであるから、必ず湧き水があるはずで、

小規模ながら、中世以来の古い棚田状の谷戸田が、

あったかもしれない。

(この辺は筆者幼少期の育った環境が影響しているかも)

もちろん、対岸目黒台の開けた良田は本村、否、

中世荘園の呼び方では、「本所」(ほんじょ)であって、

正式な課税対象である。

対して、こっち側の境界地にある条件のよくない棚田は、

課税対象から除かれた「別所」(べっしょ)となったのではないか。

…故に、この説を捨てることはなく保留とした。

「別所の起源説」に「別名」(べつみょう)と同じく、

荘園または国衙領で、課税外の私領と認められた、

新規開墾地や条件の良くない水田を(本所に対して)

そう呼んだというのがあり、

(筆者はこの説にある程度、説得力を認めている)

当地の場合、地形の状況からその可能性をみたわけなのだが。

(写真 CX2)

| | コメント (0)

2009年12月22日 (火)

別所坂にて(2)

B09122101

B09122103

めぐろ歴史資料館は別所坂の最寄りにある。

目黒川を渡り、山手通りを五反田方向に5分程度歩いた、

元区立中の建物の中で、去年の8月に開館したばかりだ。

歴史考古担当の主任学芸員の方から、

(どういうわけか胸の振り子さん似の方でした。失礼しました)

別所坂の「別所」の起源について詳しく伺うことが出来た。

現在、提起されているのは、二つの説らしい。

まず、別所坂は渋谷恵比寿側、標高50mの淀橋台(地)から、

目黒川の流れる谷底に下っているが(上図参照)

かつてここは非常な低湿地で、対岸の目黒本村より、

かなり開発が遅れたから、本村に対する「別所」とのことで、

そのように呼ばれるようになったという説(A説と呼ぶ)

もう一つは、東京都や目黒区も採っている説だが、

目黒の地名が出てくる唯一の中世史料、吾妻鏡を典拠とするもの。

頼朝に従った御家人の中に目黒姓の者が数名おり、

その一人が「目黒の別所の何某」と名乗っているのである。

また、江戸期の資料、新編武蔵風土記稿に地元伝承で、

ここに目黒一族の館址ありと載せているため、

それも補強史料とする、目黒氏館由来説(B説と呼ぶ)

さて、これらの説を学芸員の方と一時間以上にわたって、

批判検討することになった…

(写真 CX2)

(上図は資料館発行「目黒の遺跡」よりCX2の文字モードで撮影)

| | コメント (2)

2009年12月21日 (月)

別所坂にて(1)

B09122001

B09122002

B09122004

B09122005

別所坂は急坂である。

上がりきる直前、右に直角に折れ、左手に庚申塔を見ながら、

最期の階段を登る。

さて、この坂上にも富士塚があった。

「目黒新富士」という。江戸・文政年間に築かれ、

目切り坂上にあった「目黒元富士」とともに有名で、

(10/31 宿山橋の月を観ばや 参照)

あの広重の名所江戸百景でも描かれている。

1959年まで現存していたらしいが、その後、開発などで失われた。

1991年、マンション建築の際に発掘調査がおこなわれ、

珍しい上下二層構造の胎内洞窟がほぼ完全な状態で見つかった。

発掘された多くの富士信仰関係の遺物の中に、

当時の富士講の信者が寄進した、

極めて保存状態のよい石造の大日如来像があり、

現在、目黒区めぐろ歴史資料館で展示されている。

早速、拝観に行ったのは言うまでもない。

そこでまた、いろいろなことが判明したのだが、

これもまた明日…

(写真 CX2)

| | コメント (2)

2009年12月20日 (日)

別所坂へ

B09121901

B09121902

B09121904

B09121905

前世紀の終わり頃までは、

渋谷駅近辺から富士山を望むことが出来たはずだ。

久しぶりに、筆者の知るそのスポットへ行ってみた。

今でも、辛うじて見えるのを確認する。

まぁ、CX2の300㎜ズームの力を借りはしたが。

それはそうと、今日の探索の目的地は「別所坂」である。

胸の振り子さんのブログでの、

(右ブックマーク欄 “A Moveable Feast” 参照)

「別所」をめぐる論考を読んで、そう言えば…との仕儀なのだ。

富士を拝してから足を南方に向け、

目黒川に沿って歩行すること20分弱。

「宿山橋」と(10/31 投稿 宿山橋の月を観ばや 参照)

中目黒駅を過ぎ、川幅が広がったところで、

「田楽橋」(でんがくばし)に行き当たる。

(その名の中世的な響きの心地良さよ)

たもとの狭い道を左折し、

「この先階段あり車の通り抜け出来ません」の表示で、

何故か、いよいよ膨らむ期待…

谷戸を想わせる地形に入り込み、急斜面が覘くと坂道があった。

「別所坂」の標識を見つける。

(もったいぶって明日に続きます。ご容赦を…)

(写真 CX2)

| | コメント (0)

2009年12月19日 (土)

ネックストラップを交換する

B09121801

新宿へ所用ついでにヨドバシに寄り、

切れかかっていたネックストラップを交換(一昨日の投稿参照)

コンデジは一点吊りのネックストラップが殆どだが、

CX1やCX2は二点吊りが使えるので重宝している。

筆者は、ポケットにものを入れて歩くのを好まない主義であるから、

撮影スタイルとして、ネックストラップを使わざるを得ないのだ。

でも純正品はともかく、汎用品では気の利いた、

コンデジ用の二点吊りネックストラップはまず売っていない。

エツミという用品メーカーがGR用に作ったものを見つけたが、

まことに野暮ったいデザインにて、どうにもならず。

ヨドバシのスタッフの方にも聞いてみたが、

やはり、まったく人気がないそうだ。

そういうことで、今回もやむを得ず、前回と同じ純正品に。

切れかかったネックストラップほうは、

リコーの担当者に見せてと、スタッフの方に託しておいた。

今まで、半年でこうなった経験は無いし、

もし切れてカメラが落下しようものなら、

由々しき仕儀に至るのは云うまでもないからだ。

今日はCX2のミニチュアライズモードでちょっと遊んでみた。

(写真 CX2)

| | コメント (0)

2009年12月18日 (金)

ハイコントラスト白黒モードを試す

B09121701

B09121703

B09121704

B09121705

CX2に新しく付いたハイコントラスト白黒モードを試してみた。

モノクロフィルムの粒子荒れの再現が結構うまくいっていると思う。

あっという間に100枚以上…

これは楽しめる。暫くハマリそう。

いわゆる「森山大道調」なんだろうが、

こういう風に撮ると、ごくつまらん写真も、

何か深い、意味ありげなものに見えてくるな。

CX2の操作感覚はCX1と変わらず、誤操作も全くなし。

但し、ズームレンズの望遠側が200から300に伸びたので、

レスポンスがやや遅くなっているようだ。

(写真 CX2)

| | コメント (0)

2009年12月17日 (木)

CX2導入

B09121602

冬らしい一日。

本日、CX2を導入した。

今回は中野ではなく、地元のカメラのキタムラにて購入。

時々、覘いてはひやかしていたが、

ここにきて、かなり価格で折り合いがよくなり、

古いR4も快く引き取ってくれた(@¥1000也…)からだ。

CX1のほうは、今夕、某家にある使命を帯びさせて派遣した。

(5/3 投稿 CX1導入 参照)

この春の5月2日に導入して以来7ヶ月、ほぼ毎日持ち歩き、

少なく見積もっても、15000カット以上は撮っているだろう。

純正のネックストラップを外してみたら、

先端のカメラボディに差し込む部分が、

ボロボロになって切れかけていた。

今度はもう少し気の利いたネックストラップを探してみよう。

今宵はCX2のカスタマイズを完了し、明日からの試写に備える。

(写真 CX1)

| | コメント (0)

2009年12月16日 (水)

宿坂にて(3)

B09121403

B09121404

さて、最後に寄ったのは、この界隈最古刹の法明寺。

有名な鬼子母神堂はこの寺の境内である。

中世の都市的な場に立地する寺院のお約束通り、

ここも日蓮宗で、しかも4つの塔頭を擁する大寺だ。

開山は平安初期、もとは真言宗だったが、

鎌倉期に日蓮宗に改められた経緯は碑文谷・円融寺と似ている。

(10/14~16 投稿 もう一つの暗闇坂④~⑥ 参照)

本堂裏手の墓所に足を踏み入れてみると、

豊島区が立てた案内板に小幡景憲の墓とあった。

武田家旧臣で後に徳川家に仕えた軍学者。

あの甲陽軍鑑の編纂者にて、ここでこの人とは奇遇だ。

(2008 4/15~18 投稿 勘助のイメージ③~⑥ 参照)

しかし、かなり広大な墓域なので、

その場所は特定出来ず。次回を期すことにする。

雑司が谷に墓所が馴染むのは決して偶然とは思えない。

中世世界以来の境界地の記憶が、

いまだに息づいているとしか言い様がない、何かがある。

たしかに、墓石の間から望むサンシャイン60は、

異界を今に覚えるに、十分な光景なのだ。

(写真 CX1)

| | コメント (0)

2009年12月15日 (火)

宿坂にて(2)

B09121401

B09121402 

宿坂に設置されている豊島区の案内板に、

興味深い記述を見つけた。

江戸中期の記録によると、

室町中期の文明年間、ここには関所があったという。

江戸名所図会でも、坂の途中、絵の右上部に、

「宿坂関旧址」の平場が描かれている。

(昨日投稿の一番上の写真 参照)

関所といえば、江戸期の箱根関所のようなものを思い出すが、

中世の関所は、ちょっと違う役割を果たしていた。

「関銭」(通行税)を徴収する施設なのである。

この関は重要な施設であったらしく、

「関東お留めの関」とも呼ばれていた。

「関東」とは、鎌倉に在った関東公方が、

直接支配した関のことを指すではないかと思われる。

ここに関がおかれていたのは、

すでに、この坂界隈が境界の要地として、

都市的な場の「宿」が発達し、

大いに賑わっていたことの証であると言っていいだろう。

中世世界では、主要な道の要所要所に、

地元勢力が管理する関があり、

水上でも「津銭」(入港税)を取るところが殆どだった。

地域が自前の財政を確立しなければならない「自力救済」の社会、

今風に言えば、地方分権型社会の表れでもある。

(写真 CX1)

| | コメント (0)

2009年12月14日 (月)

宿坂にて(1)

B09121301

B09121303

B09121304

雑司が谷でみつけた中世遺跡から中世古道の跡を辿って、

宿坂界隈を探索してきた。

宿坂の坂下に金乗院という真言宗豊山派の寺がある。

(あの紀州根来寺の新義真言宗の一派である。

 戦後、目白の地名の由来となった目白不動が移って来ている)

開山はそう古くなく、16世紀の天正年間というが、

その前の中世にも辻堂のようなものがあったかもしれない。

裏手の斜面に広がる墓所には、

江戸期の墓石(丸橋忠弥の墓も)が所々にあり、わりといい感じだ。

中世世界の坂は境界地であり、葬送地でもあったから、

ふさわしい立地なのだが、ひょっとしたら中世でも、

ここでは似たような景観がみられたのではないだろうか。

門前に豊島区の案内版が設置され、

江戸名所図会に描かれた宿坂の様子が紹介されている。

その頃は鬱蒼としており、狐狸が出たようで、

「暗闇坂」とも呼ばれるようになったとある。

(写真 CX1)

| | コメント (2)

2009年12月12日 (土)

「趣味」なんてごめんだ

B09121101

「…レベルの高いアマチュア、

 つまり他に仕事を持つ人をもっと社会的に評価してよい…」

オランダの経済学者で、写真や映像も手がける、

現代美術家でもあるハンス・アビング氏は、

公的な支援をあてにする安易なアーティスト志望者が増えている、

世界の美術界の現状を憂いながら、そう提言している。

この度、再出発を期して始動中の東京8x10組合連合会も、

こういったスタンスに立てたらと願う。

決して、自らの表現活動を、

「趣味の世界」に落とし込んでもらいたくない。

 (筆者が読まない作家ではあるが、

  村上龍氏の話題の近著「無趣味のすすめ」から、

  ここだけは頷けるものがありそうなので引用しておく。

 …趣味の世界には自分を脅かすものがない代わりに、

  人生を揺るがすような出会いも発見もない。

  心を震わせ、精神をエクスパンドするような、

  失望も歓喜も興奮もない。

  真の達成感や充足感は、

  多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、

  常に失意や絶望と隣合わせに存在している。

  つまり、それらは私たちの「仕事」の中にしかない…)    

日々の糧を得ている生業と同じように、

人生のいくつかの生業の一つとして、

写真表現活動を大事にしてゆきたいのだ。

この時勢、人生の貴重な時間を割いて、

作品を鑑賞しに来てくれる人が一人でもいるのなら、

その人の前で、失礼にも「私の写真はただの趣味で…」

なんて言えるわけがないではないか。

(写真 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 CENTURIA400)

| | コメント (7)

2009年12月11日 (金)

その前夜(2)

B09121001

子供の頃から、

父親の戦前の話、戦争中の話などをよく聞いていた。

今思えば、沢山のストーリーがあったのかもしれないけど、

それらをきちんと系統立てて記録したことはない。

父親の晩年は介護に追われ、いけないとは思いつつも、

時間だけはあっという間に過ぎ行き、

果たせないままになってしまった。

せめて、思い出すままではあるが、

このブログで折に触れて綴っていきたい。

一昨日、父親は砲兵に配属されたと書いたが、

それは三島に駐屯していた旧陸軍野戦重砲兵連隊である。

二つの連隊があり、そのどちらかであった。

その頃のかなり立派な連隊の記念アルバムがあったから、

(今でも倉庫のどこかに埋もれているはずだ。カーキ色の布表紙で、

 金色の星がエンボスで打ってあった)

それを見ればわかるだろう。

美術学校の研究科から徴兵されて入隊し、幹部候補生になって、

開戦直前に、連隊が出征していた中国大陸南部に派遣される。

小学生の筆者に父親は、

そもそも野戦重砲とは何かと、かなり詳しく教えてくれていた。

父親が扱っていたのは、15㎝榴弾砲という。

旧陸軍が野戦用に装備していた移動可能な最大級の砲だった。

所属も通常の連隊や師団ではなく、軍直轄の独立部隊であり、

それなりに誇りも高かったらしい。

作戦の必要に応じて前線に配置されるので、

開戦後、中国大陸から直ぐに南方に差し向けられ、

大変な激戦地を転々とすることとなった。

しかし、開戦前の中国大陸でも、

部隊は、ある重大な極秘任務に従事していた…

(写真 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 PR400) 

| | コメント (0)

2009年12月10日 (木)

文明論?

B09120901

去年の秋にセンチュリアで撮ったものを見返している。

やっぱり、生産中止は残念だ。今日の写真もその1枚。

………………………

与党幹事長、高野山での一連の発言。

「キリスト教は排他的で独善的」(イスラム教も)

「仏教は非常に度量の広い宗教」

「キリスト教を背景とした西洋文明は行き詰まっている」

7日に、彼は抗議するキリスト教団体の代表と面会するも、

文明論?の問題と開き直り、

(事実認識が誤っているのだから、文明論にもなっていまいよ)

理解が得られ、双方のメンツは立ったと握手までしたとか。

両者とも一体何をやっているんだか。

これでは茶番になってしまったな。

もとより、彼が言い放ったことは、

いちいち歴史的な事実をあげて、十分に反証可能である。

あまりに次元が低すぎてお話にならないだけだ。

ここで言いたいのは、

歴史的みれば、現存する全ての宗教が、

時に排他的になったり、寛容になったりと、

相矛盾する顔をあらわにしてきたということ。

これは、全ての宗教が逃れられない属性であり、本質なのである。

だから、特定の宗教を指差して、

排他的であるとか、寛容であるとかいうのは全くナンセンスなのだ。

(あんまり言い募ると、今度は自分が排他的といわれるぞ)

そういった視点から考えていけば、

現代世界で行き詰まりというのは、

西洋文明とか東洋文明を云々する以前に、宗教そのものが、

行き詰まっていることが明らかになってゆくわけだ。

その一方で、この騒ぎはネットであっという間に世界の津々浦々へ。

もう後の祭だろう。

(写真 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 CENTURIA400)

| | コメント (0)

2009年12月 9日 (水)

その前夜(1)

B09120801

太平洋戦争の始まった日。

その日に何を思ったか、父親に聞いたことがある。

(3/15 投稿 「勝てないことは判っていた」 参照) 

…父親は美術学校の研究科(修士課程にあたる)在学中に、

徴兵猶予を解かれて入隊した。

砲兵に配属され、ほどなく幹部に選抜されて教育を受ける。

見習い将校として中国大陸南部の前線に送られて間もない頃、

ある晩、部隊の将校だけが集められ、

上官から密かに告げられたという。

「明日、米英と開戦する」

今、使用している砲はボロボロだが、

新しいものが受け取れるのかと質問すると、

否、このままでやるとの答えに、一同沈黙するのみ。

学生から召集された者が多かったから、各々宿舎に帰りながら、

「一体、俺たちはどうなるんだ」と囁き合い、

絶望的な気持ちになった…

それが、5年に及ぶ地を這うような日々の始まりだったと。

(写真 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 PR400)

| | コメント (0)

2009年12月 6日 (日)

錦糸町から芝浦へ

B09120501

B09120502

B09120503 

午前中、錦糸町で所用を済ませた後、

総武線、山手線にて田町へ向かう。

途中、車窓より初めて「空樹」を見る。

灰色の空に浮ぶそれは、どこか既知感がある。

一体何と表現したらいいのか。

そうか、この感じは宗教施設の類にあったような。

古代の巨石とか、墳墓とか…

まぁ、古代の巨大構造物の殆どが維持不能になって、

放棄される運命を辿っているわけだけれど…

田町で下車、この街の海側に降りるのは初めて。

湘南の小さな駅前通りを思い出させる「なぎさ通り」を抜けて、

芝浦のフォト・ギャラリー・インターナショナルに至り、

「三好耕三 作品展 “SAKURA 櫻覧”~12/25」を観る。

8x10と16x20の大型カメラを駆使して、

モノクロームで撮影された各地の桜の古木たち。

満開の桜が放つ、あの空気と匂いが伝わってくるのが判る。

筆者も、かつて桜の古木を追った経験があるからだ。

主観を抑え、実に淡々と、自然に撮っているという印象を受ける。

夕刻、再び冷たい雨に遭う。

(写真 CX1)

| | コメント (0)

2009年12月 5日 (土)

甘口のワインのように…

B09120401

スペシャル大河ドラマというわけで「坂の上の雲」が始まっている。

そこで、書棚の底を浚って、

昔読んだはずの文庫本を探すが見つからず。

そういえば、8巻のうち数巻を読んで止め、

古本屋に出したのを思い出した。

あたかも、口当たりのいい甘口のワインのように、

この小説はあまりに調子よく読めるから、

これはきりが無いと思ったからだ。

貧しかったけれども夢を目指し、活気に溢れたまっとうな時代。

そんな明治という、時代把握にも馴染めなかった。

この時代の実相と暗く悲惨な側面(大逆事件等々の)は、

どうなのだろうかと…

今時、金をかけた今回のTVドラマは出だしからありきたり。

BBCのような、要所に専門の研究者をコメンティターに起用する、

実証的なドキュメンタリー・ドラマに仕立てたほうがよかった。

唯一、期待するのは正岡子規の描き方と時代考証のみ。

(写真 CX1)

| | コメント (4)

2009年12月 3日 (木)

坂に魅かれる

B09120201

坂にまつわる話に魅かれているのは、

もともと、坂の街に育った記憶があるせいなのだろうか。

幼年期を過ごした横浜・金沢の旧居も坂の上だった。

(大河ドラマのほうの「坂の上…」は、また稿を改める)

麻布の「暗闇坂」から、目黒の「目切り坂」(暗闇坂)

そして、雑司が谷の「宿坂」(暗闇坂)へ誘われた道程は、

中世の古道を辿ることにもなり、結構楽しめた。

すべて「暗闇坂」という呼び名があるのも、面白かったが、

それは近世・江戸期には、これらの坂が、

鬱蒼とした林や藪に戻っていたことによるらしい。

中世世界では、坂は境界地の象徴だった。

坂下、坂上には様々な生業の「道々の輩」が集住することが多く、

都市的な場=「宿」を形成して、繁華だったのである。

しかも、土地の記憶は確実に残り、今でも注意深く目を凝らせば、

その痕跡を必ず見つけることが出来るのだ。

写真は去年の秋、鎌倉・極楽寺坂にて。

…センチュリア買い置きせんと覚えしが、

  今は後悔すれど詮無き…

(写真 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 CENTURIA400)

| | コメント (0)

2009年12月 2日 (水)

日々の写真 12/1

B09120102

B09120103

さっきまでNHKのハイビジョンで、

「プレミアム8 巨匠たちの肖像 土門拳・仏像を撮る」

を視ていた。

遺品のジナーを使った土門の撮影技術の実際と、

再現撮影は興味深かった。

当時の助手の方々や撮影現場に居合わせた人々の証言は、

初めて明かされることもあって貴重だ。

土門の文章を朗読する大滝秀治氏が渋い。

コメンティターの佐高信氏は久しぶりのTV出演か。

(2008 1/19 投稿 「鬼が手伝う…」 参照)

その裏のBS2で「マジソン郡の橋」をやっているな。やれやれ…

夕刻、薄暮の街で少し撮影する。

(写真 CX1)

| | コメント (0)

2009年12月 1日 (火)

根津にて(2)

B09113001

B09113002

B09113003

昔、大判写真サークルで関西のメンバーの方々と、

各地の撮影地情報を交換し合った時に、

「京都、奈良はいいお寺があるでしょう」と聞いたことがある。

そうしたら、頭を振って駄目との話だった。

「お寺さんの多くが、個々の事情はあるにしても、

 とても閉鎖的で、敷地の外で撮っても飛んでくる始末で」と。

「まぁ、折角いらして、不愉快な思いをしても何だから、

 お寺さんは止めにして、お宮さんに行って御覧なさい」とも。

つまり、殆どの神社は撮影者に寛容なのだという。

「どうしても、お寺さんを撮りたいなら、

 四国のお遍路さんぐらいですな。

 あそこは全部ウェルカムですから…」

なるほど、これを聞いてから、神社の印象はよくなったし、

実際、あちこちでその通りの経験をしているわけなのだ。

(写真 CX1)

| | コメント (0)

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »