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2010年2月の記事

2010年2月28日 (日)

錦糸町から上野へ(1)

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錦糸町にて所用の後、昼前に上野へ。

途中、車内より「空樹」を観察。

カメラのアングルが変わり、首がちょっと痛くなる。

この前より大分、成長したわけだ。

それはそうと、上野のほうは東博、

「没後400年特別展 長谷川等伯」(~3/22)を観に。

今回、名品はいろいろあれど、当方の目当ては、

問題の「重文 伝・武田信玄像」

(高野山・成慶院蔵 展示は3月7日までなので注意)

なのである。

まぁ、とりあえず、今宵は一呼吸置いて、

云いたいことは明日に送る。ご容赦。

(写真 CX2)

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2010年2月25日 (木)

街頭テレビ

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例年の如く、申告書類を提出に税務署、区役所へ。

去年は一日前の冷たい雨の降る日と記憶する。

今年は五輪中継を送る「街頭テレビ」の前を通る。

「街頭テレビ」と言えば、テレビ草創期。

その光景を写した写真には魅かれたことがある。

テレビに見入っている人々のほうに興味を持ったからだと思う。

(多分、そのテレビが伝えていたであろうことよりもずっと…)

それは、今でも変わっていない。

ちょうど、中世の絵巻物の世界に描かれた人々に、

魅かれるのと同じくらいに…

(写真 CX2)

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2010年2月24日 (水)

「フィルム飢饉」

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28歳で夭折した映画監督、山中貞雄のドキュメンタリーを視る。

…NHKBS 山中貞雄生誕100年

  「チトサビシイ 残された3本に輝く天才」…

戦前の日本映画界にあって、時代劇に特異な才能を発揮した山中。

彼の活動期間は僅かに5年に過ぎず、

全26作品中、現存するのは3本のみという。

戦時下のフィルム不足により、既存のフィルムの乳剤を剥がして、

再利用したため、多くの作品が失われたからだ。

今月号のアサカメでは、通巻1000号記念の記事の中で、

その当時の状況を顧みて、「フィルム飢饉」という言葉を使っていた。

写真、映像の記録とは、一握りの憂う人々の、

献身的な努力が無いと、残らないものだと痛感する。

それにしても、昨今も「フィルム飢饉」の懼れとは是如何?

(写真 CX2)

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2010年2月22日 (月)

江戸に魅かれはじめた…

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かつて、道玄坂下にあった富士講「山吉講」のことを調べていたら、

この街を見る視点が、気持ち変わってきたような気が…

江戸という世界にも、魅かれはじめたらしい。

江戸といえば、大河ドラマ「龍馬伝」の本筋のほうはともかくとして、

バックグランドの、幕末の江戸市中、日本橋、街道筋、家屋、室内、

行き交う様々な生業の人々の風俗など、描き方がとても細かい。

今までの、この時代を扱った大河の中で、

時代考証に一番、力が入っているのではないか。

案外、ベアトの写真なんかを参考しているのでは…

(写真 CX2)

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2010年2月19日 (金)

夜半の雪

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夜半の雪。

目を閉じても、漆黒の中を舞い続ける。

…………………

「新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」

(藤木久志著 朝日選書)は、前々から気になっていた。

今、読む気になったのは、年始に視たNHK教育の、

「日本と朝鮮半島2000年 第8回 秀吉の朝鮮侵略」と、

「第9回 朝鮮通信使 ~和解のために~」がきっかけ。

秀吉軍が拉致した半島の住民が5万から20万人に達するという、

最新の研究成果が紹介されたのだ。

異論もあろうが、筆者には十分頷ける数字だ。

また、江戸初期に始まった通信使の本当の目的が、

拉致された人々の奪還だったという切実な事情も明かされていた。

背景には「人取り」と呼ぶ、

日本の中世・戦国社会の凄まじい風習が存在するのだが、

本書では、その辺を実証的に論考しているのである。

早速、読み進めることにする。

(写真 CX2)

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2010年2月18日 (木)

ちりめんキャベツのスープ

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パスタに使った、ちりめんキャベツの残り半分でスープをつくる。

つくり方は…

スライスした玉葱半~1個とベーコン3~4切れを、

オリーブオイル少々でいためる。

玉葱がしんなりして透明になったら、刻んだちりめんキャベツを入れ、

水1~1.5ℓ、固形ブイヨン2個、プロヴァンスハーブ小さじ1で、

鍋に蓋をして煮込む。

(最初は中火、煮立ったら弱火で計30分くらい。

 筆者は熱伝導性がよく、圧力がかけられる特殊な鍋を使用)

ベーコンと野菜から味が出るので、味付けは必要なし。

仕上げに、キャベツ料理にあう、

アルザスのストラスブール・ソーセージを温めて添えて出来上がり。

ちりめんキャベツの旨みと甘さが十分に出て、実に美味しい。

しかも簡単で、身体が温まる。

パスタより、こちらのほうが正解だった。

………………………

「カメラマガジン№12」という雑誌に、

東京8x10組合連合会の面々が紹介されている。

最寄りのブックファーストで見つけて、購入しようと思いつつ、

その前に引っかかって、別の三冊を…(ジュンク堂の反動か?)

「漆の文化史」(四柳嘉章著 岩波新書)

「新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」

(藤木久志著 朝日選書)

「日本史への挑戦 関東学の創造をめざして」

(森浩一・網野善彦 ちくま文芸文庫)

カメラマガジンのほうは次の機会に。

記事は好意的だし、皆さんもよく写っていたのでひと安心。

(写真 CX2)

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2010年2月17日 (水)

渋谷の富士講(4)

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江戸っ子を震撼させたある事件は、例の別所坂上にあった、

「目黒新富士」をめぐって起きていた。

(2009 12/21 投稿 別所坂にて① 参照)

(2010 1/1 投稿 目黒新富士 参照)

「藤岡屋日記」によると…

(幕末期-1804~68年-の江戸市中の出来事や事件、

 噂などを町民、藤岡屋由蔵の視点から収集、記録した日記。

 全152巻に及ぶ。藤岡屋はジャーナリストの走りか)

文政9年のこと。別所坂上に屋敷を持つ下渋谷の百姓半九郎は、

富士講の講員で、ここに仲間と富士塚を造ろうと思い立つ。

自分たちの力だけでは無理なので、当時、羽振りの良かった、

幕臣、近藤重蔵に協力を仰ぎ、別荘地を提供して、

その中に富士塚を完成させた。

眺望の良さもあり、この富士塚はたちまち人気スポットに。

つめかけた見物人を目当てに半九郎は蕎麦屋を開き、繁盛する。

重蔵の別荘の客にも、半九郎の店から出前を出していたが、

代金を支払わないので、半九郎は注文を断るようになった。

重蔵は怒り、別荘の周りに垣根をつくって、

富士塚に入れなくしてしまう。

半九郎は話が違うと代官所に訴え出た。

しかし、相手が旗本で門前払い。

そこで、仲裁を頼んで話し合い、垣根を撤去することになったら、

突如、重蔵の息子、富蔵が家来を引き連れて乗り込み、

半九郎と使用人、半九郎の息子夫婦や孫まで5人を、

斬殺してしまった。

近藤富蔵は八丈島に遠島。重蔵も近江・大津藩お預けに決まる…

世に「鑓ヶ崎事件」として知られる一件である。

近藤重蔵は蝦夷地探検で知られる当代一流の知識人。

息子の富蔵も、流刑先の八丈島で、

後に柳田国男や折口信夫から絶賛されるような大部の地誌、

「八丈実記」を執筆するほどの人物だった。

ついでながら、2004年の奥田瑛二監督の「るにん」という映画では、

富蔵を作家の島田雅彦氏が演じていたようだ。

(写真 CX2)

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2010年2月16日 (火)

渋谷の富士講(3)

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富士講が流行したのは、江戸市中と周辺の関東地方に限られる。

云ってみれば、朝な夕なに富士山が望める地域であるから、

極めてローカルなムーブメントなのであった。

そのせいか、富士講の研究もローカルなものに止まりがちで、

注目されるようになったのは、ごく最近のことだ。

江戸後期、富士講が平等主義や世直しを標榜するようになると、

尊王思想とも結びついていく。

しかし、明治維新の神仏分離は少なからぬ影響を与える。

もともと富士信仰には、

神仏習合や道教的な要素が強かったにもかかわらず、

神道に入らざるを得なくなった為だ。

 (修験道は禁止され、密教や神道に分割帰属させられたが、

  戦後は元に復している)

祭壇や礼拝する画像から仏像を外すこともあったようだ。

それでも、いくつかの富士講は(渋谷道玄坂の山吉講も)

大正、昭和初期と活動を続けるが、昭和30年代頃にはほぼ消滅し、

富士講を母体とした神道系の新宗教、

「扶桑教」「実行教」「丸山教」に受け継がれていった。

現在、富士講の名残りを留めるのは上記の団体だけである。

さて、次はあの富士塚の話。

これには、江戸っ子を震撼させたある事件が絡まるのだが…

………………

新宿へ所用ついでに、初めてジュンク堂へ。

探していた中世史の絶版書や地方出版物をいくつも見つけ、

大いに心動くが、手元の書がかなり積み上がっているので、

今日は我慢。

これからは、しょっちゅう覘くことにする。

(写真 CX2)

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2010年2月15日 (月)

渋谷の富士講(2)

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富士信仰を初めて教義化したのは、長谷川角行(1542~1646)

という戦国期の行者だった。彼は富士山麓の「人穴」と呼ばれる、

風穴に入り、厳しい修行を積む。

後に「人穴」は行者や先達たちの墓が立ち並び、

富士信仰の聖地となっている。

角行は「富士行者は宗教活動を稼業にしてはならず、

別に自分の家業を持ち、それを大切にしなければならない」と教え、

これが富士講の根本教義となった。

その角行から四代後の弟子が食行身禄である。

富士講は身禄の入定後(享保13年1733)

娘や弟子の吉田平左衛門らが中心となって、

設立したのが始まりとされる。

身禄は伊勢出身の油売りで財を成したと云うから、

中世世界の「道々の輩」の系譜に連なる人だろう。

(渋谷・道玄坂の吉田平左衛門も、大地主ながら、今のところ、

 家業がはっきりしない。名主的存在と考えられているのだが、

 筆者は、彼も同系統の人だとにらんでいる)

彼は祈祷や呪術に重きを置かず、慈悲と正直の心、

勤労と平等な社会を理想とし、信仰に男女の別は無いと、

事実上の男女平等を説いた。

(江戸期の山岳信仰では、女人禁制が一般的だったが、 

 身禄は女性の富士登山を認めている)

そんな訳で、江戸幕府は富士講をご政道批判の、

「危険思想」とみなし、度々、禁制を出すに至る。

しかし、実際に弾圧されたことはないようで、

江戸庶民の根強い人気は明治維新まで続くのである。

(写真 CX2  今日の109界隈と「人穴」で修行する角行)

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2010年2月14日 (日)

渋谷の富士講(1)

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「特別展 渋谷の富士講 ―富士への祈り―」

(白根記念渋谷区郷土博物館 ~3/22)を観て来た。

富士講とは、江戸中期(享保年間)以降、江戸、関東地方を中心に、

盛んになった、富士山を神として信仰する人々の組織だ。

中でも最大規模といわれる「山吉講」が本拠地を置いていたのが、

渋谷の道玄坂なのだ。

主催者(講元)は、地元渋谷の大地主にして、

伝説的な富士行者「食行身禄」(じきぎょうみろく 1671~1733)

…享保の大飢饉による打ちこわしの頻発を憂い、

 政道批判、世直し祈願のため、富士山入定を果たした…の、

直弟子でもあった、吉田平左衛門である。

彼の屋敷は現在の109(マルキュウ)の裏辺りにあり、

隣接して、信者のための道場や長屋もあった。

「山吉講」は傘下に「枝講」と呼ぶ支部を30以上持ち、

最盛期には信徒数万に達していたという。

今回の特別展はその吉田家(現在は世田谷在住)から、

寄託された史料を中心に構成されている。

例によって、学芸員の方から、いろいろと興味深い話を、

伺うことが出来たので、紹介していこう。

(写真 CX2)

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2010年2月13日 (土)

ちりめんキャベツのパスタ

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ちりめんキャベツで、まずパスタをつくってみた。

ちょっと上等な豚もも肉のハム、

(味出しになるので重要。100gで¥500前後)を用意して、

シンプルなトマトソースで仕立てる。

具材は圧力のかかる鍋で蒸し煮に。

ちりめんキャベツの甘みと、微かに残る苦味に春を覚える。

………………

中朝国境にて人身売買横行のニュース。

この国でも、違法でありながら、

やっと下火になったのは、つい戦後のことだ。

中世世界では、能や説話の題材になったくらいだし、

「乱取り」(乱妨取り)とも云って、

戦国期の勝者の役得になったほど。

今まで、どちらかと言えば研究が遅れていた分野だと思う。

最近、気になる史実も耳にしたので、少し調べてみよう。

(写真 CX2)

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2010年2月12日 (金)

ちりめんキャベツ

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フランス料理やイタリア料理でよく使う、

ちりめんキャベツ(サボイキャベツ)が手頃な値段になっている。

購入するに、埼玉県産で、1個@¥280也 

以前は輸入物が殆どで、千円近くした。

火を通すと甘みが出て、煮込んでも形崩れしないのが特徴だ。

早速、これを使ったレシピを考えることにする(紹介は後ほど)

…………………

昨日の残りのほうとうを食すに、こんなに美味かったとは。

そういえば、

父親も「ほうとうは翌日のほうがいける」と云っていたな。

…………………

これから、昨夜に引き続き、BSハイビジョンにて、

イースドウッド監督の「硫黄島からの手紙」を視る予定。

既にDVDで観ているが、一連の硫黄島二部作は、

(2009 1/2 投稿 「硫黄島からの手紙」を観る 参照)

続けて観ないと、判らないことがあるやも知れぬ。

昨夜の「父親たちの星条旗」でも考えさせられること多し。

(写真 CX2)

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2010年2月10日 (水)

宿坂界隈

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NHKBSハイビジョンで、

「王たちの物語 名君フリードリッヒ大王の憂い無き砦」

を視ていた。

矛盾に満ちながらも、数奇な一生をおくり、

王権というものの限界を示したフリードリッヒ二世(1712~86)

音楽や芸術、学者、職人などの「道々の輩」をこよなく愛し、

「人道主義」を貫こうとした王だったのは確か。

戦争とか、いろいろあっても、人々の記憶に、

「暴君」としては留められなかったようだ。

200年後の1991年、やっと遺言通り、サンスーシ宮の、

「葡萄の岡」に葬られる。

じゃが芋が供えられた、ごく簡素な墓碑に親しみが。

やはり、興味深い人物だ。

(写真 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 PR400) 

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2010年2月 9日 (火)

やっぱり無理だった

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ビール洋酒業界のK社とS社の合併話。

やはり(予想通り)無理だった。

この間の経緯については、

(2009.7/16 投稿 ちょっとした見もの 参照)

この国を代表する大企業でありながら、

同族、世襲、その上、非上場のS社のような企業の存在は、

もう時代に合わないのだ。

多くのそのような企業が、前世紀末から、

次々と「ビックバン」を起して消滅していったが、

S社は最期に残った「大物」だった。

K社に「庇を貸して母屋を取られる」の、

(新会社の持ち株比率で議決権をものにしながら、

 自社の、否、創業家の資産守る)

やり方で合併し、上場を果たして、

生き残りを賭けたのだろうが、さすがに相手に見抜かれたわけだ。

前にも云ったように、この際S社は、

家業を売っぱらうほどの覚悟が必要だった。

創業家一族の人々が騒いだんだろうな。

いずれにしても、S社の今後は荊の道であることに変わりない。

考えてみれば、件の「自動車トップメーカー」も、

上場ながら同族・世襲か。

(写真 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 PR400)

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2010年2月 8日 (月)

水平線の彼方に春を見た?

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CX2の望遠側ギリギリで、

水平線の彼方に春が写ったような気分になる日和。

六本木の森美術館を覘く。多分初見だと思う。

「医学と芸術展」(~2/28)をやっていた。

入りはまぁまぁなるも、内容に練りが足りない。

「医学」と銘打ち名ながら、テーマが途中で、

「解剖学」「身体」「脳」「病」「生」「死」と、取りとめもなく変転する。

全て密接な関連性はあるのだが、

それぞれが個別にテーマになり得るほど重いものだからだ。

例えば「人間の身体と芸術」というふうにすれば、

少しはスッキリしたんだろうか。

肝心な展示のほうは「小品」が目立ち、

中にはテーマとの関わりに首を捻りたくなる作品も。

(写真 CX2)

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2010年2月 7日 (日)

盛者必衰の理

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二月、一年の底に至って寒波到来す。北風強し。

虚空をちぎれ飛ぶは、日本海からの雪雲の切れ端か。

…………………

この国のメーカーに勤める技術屋さんが、

最も忌み嫌い、恥とする言葉は「欠陥」じゃないだろうか。

随分前だけど、あちこちの技術屋さんと話す機会があった時に、

そう感じたものだ。

特に「業界トップ」と言われるメーカーの人々ほど、

そんな傾向が強かったような気がする。

今回の「自動車トップメーカー」の品質疑惑、

技術屋さんの反発で「欠陥を認めるリコール」に踏み切れず、

社内がもめて、意思決定が出来ないでいると聞く。

気持ちの一分は判らぬでもないのだが、

そこには「人間尊重」の精神のカケラも入り込む余地が無いようだ。

世界中を敵にまわし、企業としては最悪の事態へ突き進んでいる。

まぁ、この会社、今までもいろいろあったらしいけどね。

…盛者必衰の理を表す…

(写真 CX2)

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2010年2月 4日 (木)

一遍上人語録

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葬儀、墓、著作、教団、そして自分の名前さえも、

遺すことを拒否した一遍に、宗教者としての一つの理想を見る。

「法師のあとは跡なきを跡とす。跡をとどむるとはいかなる事ぞ。

 われ知らず。世間の人のあととは、これ財宝所領なり。

 著相をもて跡とす。故にとがとなる。法師は財宝所領なし。

 著心離る。今、法師が跡とは一切衆生の念仏する処これなり」

…私の痕跡を一切、この世に留めておく必要は無い。

 世の人が遺そうと願うのは財宝であり、土地であろうが、

 これこそが誤りのもとなのだ。私には財宝も土地も全く無いが、

 今、遺すものと云えば、念仏のみである。たとえ何処であっても、

 人々が念仏するところに一遍は共にいるのだ…

                             (一遍上人語録)

筆者の周囲にいる、老後の蓄えやセカンドハウス、

挙句は副業や趣味に精を出す「宗教関係者」に聞かせやりたい。

(写真 CX2)

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2010年2月 3日 (水)

一遍の墓所

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一遍上人絵伝(聖絵)最期の場面。

五輪塔と一遍の像を安置した方一間の御影堂が描かれる。

正応2年(1298)八月二十三日、兵庫和田岬・観音堂にて、

一遍は入滅したが、弟子たちに一切の葬儀を禁じ、

遺体は野に捨て鳥獣に施すように言い遺していた。

(彼は、自分の教えは一代限りであるとし、

 宗祖と崇められ、教団が形成されるのを拒否している)

しかし、残された人々により、

一遍は観音堂の松の下で荼毘に付され、

絵伝のように(一遍上人絵伝は一遍死後10年に完成)

立派な墓所が立てられる(神戸・真光寺に現存)

ところが、さる阪神大震災のおり、五輪塔が倒壊し、

水輪上部(昨日投稿の図を参照)に穿たれた穴から、

備前焼の壷が転がり出て、壷中に火葬骨が発見された。

一遍のものである可能性が高いということになった。

筆者はこのニュースを聞いて、喫驚したことをよく憶えている。

(写真 CX2)

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2010年2月 2日 (火)

中世世界の石造物群

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先週、金沢・称名寺の金沢顕時、貞顕墓所を前にして、

振り子さんと、中世の五輪塔のフォルムについて、

いろいろと論じ合っていたのだが、

そもそも、中世世界の探索を志すのなら、五輪塔をはじめとする、

石造物群を知悉している必要がある。

フィールドワークでも、まず、必ず遭遇するのが、

江戸期の庚申塔はもとより、中世の夥しい石造物群なのだ。

五輪塔から派生したと考えられる板碑は、

関東地方だけでも、無慮四万基と云われ、

五輪塔に至っては無数…

中世人のこの執念を少しでも理解したいがために、

今一度、学び直すことにする。

写真は一遍上人絵伝より、辻に建てられた五輪塔と笠塔婆。

2008年の暮れに東博にて撮影した。

(写真 CX2/GX200)

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2010年2月 1日 (月)

宿坂の梅綻びにけり

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平行して何冊も読む悪癖直らず。でも、

「日本史鑑定 天皇と日本文化」(明石散人・篠田正浩 徳間文庫)

本日読了。

……篠田氏

 「…自分にとって映画を作ることが終点ではなく、歩くこと、

 定住しないことが、自分の求める秘密の場所への道ではないか。

 歩くのを止め、スタジオに籠って映画はこうですよと言ったり、

 ただ、学問として終わりにしたのでは、

 日本の中世の秘密の場所に行くことができないと思ったからです。

…私は日本の歴史学も考古学も全くの未成立だと思っています。

 天皇陵を発掘しないのですから、歴史学などありえないのです…」

必ずしも、すべてが筆者の見解と一致しないものの、

明石、篠田両氏のスパイシーな「歴史ホンネトーク」は、

結構楽しめた。

(写真 CX2)

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