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2010年5月17日 (月)

長篠合戦図

B10051601

B10051602

都写美の「ポートレイトが語る初期写真 侍と私」

「古屋誠一 メモワール 愛と復讐、共に離れて…」を観に恵比寿へ。

帰りは恵比寿から、例の「別所坂」へ抜ける古道をみつけ、

中目黒まで歩行する(都写美の写真展は後ほど)

夕刻、名古屋物産展に併設の「名古屋城とその歴史展」にて、

複製ながら、有名な徳川美術館の長篠合戦図屏風の中に、

武田家重臣、山県三郎兵衛昌景、討ち死にの場面と、

総大将、武田勝頼の姿を認める。

山県三郎兵衛が気になったのは、胸の振り子さんが、

連休中、長崎・生月島で発見した、武田三将図の影響だ。

その絵には、信玄と山本勘助、山県三郎兵衛が描かれていた。

生月島で捕鯨を営んでいた益富家に伝わったもので、

同家は平戸藩士・山縣家の親戚にあたり、

山県三郎兵衛の末裔と称しているらしい。

実証はされていないが、考慮してもよい伝承だと思う。

山県氏は美濃源氏・土岐氏の支流、

家紋は、長篠合戦図(上図左)の旗指物をみると「桔梗」のようだ。

尤も、討ち取られた三郎兵衛は、

「松笠菱」文様の直垂を身に着けていて、

生月島の三将図でも、同様な直垂を着ていた。

「松笠菱」は武田一族と有力な家臣に使われたと云うから、

山県氏もそうなのだろうか。

(写真 CX2)

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コメント

生月島は、帰りの遣唐使がこの島影が見えるとほっと「息をついた」からだと言ったりしますが、果ての果てまで流れて「行き着いた」島でもあります。
山形某氏の末裔が流れ着いたというのは、真偽はともかく、鯨組主の一族の伝承としてはふさわしい気がします。

投稿: 振り子 | 2010年5月17日 (月) 22時30分

やはり、「行き着きぬ」からきた島名でしょうね。へたくそな歌を詠んでいてそう思いました。益富家は平戸藩・山縣家の一族で、佐世保には山県町があり、佐世保山縣家ということで、山県氏末裔の人々の間では認知されているそうです。山縣家文書も伝わっているようです(佐世保市市史)
それはそうと、振り子さんの「行き着き島探訪報告会 参加費1500円」なんてどうでしょう(笑)

投稿: kansuke | 2010年5月18日 (火) 10時29分

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