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2010年7月 1日 (木)

山梨県博へ(3)

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山梨県博の解説員の方から、面白い話を伺った。

江戸初期の住倉了以の開削工事から始まり、

明治期の中央線や身延線の開通に至るまで、

甲斐―駿河間を行き交った、富士川水運のことだ。

陸路をとると、馬の背にせいぜい俵二俵を、

二、三日もかけて運ぶところを、高瀬船だと、

俵三十俵(約一トン)を僅か6時間で運んだと云う。

しかも、帰りは駿河の塩を満載して、

日本三大急流で知られる富士川を遡って戻る。

当時は動力が無いから、舟に5人位の男が乗り、

一人が櫂を取り、後は縄を掛けて舟を引っ張ったのである。

川岸に足場があるところはいいが、無いところは、

水に浸かりながら舟を引く、危険な重労働だった。

(幕末以降は、帆を張るようになったが、それでも、

 南風の時しか役に立たなかった)

5日もかかって、甲斐の鰍沢河岸に戻ったそうだ。

角倉了以以前の、中世世界ではどうだったか。

品川津で発見された、大型の常滑甕(舟でしか運べない)が、

富士川や支流の笛吹川流域でも確認されているから、

まったく同じ航路が使われていたらしい。

ここ石和も、二つの街道と富士川水運の接点で、

甲斐一番の都市的な場として、賑わっていたはずなのだ。

帰りのバス停の近くには、謡曲「鵜飼」の舞台と伝わる、

日蓮宗の鵜飼山遠妙寺があり、中世史スポットとしても、

この街は魅力に満ちている。

幸運にも、金精軒の元祖・信玄餅(幟が出ていた)を、

バス停前のパン屋さんで見つけ、購入する。

店の人と、やはり、ここのが一番と頷きあった。

一番上の写真…笛吹川の下流を望む(昨日のは上流方向)

一番下の写真…一遍聖絵に出てくる、中世の舟を引っ張る人々。

(写真 CX3)

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コメント

太古甲府盆地は湖だったそうで縁者の家の
裏手は高台なのでしたが、船着き場の跡が
ありました。

投稿: Tarning | 2010年7月 1日 (木) 12時46分

甲府盆地に流れ込む富士川水系の釜無川、笛吹川は大変な暴れ川です。周りの山地から出て、扇状地を形成しており、昔から鉄砲水のような水害を繰り返しているのです。川筋も大きく変えていますから、ご指摘のようなこともあるでしょうね。明治40年の大水害というのがあって、笛吹川も石和付近の景観を一変させてしまったそうです。1907年のことですが、地元では100年に1回は大水害があると言ってますから、そろそろ心配だそうですよ。

投稿: kansuke | 2010年7月 1日 (木) 18時58分

明治の大水害の時に生まれた大伯父の名は
洪(ひろし)。後年ブラジルに移民しました。
サンパウロで電気技師をしていました。
40年前に一時帰国されていて友人の胡椒の王様と日本中を旅したようです。

投稿: Tarning | 2010年7月 2日 (金) 08時46分

山梨県博でも「明治40年の大水害」はコーナーを設けて大きく扱っています。山梨の近代では一番の大事件だったのですね。郷土の景観を一変させただけでなく、多くの人々の、その後の運命を一変させてしまったということです。

投稿: kansuke | 2010年7月 3日 (土) 10時04分

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