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2010年10月28日 (木)

世田谷御所(1)

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世田谷代官屋敷界隈の探索を続ける。

世田谷城は「世田谷御所」とも呼ばれた。

あるいは、そう呼ばせていたのか。

中世後期、この辺りを領していた吉良氏というのは、

足利将軍家の一門では、斯波氏と並んで筆頭格だった。

もし、足利本家が絶えれば将軍にもなれる家柄である。

南北朝期に世田谷と横浜の蒔田に領地を得て、館を構えていた。

(ついでながら、元禄赤穂事件の吉良上野介義央は、

 鎌倉中期に分かれた、兄筋の家系だ)

官位は通常の大名より頭一つ上で、従四位下左兵衛佐、

征夷大将軍と同格といえなくもない。

足利一族の居館は例外なく「御所」と呼ばれていたので、

彼らもそれに倣ったのだろう。

上下貴賎、官位をやたらと有り難がる風潮が定着したのが、

(これが肩書きに病的に拘る、現代日本社会の原点だと思う)

中世後期の世界だったから、この一族、

周りから、実力以上にチヤホヤされていたはずである。

始めは古河公方に属し、戦国期に公方が没落すると、

後北条氏を頼り、姻戚関係を結ぶのに成功するが、

小田原落城で全てを失い、徳川の旗本として拾われるに至る。

下総に1200石をもらい、世田谷を落去、

さすがに「吉良」の名跡が憂さくなったのか、

横浜のほうの「蒔田」姓を名乗った。

(その後、元禄赤穂事件でもう一つの吉良家が断絶すると、

 吉良姓に復したようだ)

写真は世田谷城の南西にある勝光院の吉良家墓所。

下総に移った後も営まれ、墓石も近世のものが殆どだ。

(写真 CX3)

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コメント

蒔田の次駅の弘明寺に住んでいたことがあります。
蒔田は丘の上にお寺さんがあって、寺の名前は忘れましたが、桜が結構みごとだった記憶があります。
吉良ー蒔田氏と因縁があるのでしょうかね。

先日水戸へ石本泰博写真展を見に行ってきました。桜田門外ノ変から150周年ということで、ちょうど今映画も公開されていますね。
関鉄之介の日記からかなり詳しいところまで分かっていて、戦闘シーンは史実がほぼ再現されています。
去年は彦根城へも登ってみたので、両方から事件を見たことになります。

投稿: 胸の振り子 | 2010年10月29日 (金) 17時17分

吉良氏は蒔田にも館を持っていました。
蒔田城といいます。彼らは、そちらにも居住したことがあるようです。

弘明寺…あの匂い!が濃厚な門前町で懐かしいですね。高校時代の悪友が何人か住んでいましたよ。また、ちょっと探索してみたいです。

水戸の石元泰博展、是非、観たいのですが、難しいかもです。

桜田門150周年ですか。世田谷代官の大場家にも、当時の記録が残っています。井伊大老が病気で生きているという偽装工作をしたとかの日記でした。映画はご覧になりましたか?

投稿: kansuke | 2010年10月30日 (土) 01時42分

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