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2011年1月の記事

2011年1月31日 (月)

永楽銭(2)

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昨日、楽天のコインショップに発注していた、永楽銭届く。

@\250也

早速、先日八王子の有隣堂でもとめたカードホルダーに、

付けてみるに、なかなか宜し。

永楽銭と言えば、信長だが

今回の大河(何ていったっけ?)で本能寺をやっている。

毎度お馴染の光秀いじめは、早くも食傷気味だな。

ここら辺で、新たな光秀像の提案が欲しかったんだけど。

脚本家さん、勉強不足ですか?

このプロットはもう使えませぬぞ。

…………

本日、隣町の谷戸にある、例の菩提寺を探索した。

思いのほかの大寺である(まさに隠れ寺か)

袋状の谷戸に包まれた境内は、鎌倉の寺に酷似する。

とりあえず、詳細は明晩に送ることにして、ご容赦を…

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(写真 CX3)

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2011年1月29日 (土)

八王子にて(6)

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旧市街に所用があり、路線バスを駆って往く。

ところが、このバス、隣町の谷戸を、つまり、

次回の探索予定地内を突っ切るのである。

あの老翁の、菩提寺入り口前と、

(鎌倉などで見かける、典型的な谷戸に立地する寺のようだ)

殿ヶ谷戸を抜け、野猿峠を登る。

持参した地図を確認しながらの小さなバス旅となった。

峠近辺は著しく宅地化が進んでいるが、

横浜・金沢の朝比奈峠を連想させる、

境界地の雰囲気を辛うじて残している。

「野猿」という名前は、印象的ではあるけれど、

戦後になって、地元私鉄が使いだした通称らしい。

その前の古称を「猿丸山」(峠)と云う。

「猿丸山」は全国に点在し、

名前のとおり、三十六歌仙の猿丸太夫伝説に因むことが多い。

猿丸太夫は小野氏出自とも伝える。

平安後期から鎌倉初期にかけて、この辺りで威勢を張った、

横山党も小野姓を名乗っているから、そっちの関連性を、

もっと追求してよいかも知れない。

(こちらで、それを指摘した人を未だ知らないが)

さて、バスは峠を降る。旧市街が視界にはいってきた。

(写真 CX3)

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2011年1月28日 (金)

日々の写真 1/27

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ごく狭い地域に現れる、特徴的な気候を、

「ミクロクリマ」と呼ぶことがあるが、当地のそれは、

朝はよく晴れ、午後遅くから夕刻にかけて、雲が湧くのである。

時に、そのかたちがドラマティックであったりするので、

ついカメラを向けてしまうことが多い。

本夕、あの老翁の社上空に徒ならぬ黒雲を認む。

如何様、こは霊験に非ずや。

南無八幡…

(写真 CX3)

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2011年1月27日 (木)

武州玉川の図

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日々、都心に出る車窓から望む、多摩川の風景は、

いつ観ても、心騒ぐものがある。

先だっても、東博で鑑賞した、

北斎の「富嶽三十六景・武州玉川」の図。

河畔を行く人馬と、舫う船に象徴されように、

多摩川を通じての物流は、中世世界でも盛んだったはずで、

かつての武蔵国府、府中の経済を支えたわけだ。

でも、そのことに関する論考は未だ少ないようだ。

(写真 CX3) 

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2011年1月25日 (火)

やはり“TAOISM”があった…

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昨夜のNスペ「邪馬台国を掘る…」は久しぶりに面白かった。

この際、「邪馬台国が何処」なんか、どうでもよろしい。

と嘯けば、誰かに怒られそうだが、古代史の卑近の課題は、

そんなことでなくて、陵墓問題であることは論を待たない。

これを克服しない限り、古代史は「学」にはなれないだろう。

話は逸れたが、番組の内容で近年になくエクサイトしたのは、

話題の奈良・まき向遺跡で、

大量の桃の種が発見されたと伝えるレポートだった。

典型的な道教…“TAOISM”の祭祀跡である可能性が、

(極めて)高いのだそうだ。あの有名な、

魏志倭人伝の「鬼道を能くする卑弥呼」のくだりでは、

「鬼道」が道教を指す言葉だったとの説も説得力がある。

これまで、少数の研究者が、

指摘するに過ぎなかったけど、やはり、出てきたのだ。

道教の痕跡が、これほどの古層から見つかったとなると、

この列島(当然、視座は東アジア全体へ広がっていく)の、

宗教及び、思想史の再検討が必要になってくるだろう。

もちろん、神仏習合、本地垂迹説といった、

中世世界の宗教・思想状況も含まれるわけだ。

(写真 CX3)

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2011年1月24日 (月)

中世世界のパンク系?

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思い立って、午後から上野の東博へ行って来た。

時々、チェックしておかないと、とんでもないものが、

出品されていることがあるからだ。

殊に年始の特別展示(~1/30)もある。

やはり、案の定だった。いくつかあった中で、

今日は「融通念仏縁起絵巻」(重文15C)が第一の収穫か。

もちろん、初見である。

度々、中世史の専門書で目にし、

是非、実物を観たいとは想っていた。

非人、乞食たちに混じって、右上に、

度派手な格好をした「異類異形の輩」が描かれる。

いわば、中世世界のアウトロー、パンク系である。

これまでも、触れてきたように、

筆者はこういった人々に魅かれ続けているのだ。

(写真 CX3)

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2011年1月23日 (日)

隣町の宝きょう印塔

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隣町に現存と云う、室町初期の宝きょう印塔を探索して来た。

建売分譲地の真ん中に(異様に)ぽつんと残る小丘は、

浅間社の祠なのだが、その境内裏手にひっそりと、

その石塔はあった。

年期銘は判読不能ながら、形状から鎌倉などでよく見かける、

典型的な中世東国の宝きょう印塔とみた。

此処は沢筋の谷を見下ろす高台で、谷底を通る津久井往還や、

太田川をよく見渡せる。北面しているが、

地形として、中世の領主館が立地するに好適であろう。

当地の小字名を名字とする、武士の墓所と伝えるが、

それはさておき、付近の地名に、

「堀の内」「別所」「別所谷戸」「殿ヶ谷戸」と、

(この辺りでは「谷…ヤツ」ではなく「谷戸…ヤト」と呼ぶようだ)

極めて魅力的な名称が残っているのだ。

やはり、ぷんぷんと中世世界の匂いが漂ってきた。

(写真 CX3)

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2011年1月22日 (土)

再び世田谷宿にて

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今年、最初の世田谷、整形外科への通院。

薬局で時間がかかりそうだったので、

近所のお奨めの定食屋を紹介してもらう。

矢倉沢往還に沿い、

ちょうど世田谷新宿へ入る、クランクの角にある店で、

昼時とあって、店内は混み合っていた。

生姜焼き定食セット、肉多め、コーヒー付を頼み、

この前、郷土資料館で購入した、

「歴史と浪漫の散歩道 八王子市文化財ガイドブック」

(2006改定第三版 八王子教育委員会編 \1200)を読む。

終戦直前の八月二日「八王子大空襲」で、

旧市街の殆どを焼失していることがあり、

大して古いものは残っていないと云うのだが、なかなかどうして、

注意深くみれば、結構、興味深い中世遺物が散見されるのだ。

近世甲州道中の八王子宿の面影もさることながら、より古い、

中世の宿や市の痕跡が濃厚に見られる。それと、

これは世田谷宿や23区内の宿跡でも感じていたのだけど、

戦国期に後北条氏が、街道、宿、市の開設に、

深く関与したことの重要性にも、

あらためて注目していく必要があるだろう。

いわば、江戸徳川治世のインフラを形成していたのである。

(写真 CX3)

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2011年1月20日 (木)

八王子にて(5)

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地元の郷土資料館は1967年開館というから、

都下では、比較的早いほうだろう。

しかし、展示内容と、その史的視座において、

いささか古色を帯びているのは否定出来ない。

今日の中世史研究は、

様々の職能を持つ、民衆の視座が求められている。

例えば、道や水運を通じた活発な人々と商品物資の動き、

市、宿、津などの都市的な場の形成に、

目を向けることが不可欠だ。

領主、地頭、武士団、戦国大名といった、

表の高みに拠る視座だけでは、

見落とすものがあまりにも大きい。

中世の館跡や山城の近くに都市的な場が立地するのは、

領主が恣意的に呼び寄せたのではなく、

領主のほうが、魅かれてやって来たと見るべきなのだ。

中世末期に至って、やっと領主側が民衆のそういった活動に、

直接、権力を及ぼし、支配介入し、手元に取り込んで、

いわゆる「城下町」を作らせるようになっていく。

安易に「城下町」という言葉を使ってはいけないと思う。

(写真 CX3)

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2011年1月19日 (水)

八王子にて(4)

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隣町の谷戸の入り口を望む。

左手の谷戸の奥に、かの老翁が語るところの菩提寺と、

領主大石氏の館跡がある。

室町初期の宝きょう印塔も残されているらしい。

大石一族は八王子近辺に幾つか山城を持ち、

室町中期にはかなり威勢を張ったようなのだが、

戦国末期、主家筋の上杉氏の没落によって、

後北条氏に臣従せざるを得なくなる。

当時の当主、大石定久は北条氏康の三男、氏照を、

養子に入れ、自らは隠居の身の上となった。

(その辺は世田谷・吉良氏の境遇と酷似する)

しかし、菩提寺の伝承によると、憤怒のあまり、

近くの野猿峠で自刃し、其処に葬られたと云うのだ。

(何故、野猿峠なのか、そこは考証する必要あり)

資料館のボランティア解説員の方は、そっちの説を、

熱烈に支持しておられたけど、理解は出来る。

北条氏照のほうは、地味ながら、戦国ファンの間で、

人気があり、隠れたヒーローになっている。

勇猛果敢で戦上手、政治手腕もなかなかだった。

小田原籠城の後、切腹を命じられたが、

彼の築いた八王子城は、

中世山城と近世城郭の過渡期をなす存在で、

石垣が多用され、安土城の影響が顕著と注目されている。

八王子市は城址の整備に力が入っているそうだ。

(写真 CX3)

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2011年1月18日 (火)

八王子にて(3)

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都下の他の郷土史料館と同様、中世史コーナーが、

スカスカなのはやむを得ない。

例によって、展示は秩父青石の板碑や、

戦国期山城の出土遺物で占められる。

断片的ながら、根本史料の記述とか、

地元の伝承、僅かに残る石塔とかで、

一つの荘園(横山庄=船木田荘)が確認されているようだ。

領主は、平安後期の有名な横山党にはじまり、

何代かの変遷を経て、南北朝期から戦国末期にかけて、

上杉氏の家臣、武蔵国の守護代を務めた大石氏が、

(信州より入府と伝う)注目に値する。

もう一つ谷戸を隔てた隣町に館址と大きな菩提寺がある。

あの老翁が語っていた一族の菩提寺と同じだった。

曹洞宗で、いくつもの氏族の石塔があるらしい。

(いずれも、要探索なのは言うまでもない)

老翁の一族は大石氏配下の名主、地侍層だったのだろう。

それと、かつて、削られた尾根にあったという烽火台は、

より北東方向に、並ぶように後北条時代の烽火台跡が、

見つかっているので、此処にもう一つあったとしても、

極めて蓋然性が高く、新事実なのだそうだ。

(写真 CX3)

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2011年1月17日 (月)

八王子にて(2)

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当地の北風の冷たさに身震いする一日だった。

地元の郷土資料館を訪ね、旧市街に赴く。

ボランティア解説員の方の専門が戦国史とのことで、

(後北条氏の重要な支城、八王子城や滝山城がある)

詳しく、この地方の中世史について聞くことが出来た。

かの老翁の語ったことと、興味深い符合点があったが、

今日は身体が冷え切ってしまったので、暫時お休みを頂き、

明日へ送ることにする。ご容赦を…

おお寒む…

(写真 CX3)

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2011年1月14日 (金)

翁ありけり…(5)

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この日曜日に、不思議な老翁に遇って話したことが、

本当にあった事なのか、インフルの高熱の後遺症で、

まだ朦朧としていた頭が見た幻覚なのか、

実は、今ごろにになって自信が持てなくなっているのだ。

社の下、村境の小川のほとりに行ってみた。

老翁が語った往時の面影が残るはずもなく、

ただ、暗渠からの流れが其処にあるだけだった。

(写真 CX3)

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2011年1月13日 (木)

翁ありけり…(4)

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かの老翁は、頼朝から拝領したこの地で、

名田(みょうでん)を経営する名主、

(みょうしゅ…ついでながら、江戸期のなぬしではない)

を務めたことを、この上も無い誇りとしているようにみえた。

筆者が最期に聞いたのは、あの大カシの木と、

今、彼が望んでいるのは何かということだった。

曰く…④

「あの大カシを植えたのは我らである。

 奥の注連縄が張ってあるのは800年、

 手前の三本は500年だ。

 何故、カシなのかって?

 それは、まず目出度き常盤木であること。もうじき、

 一年の葉が落ちて、新しい葉に変わる季節が来るが、

 ご覧ぜよ、その美しさを。

 それと何より火に強い。明治の大火では、

 黒こげになったが、程なく芽吹いたのだ。

 用材としては、これといったものはない。

 ただ、山の者どもが申すには、薪炭に向くということだ。

 今、望むことと云えば、

 神楽と千秋万歳を本来の姿に復することだが、

 氏子が年寄りだけになってしまったので、難しいだろう」

(写真 CX3)

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2011年1月12日 (水)

翁ありけり…(3)

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便宜的に新町名を冠してはいるが、この社には名が無い。

ただ、八幡、あるいは氏神と称していたようで、

この方がずっと自然で、あり得べき様だといえるだろう。

佐倉の歴博で、中世の武士館のジオラマが展示されていたが、

その館と氏神の位置関係が、

此処とそっくりだったのも面白かった。

曰く…③

「この社とわが館の下には、津久井道(往還)が通る。

 あの世田谷宿で矢倉沢往還と別れる道だ。

 この沢を少し下ると多摩川に注ぐ太田川、

 其処の橋は村境になる。「塞の神」があって、

 疫病神の侵入を防いでいたが、その姿は、

 大いなる、先尖りの石であった。

 ついでながら、往還の歩き方を教えよう。

 常に道の両端を駒音に気をつけながらいく。

 いつ何時、早馬が駆けぬけるか判らないからだ。

 道の真ん中は早馬のために開けておくのが流儀である」

(写真 CX3)

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2011年1月11日 (火)

翁ありけり…(2)

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八幡社の境内で、かの老翁が語ったことを、

出来るだけ、記し留めねばと思う。

もとより、しっかりとした古文書なんか残っていないから、

地元の教育委員会や郷土資料館の学芸員などは、

全く相手にしないだろうが…

(事実、由緒不明で片付けられている)

それでも、よく聞いてみると、中世史オタクの端くれとしては、

話の内容の随所に、そんなことがあってもおかしくないなと、

想えることが出てくるのだ。

曰く…①

「そもそも、我らは京下りの者である。奥州に下る前は、

 都では下級ながら、官職を得、御所諸門を弓矢を持って、

 守っていた。遠縁にあたる奥州平泉の御館に呼ばれ、

 その地で四代を数えたのだ。

 奥州では、砂金の扱いを任され、

 あの金売り吉次とも付き合いがあった」

曰く…②

「頼朝公には、一方ならぬご恩がある。

 当地を賜った我らは、まがりなりにも、田を開き、

 米を手にした。同じ一門でも、この奥の山地を、

 賜った者どもは、手に細工の技をつけるしかなく、

 毎年、季節になると、米とそういった細工物、

 山の産物を交換しておった。

 田は全て、谷戸の湧き水か天水、

 米作りも、昔ながらの直蒔きだ」

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2011年1月10日 (月)

翁ありけり…(1)

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この地は、大規模な宅地開発で全てが失われたと思っていた。

丘陵の尾根は削られ、その土は谷戸を埋めるのに使われたのだ。

ところが、都心へ出る私鉄電車から、

ぽつんと小さな社が残されているのを見つけたのである。

谷戸の一部が残され、照葉樹のカシが社叢林を形成している。

今日、当地へ越してきて、初めてこの社の探索を試みた。

樹齢500年は超えそうな、カシの大木を見上げていると、

不意に後ろから声をかけられた。

箒を手にした、小柄な老人だった。

「これは、この辺りにて、社を守る者に候ふ」

「奥が秀衛が家人、佐藤庄司が孫にて、頼朝公奥州入りより後、

 ご赦免あって、当地を拝領いたし、爾来800有余年住みしなり」

とういう感じで、まるで夢幻能のシテのように、

とうとうと、小一時間にわたって、

この地の歴史を筆者に語るのであった。

「当社は八幡なり。頼朝公の恩がため、

 京は岩清水より勧請いたし候ふ」

「それがしが館は、堀を巡らし、この社が下にありしが、

 過日、焼亡し、埋もれ終んぬ」

やはり、此処は谷戸、谷戸から湧水を引いて、

谷川の低地にそって、小さな棚田が営まれていたようだ。

古道も近くを通り、今は削れて無くなった尾根には、

狼煙台があって、鎌倉へ急を知らせたと云う。

祭りといえるものは、かつて神楽と千秋万歳を演じていたが、

今は絶えたとも。

筆者は丁寧に礼を言い、参拝をと石段を登った。

「あなた様の、この一年の幸いをお祈りいたしましょう」と、

老翁の有り難い言葉を背に受け止めながら。

本殿周りと壇上で、暫し撮影して降りて来ると、

かの老翁はかき消すようにいなくなっていた。

後から、参拝に上ってきた人に、今、誰かと話されていたけど、

神主さんですか?紹介して下さいませんかと言われる。

一緒にもう一度、探し回ったのだが、見つからなかった。

小さな駐車場に車も無かったし…(この辺は人家が無いのだ)

後で教育委員会のページから、この社の歴史を調べてみると、

明治の初め火災に遭い、古文書や遺物の類は何も残っておらず、

由緒不明とのことだった。

(写真 CX3)

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2011年1月 5日 (水)

佐倉にて(5)

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歴博の中世展示室には、

別して中世芸能コーナーが設けられている。

これだけでも、

此処の中世史に対するスタンスがよく判ると思う。

奈良・春日大社の若宮おんまつりで演じられる、

田楽踊りの装束。

びんざさらの体験コーナーもあり、

小気味のよい音を響かせる。

(写真 GX200)

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2011年1月 3日 (月)

佐倉にて(4)

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佐倉の歴博を訪ねた日は、前後に所用を抱え、

時間も遅かったため、常設展示をゆっくり観ることが出来なかった。

原始・古代はざっと。中世だけはじっくりと。

近世はパラパラ… 民俗は折悪しくリニューアル中。

近代・現代はパス… やはり、もう一度行かねばならぬな。

写真は中世の展示室から、武士の館のジオラマと、

足利尊氏の花押が据えられた建武三年二月五日付の軍忠状。

九州への敗走中に発給されたものか。

差し迫った状況の中で、かすれた筆で、

取り急ぎ、書き付けた感じである。

尊氏で思い出したが、昨夜、BS-Hiで「大河の50年」を振り返る、

番組をやっていた。その中で「太平記」の、

尊氏が実の弟、直義を毒殺するシーンを、

記憶に残る名場面として紹介していた。

この二人、筆者にとっても、

中世世界で一番、魅かれる「兄弟」なのだ。

(写真 GX200)

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2011年1月 2日 (日)

やっと、鴨南蕎麦を食す

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終日、インフルの養生にて過ごす。

少し食欲が戻って、近所の激安スパーで仕入れておいた、

冷凍・鴨南蕎麦を食べた。思ったよりいける。

¥200を切って、焼き葱、鴨肉など全て具材入り、

レンジと熱湯のみのクックレスで、とても楽だ。

因みに、めん鉢は今回の引越しで出土したもの。

随分前に、岡山・備前の人間国宝の「孫」の作品と聞き、

これまた格安で、人に勧められて購入した。

件の人間国宝は亡くなって、代替わりしたというから、

今は値段が上がっているかも…

(写真 CX3)

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2011年1月 1日 (土)

日々の写真 1/1

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酷い年末年始となった。

まず、インフルで二日寝込み、

翌日の大晦日には、まだフラフラにもかかわらず、

母親の急な入院があって、しかも、

病院から、看護師が足りず、十分な見守りが出来ないから、

付き添ってくれと、携帯にかかってくる始末だった。

お陰で、大晦日はそのまま病棟に泊り込み、

今日、元日午後、母親を退院させて、やっと戻ってきた。

この間、インフルの後遺症か、新薬の副作用か、

極端な食欲不振に見舞われ、殆どロクなものは食べていない。

年末年始恒例の世の中の出来事も知らないままだ。

写真は、病室で迎えた元日の朝。

病院の元日の朝食は初めて見た。一応、形にはなっている。

帰りに目撃した、病院近くの小さな神社の行列。

普段は人気が全く無いのに、何か仕掛けをしたらしい。

まぁ、年一度の書き入れ時だから、こうでないと困ると思うが。

こんなわけで、疲労困憊とインフル養生のため、

一日、二日、お休みを頂くかも知れません。

回復すれば始めます。ご容赦を…

(写真 CX3)

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