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2011年2月の記事

2011年2月28日 (月)

日々の写真 2/27

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この辺りの谷戸や峠を歩き回っていて、ヤバイと感じていたのは、

杉や檜の植林の多さだった。

そして、案の定、ここ数日のクシャミと鼻水である。

外出にはマスクが欠かせないし、窓を開けるのも憚られる状況だ。

…………

既に梅は満開になったようだ。

当地のミステリーゾーン、まだまだ多い(車窓より)

…………

観能というのは、なかなかその機会がない。

でも、中世史に関心を持つ者なら、出来るだけ観るべきなのだ。

演劇であっても、生きた中世世界なのである。

午後、教育TVで、能「安宅」を視る。

台詞、台詞が、当時の世界でこそ、生きてくる意味と響きがある。

(熊野権現を「ゆやごんげん」と通称するところなんか…)

中世世界の宗教用語が飛び交い、

実に刺激的だったのは言うまでもない。

室町時代の能作者は、わざわざ弁慶に仮託して、

何を語りたかったのだろうか。

力の入った舞台で暫し時を忘れた。

…………

その勢いで、Amazonにて、

「物語の舞台を歩く 義経記」(五味文彦著 2005 山川出版)

を発注する。

(写真 CX5)

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2011年2月26日 (土)

日々の写真 2/25

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春一番吹く中、午前中は世田谷の病院を受診し、その足で、

渋谷の税務署と都税事務所へ決算申告書類を提出する。

納税も済まし、明日は晴れて銀座の中古カメラ市か。

夕刻近く、八王子旧市街に回り、

車窓より、河川敷の春色を確認。

(写真 CX5)

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2011年2月25日 (金)

弁慶伝説

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猿丸峠山中探索で訪れた白山社にて、想わぬ伝承を知った。

写真上の案内板にある如く、この社はあの武蔵坊弁慶の一族で、

比叡山の僧、弁智と縁が深いと伝えているのだ。

この名前は経塚から出土した法華経奥書にも書かれていたので、

「弁智」の実在は確かであろう。

一方、武蔵坊弁慶の確実な史料は、

吾妻鏡に義経主従と名を連ねるのみで、それ以外は無い。

室町期以降の、義経記や戯曲で有名なエピソードは、

多くが創作とみられている。その中で、

弁慶の出自を熊野別当湛増の子とするのが、

今のところ、広く信じられているようだ。

しかし、筆者は今回の伝承にちょっと魅かれるものを感じる。

「武蔵坊」という僧坊自体、そのまま、武蔵国との縁の深さと、

文字通り受け取っていいのではないか。

二人とも比叡山の僧で、弁智と弁慶の「弁」を、

通字とするのも、血縁などの深い関係が窺えるし、

しかも、此処は比叡山傘下にあった白山社である。

最近、義経主従を奥州平泉に導いたのは、

白山修験者ルートではないかとする説が提起されているが、

それは義経のシンパに比叡山関係者が多かった事実と、

白山社の大スポンサーが奥州藤原氏であったことからだ。

弁慶紀州熊野出自説のほうは、義経記の成立と流布に、

熊野関係者が関わっていた可能性もあるだろう。

いずれにしても、中世の人々が自らの名乗りに、

無意味な字句を並べることはあり得ない。

その意味するところを素直に捉えていけば、

意外に大事なことが見えてくるはずなのだ。

(写真 S95)

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2011年2月24日 (木)

多摩川春色

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都心へ向かう車窓から、日々、

河川敷が春色を帯びてゆくのを楽しんでいる。

つい、この前はこんな具合だったのだが。

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もちろん、暮色も悪くない。

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(写真 上下CX5 中S95)

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2011年2月23日 (水)

猿丸峠越え

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この辺りは梅林が目立つようだ。

季節になれば、梅を使った特産品でも出回るのかな。

………

ちょっと気になって、東京都下の野性猿の生息状況を調べてみた。

西多摩郡檜原村周辺では、三群約200匹が確認されており、

そこから分派した20匹ほどが高尾山、八王子城山付近に、

時折、出没しているらしい。

昔はもっと居たとみていいのだろう。

何時だったか、23区内で猿が逃げ回る事件があったけど、

此処のハグレ猿だったとしても、おかしくないわけだ。

………

ニュージーランドで地震の報あり。

実を言えば、今回の引越しは地震対策でもある。

都心の旧居は直近の耐震検査で問題が見つかったし、

何よりも、首都圏直下地震近しと、密かに踏んでいるからなのだ。

(写真 CX5)

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2011年2月22日 (火)

峠の懐へ(4)

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この白山社の由緒は不明である。

しかし、江戸後期の文政年間に社殿裏の塚から、

経筒、鏡、法華経十巻が発見され、その奥書に、

平安後期、仁平4年(1154)の年号と、

船木田荘の名が記されていた。

こういった塚を経塚と呼ぶが、

平安中期から鎌倉期にかけて、

末法思想の流行により、仏法滅亡に備えて、

経典を埋納し、経塚を築くという一大ムーブメントがあった。

塚が築かれる場所は大抵が聖地で、霊山の頂上などが多い。

此処は猿丸峠から尾根続きの、最高点と考えられ、

真西を望む峰だから、条件は十分揃っているわけだ。

(猿丸峠葬送地説も補強している)

塚は五つ並んでいたと云うが、痕跡は見当たらない。

(発掘調査は行われていないようだ)

今はこぢんまりとした社だけど、神楽殿も備え、

雰囲気のある境内になっている。

(写真 S95)

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2011年2月21日 (月)

白山の美酒に酔う

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先程まで振る舞い酒にて、ほろ酔いで戻ったばかり。

何処の産と見るに、なんと、加賀はあの白山々麓、

「山廃純米原酒 天狗舞」であった。

バランスが良い、秀麗な酒だ。

もちろん、水も白山、じっくりと味わった。

なんだか、白山権現がお呼びになっているみたいだな。

…………

恥ずかしながら、ホームセンターなるところへ初めて行って来た。

噂には聞いていたが…

引越しで散逸した事務用品、リビング用品等を調える。

ごろ寝しながらの書見に、これは便利と、

「長座布団」をというものを衝動買いしてしまった。

下は猿丸峠山中、白山社境内の深山幽谷。

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(写真 上CX5 下S95)

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2011年2月20日 (日)

プリンアラモード

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駅上の喫茶店に入ったら、プリンアラモードを勧められた。

それで、なんだか無性に食べたくなって、頼んでみた。

横浜の伊勢崎町以来、数十年ぶりだろうな。

この街の、地方都市めいたところが好きになってきた。

…………

当地の探索を始めて、三つのキーワードが浮かび上がる。

馬、猿、比叡山である。

上の語順で、この三者、宗教的に極めて密接な関係あり。

ところで、最近、半島の某国で親子三代の指導者を寿ぐ、

記念切手の図柄が「親子の猿」であると云う、

ニュースを読んで、また閃くことがあった。

近隣の某大国も猿を神聖視すると聞く。

我が列島を含めて、古来、東アジアで猿は神聖な動物なのだ。

猿を滑稽なものとするのは、西欧の影響ではないのか。

だから、ドラマで毎度のように、信長が秀吉を、

「猿!猿!」と呼び捨てているのがいただけない。

むしろ、猿と自分を意図的に結びつけたのは、

秀吉のほうじゃないかと。言うまでも無く、

猿は比叡山の総鎮守、日枝(日吉)山王社の神使で、

秀吉の幼名が「日吉丸」と伝わるも、偶然ではあるまい。

と、きたところで、話は比叡山に属した諸社のことへ繋がる…

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(写真 CX5)

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2011年2月19日 (土)

日々の写真 2/18

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新宿へ所用ついでに、車窓より多摩川二景を撮る。

まず、調布辺りで、上流方向。

くっきりとした午前の光の中、川面は折からの強風でさざめく。

午後遅く、今度は八王子近くから、下流方向。

右手の山並は所謂「多摩の横山」である。

多摩川は、多少の変遷はあるにしても、

古代から中世、近代に至るまで、流路を著しくを変えていない、

関東では稀有の大河川である。そのお陰で、

流域の人々の営みを歴史的に追えて、探索し易いのだ。

(写真 CX5)

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2011年2月18日 (金)

峠の懐へ(3)

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白山社本殿までの長い石段は、

ちょっとした、異界へのプロムナードめいている。

一の鳥居脇、ちょうど雪かきを終えた氏子の人々が、

振る舞いの最中だった。

今では懐かしく、心和む光景だ。

壊れかけた石塔や石碑、

古い礎石とおぼしき石も集められていた平場。

中世のものも混じっているように見える。

摂社の小さな祠を過ぎると、頂上が見えてきた。

(写真 S95)

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2011年2月17日 (木)

CX5導入

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まぁ、渋谷のキタムラで、

CX3に替えて、CX5を購入したわけだ。

これから、「多摩の横山徒歩(かし)ゆか遺(や)らむ」時は、

その日の気分でS95か、CX5を携えることになる。

夕刻、試写に持ち出す。

月と黄昏の駅、旅情をくすぐるこの光景に、

あらためて、しみじみと、

想えば、遠くに引っ越して来たことよ…

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(写真 上S95 中下CX5)

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2011年2月16日 (水)

峠の懐へ(2)

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さらに谷戸を詰めていく。

古くからある在所や寺は、概して山根のやや高みに位置を占め、

しっかりとした基壇を築いた上に建っているように見える。

それに反して、新興住宅は低みの平らなところに、

ひしめく様に建てらているのが判る。

昔の人の知恵がそうさせたのだと想うが、

災害が来れば、被害の遠因になるのではと気になる。

やがて、人工の断崖上の団地に遮られるように、

谷戸は唐突に行き止まりとなった。

目指す、白山社の入り口を見つけ、急斜面を登る階段に取り付く。

振り返ると、入り込んで来た谷戸がよく見渡せた。

(写真 S95)

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2011年2月15日 (火)

日々の写真 2/14

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夕刻、都下の他地区に先駆けて、

多摩西部に積雪20㎝の大雪警報が出たらしい。

今日は午前中より、都心で所用をこなし、

午後遅くに、八王子旧市街へ回る。

野猿(猿丸)峠越えのバスに乗ったところ、

ちょうど峠に差し掛かったあたりから、

雪の降り方が怪しくなってきたわけだ。

この冬、引っ越し先の山中を想いやって、

もしやと、スノーブーツはじめ、諸装備を整えていた。

まぁ、彼の雪中行軍もかくやとなっても、大丈夫だろう。

…………

昨日の投稿で触れた万葉集の歌を引用しておく。

~赤駒を山野に放して捕りかねて、

       多摩の横山徒歩ゆか遣らむ~

当地の、古代の牧の様子を彷彿とさせる歌。

緑深き、多摩丘陵の渓谷と、

駆けゆく赤駒の、色の対比が鮮やかに目にうかぶ。

「多摩の横山」と云うのは、多摩川べりから観た、

丘陵の景観をそのまま表現した感じだ。

赤駒の「駒」は、やはり高麗に通じると思うんだけどな。

…………

渋谷のカメラのキタムラに立ち寄る。

都心を離れると、変に煩悩が頭を擡げてくるようだ。

これを「暴れ買い」と呼ぶのか。

兎も角、詳細は後ほどに…

(写真 S95)

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2011年2月14日 (月)

峠の懐へ(1)

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天候回復し、いよいよ猿丸峠の懐深く分け入る探索に出た。

渓谷から谷戸へ踏み入れていく。

この辺り、多摩川西岸の丘陵地帯は、

古代より、万葉集でも「多摩の横山」と歌われたところだが、

中世では、摂関家領、船木田荘の核心部だった。

「船木田」とは、良質な船材を産する森林を擁した、

荘園だったことを意味し、多摩川を使った筏流しで、

盛んに木材を品川津へ運び出していたようだ。

気のせいか、風景も中世の荘園めいて見えてくる。

船木田荘は、かなり大きな荘園であったらしく、

その存在が確かめられたのは、

これから訪ねる、白山社境内の経塚から出土した、

法華経奥書に名称が記されていたからなのだ。

(写真 CX3)

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2011年2月13日 (日)

雪の朝

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この頃の天気予報は、ことさらに「降るぞ、降るぞ」と叫んで、

後で、大したことが無かったというのが多い気がする。

今回の首都圏の雪も、そのようで、

まぁ、結果オーライだから、文句は来まいが。

でも、やたらと予防線張って、ちゃっかり責任逃れって、

この感じ、最近どっかで視たなと考えたら、

大相撲の八百長騒ぎで、特番を組むほどに、

妙に?力が入ったNHKの報道ぶりだった。

そんなことより(そんなことです。周知に近いんでね)

50年近くの独占放映で、一場所5億(金額は非公開らしい)は、

下らないという放映権を、皆様の大事な聴視料から、

年六回も買っている事実はどう説明するのか。

(一回、二回抜けばいい話ではないよ)

「由緒正しき、相撲協会の善意」を信じ続け、

真っ黒な裏の実態を全く知らなかったとでも言うのかな。

50年以上「浅からぬ」付き合いがあったんでしょ?

トップの首がいくつ飛んでも、おかしくない仕儀ではある。

(写真 上中CX3 下S95)

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2011年2月12日 (土)

雪日

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当地に引っ越して来て、最初の本格的な雪日となった。

都心の倍の積雪量と聞くが、果たしてどんなものか。

垂れ籠めて、読書三昧の一日と為す。

勢いで、Amazonにて、以下を発注する。

「余多歩き 菊池山栽の人と学問」

(前田速夫著)@¥711也

「白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って」

(前田速夫著)@¥845也

「入門 白山信仰」

(内海邦彦著)@¥771也

何れも、次回探索の準備なり。

…………

雪景の撮影はCX3のほうが向いているみたいだ。

(写真 CX3)

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2011年2月11日 (金)

馬駆ける渓谷

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当地の古代の様子を調べてみた。

律令時代、朝廷は東国を中心に、各地に軍馬を飼育する、

官牧、御牧(勅旨牧)を設けたとされる。

武蔵野国にも何ヶ所かあり、そのうち、小野牧、由比(井)牧が、

この辺りにあったらしい。

平安中期に、小野牧の別当に任じられたのが、

小野氏の一流で、武蔵横山党の始祖だったと云うのだ。

小野氏は小野妹子などで知られる、

学者や歌人、武人を輩出した、近江の古代氏族だが、

渡来系の匂いがしないでもない。

(今のところ、その説は出ていないようだが)

ところで、此処は馬の放牧に適していたのだろうか。

もとより、だだっ広い平野ではない。

無数の、小さな谷戸から流れ出た小河川が集って、

多摩川へ注ぐまでの間は、なだらかで、

中央部に多少の平地を持つ、渓谷を形成している。

周囲は高くも低くも無い、ほどほどの丘陵で覆われる。

例えば、平野に出る、その出口を柵で塞いでしまえば、

楽に馬を囲い込めて、放牧が出来るのはないか。

谷戸に棚田が造られるのは中世に入ってからで、

それまでの古代では、放牧地が、

最も適した土地利用法だったのかもしれない…

そんなことをつらつらと、

都心に向かう私鉄の中で考えていた。

(写真 S95)

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2011年2月10日 (木)

隣町の菩提寺(6)

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寺の広い墓地を抜けると、

かつて、少年時代に横浜・金沢で遊んだような、

谷戸の奥へ入り込む。

隠れ里を見つけた時の、あの感覚が鮮やかに甦り、

やがて、最深部の水源地に辿り着く。

さて、次回の探索では、

猿丸峠の懐深くに、さらに分け入ろうと考えている。

其処には、当地の中世世界から今日に至る、

宗教的な状況を解く、鍵があるかもしれないのだ。

(写真 CX3)

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2011年2月 9日 (水)

隣町の菩提寺(5)

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さて、最初の菩提寺に戻って、

当地の戦国期の領主、大石定久の墓所を訪ねる。

墓域は残念ながら、近年、大きく整理されていて、

往時の様子は殆ど窺えない。

大石定久墓所の由緒は、寺側の主張によると、

上の案内板の如くであるが、この中で唯一、注目されるのは、

かつて、寺域が猿丸山麓(野猿峠)のかなりの部分を、

占めていたと云う点であろうか。

この寺が(万が一の城砦以外に)一帯の、

葬送地を管理するために、建てられたことも推測させ、

筆者がにらんでいる、猿丸山・中世葬送地説を、

幾許かは、補強する感じになっている。

墓石は総じて新しいが、居並ぶ家臣のものと伝える、

五輪塔には慶長年間の銘が見受けられた。

ついでながら、五輪塔の古さ(中世遺物とする)を観る、

大まかな目安は縦横比である。それが高いものは新しく、

低いものは古い(中世)ことが多いようだ。

(写真 CX3)

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2011年2月 7日 (月)

隣町の菩提寺(4)

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昨日投稿の写真にコメントを付け加える。

谷戸の奥に寺が立地するのは、鎌倉と同じだが、

寺前の、かつての寺域に「谷戸のくらし」が残っていた。

周囲の新興住宅とは、明らかに異質なのが面白い(写真上)

境内にある山王社、由緒不明ながら、

歴史は、寺よりずっと古いと云う。

野猿峠付近には、山王社がいくつかある。

日枝山王権現の眷属は猿であるから、偶然の一致とは思えない。

猿丸太夫伝説と共に留意してよいと考えるのだが(写真中上)

寺の後背地は谷戸全体を見渡せる、いわゆる「勝地」で、

正面は西方、いかにも中世人が墓所に好みそうな高みだ。

(まず、墓域が先に形成されて、

 寺々は後に出来たと、見るべきだろう)

寺域から外れた急斜面の藪中に、地元の墓所を見つけた。

墓碑銘は江戸末期の嘉永年間だった(写真中下)

寺の墓地は近年、拡張され、分譲が盛んなようだ。

「ペット墓地反対」のプラカードも其処彼処に目につく。

やはり、今も此処に、葬送地として魅かれるものがあるのは、

否定出来ない(写真下)

鎌倉周囲の峠でも、同じような光景に出会うことが多かった。

(写真 S95)

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2011年2月 6日 (日)

隣町の菩提寺(3)

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今日はS95を持って、菩提寺の周囲の谷戸と、

峠の麓を探索してみた。

やや西方の、隣の谷戸には大石定久の家臣、

細田某が天正年間に建立した、同じ宗旨の寺があった。

野猿峠への道は、現在は大きく拡幅され真っ直ぐに登るが、

それとは別に、沢筋に沿って巻きながら登る、

細い対面通行の道があり、峠頂上付近で合流している。

(やはり、こっちの道が古道のようだ)

その道の、坂下付近に寺は立地するのである。

例によって、足を踏み入れると、若い住職から声をかけられ、

いろいろと興味深い話を聞くことが出来た。

この辺りに古くから住む人々は寺に墓を設けず、

在所近くに墓所を持つ風習を固く守ってきたのだと云う。

筆者は、最近、その想いを強くしているのだけど、

この峠一帯は、中世世界の典型的な境界地であり、

一大葬送地であった可能性が大なのだ。

(写真 S95)

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2011年2月 5日 (土)

日々の写真 2/4

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春めいた一日だった。

春なんて来るのかと想うほどの、この冬だったけど、

やはり、春はやって来る。

S95を携え、都心へ赴く。

大気中に細かい粒子が浮遊しているせいなのか、

光線が拡散して柔らかくなり、余計、春らしさを感じた。

室内の、卓上の料理にも、その光は優しく回り込む。

………

エジプトの騒乱、

馬、駱駝、ロバに跨り、鞭をふるいながら、

デモ隊の中に攻め込む、大統領支持派の人々の姿を、

あたかも、眼前に中世世界を観るようだと、

ABCの記者が興奮しながらレポートしていた。

ツイッターやフェイスブックの影響がどうのと云うが、

かの国々では、事あるごとに、

十字軍時代の中世的原理が平然と顔を出す。

実に興味深いけど、気持ちは複雑だな。

同放送のナイトラインでは、

ムバラク大統領の独占インタヴューに成功したらしい。

(写真 CX3じゃなくて、S95でした)

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2011年2月 4日 (金)

S95を導入

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都心へ出たついでに、かねて懸案のS95をキタムラで入手した。

今月はオリンパスやパナで新製品が発売されるので、

同系統のキャノンS95の価格も大分、こなれてきている。

早速、試写に持ち出す。

コンデジはリコーしか使ったことがないから、

勝手がかなり違い、戸惑うこと多し。操作に慣熟の要あり。

添付画像ソフトに不具合があるようで、

EOS7Dのものにインスツールし直し、手間取る。

こういうのが、結構ストレスになるのだ。

今回は、ちょっと気分を変えて、

純正ケースとストラップのセットを揃えてみた。

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(写真 上CX3 下 Canon S95)

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2011年2月 3日 (木)

隣町の菩提寺(2)

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この寺に足を踏み入れる直前に、驚かされたことがある。

門前から、寺域全体に、

極めて明瞭な土塁の遺構が認められるのだ。

谷戸の奥にゆくに従って、段々と、

平場が築かれた痕跡も見て取れる。

前述の通り、戦国期の天文年間、領主・大石定久の、

館跡に建立されたと云うが、それ以前は、

横山党の支族、由木氏の館があったとされる。

中世の館跡に寺社が建てられることは珍しくない。

しかし、此処は、もともと寺院自体が城砦として、

造られたのではないかと、実感させられるのだ。

戦国期、寺院が城砦だった例は、石山本願寺はじめ、

枚挙の暇がないし、大石定久の叔父に当たる僧が、

開山と伝えられることからも、これは濃厚だと思う。

菩提寺には、有事の際に、

一族が最期に立て籠もる、城としての機能があったようだ。

(写真 CX3)

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2011年2月 1日 (火)

隣町の菩提寺(1)

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この寺は、戦国期に上杉氏家臣で武蔵国守護代を長く務め、

後に、北条氏から養子を迎えて臣従するに至る、

領主・大石定久の建立と伝える。

寺域の殿ヶ谷戸は彼の館跡とも云う。

養子、北条氏照の篤い保護で、大伽藍に発展したが、

小田原開城後も、関東に入府した徳川家康の援助を、

受けることに成功する。

境内の目立つところに両家の紋が使われる由縁である。

(北条時代は永鱗寺と称したが、これは北条氏の紋、

 三つ鱗に因むのではと、郷土史料館で聞いた。

 徳川時代には鱗を現在の林の字に改めている)

赤門を許されるなど、寺格も高いようだ。

(写真 CX3)

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