「平清盛」を視る(1)
やはり、じっくり視てしまいましたなぁ。
まぁ、始まったばかりなので、おいおいと語っていくことにする。
とりあえあず、初回は清盛出生秘話と、清盛登場までの、
平氏の地歩を固めた、祖父正盛と父忠盛の物語だ。
皆さん、まず、どうしても「何故?」と聞きたくなるのは、
「清盛、白河院落胤説」を堂々と採ったことだろう。
筆者の見解を言わせてもらうと、
残念ながら、この説を積極的に、
否定も肯定も出来る材料を、
持ち合わせていない。ただ、
もっと、この時代の婚姻の実態を知るべきということだ。
女性の家への通い婚があり、
重婚のような同時複数の関係があり、
上流から下流まで、つまり高貴な女性も、道々の女性(遊女)も
普通に相手になり得た(序列はつけられるにしても)
だから、かなりの上流貴族の母親が白拍子なんてこともよくあった。
清盛の場合も、その辺りが当時からの「真相」で、
噂が絶えなかったわけだろう。
纏めると、
父親が誰であるか判らないのは珍しくないと云うことです。
他にも気になった点が多々あるのだけど、例えば、
劇中「王家の敵」「王家の犬」といった台詞が乱発されている。
「公家」「武家」「寺家」…とはよく云う。
「王家」とは「公家」に含まれる概念なのか。
「王」ならばよく云う。
時代的に「院」と云ったほうがよいのではないか。
とても書ききれないので、今宵はこのくらいにしよう。ご容赦…
(捨身 CX5)
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コメント
忠盛は和歌集が残っていて、女性関係は多彩だったようです。
ただ平氏の血筋の者を差し置いて、政治的な思惑から、白河院の胤を引く者を惣領に立てたというのは、ちょっと信じがたい。
当時そういう例が他にもあったくらいの傍証は欲しい気がします。
投稿: 振り子 | 2012年1月10日 (火) 16時34分
平家と日宋貿易の関係は興味あるところですが、伊勢が元の本貫地の東国との海上交通の出入り口の意味を持っていた点に注目します。(六浦と繋がっていたかも?)
忠盛は鳥羽院の荘園である肥前神崎荘の院司を任され、唐船の積み荷を横領したと当時の日記に書かれているようです。
その頃から神崎荘の私貿易が清盛の日宋貿易に繋がって行くのかと思いました。
たぶん松浦党も使ったはずですが。
投稿: 振り子 | 2012年1月10日 (火) 16時50分
忠盛は武芸はもとより、歌も舞もと、ただの無粋な武者ではありませんよね。政治、経済も、才覚は只者ではない。彼はもう少し長命していれば、必ず公卿になったはずです。その息子の清盛も只者ではなかった。その上に、父祖の積み上げた莫大な遺産(資産も人脈も)があって、昇進も父以上に早まったのだと…彼の尋常でない出世を後胤説に結びつけるのは、「やはり、そうであったか」という、どうしても後付けの理屈にみえてしまうのです。母親の出自の低さを補って余りある才覚だったということです。
投稿: kansuke | 2012年1月11日 (水) 00時17分