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2012年4月12日 (木)

多摩の霊地へ(5)

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筆者の「仮説」を謂ってみよう。

百草園一帯の尾根は、中世武蔵国、最大の都市的な場だった、

府中の葬送地ではなかったか。

(類例を挙げれば、

 六浦津の上行寺東遺跡、神奈川津の権現山、品川津の御殿山、

 遠江国府・見付一の谷中世墳墓群遺跡等々…枚挙の暇無し。

 でも、この手の遺構は全く文献に残らないのが常だ)

まず、府中(府内)から真西に位置し、眺望良く、

秋分の日や春分の日になれば、太陽がこの尾根に沈むので、

西方浄土(祖先の墓所)遥拝、

或いは修行者の「日想観」に適する。

府内を外れ(死穢を避ける)多摩川彼岸の境界地で、

異界(冥界)への入り口に当たる。

昨日も触れたけど、まさしく「勝地」といえる。

平安期まで、武蔵国国府は現在の大国魂神社付近にあったが、

鎌倉期に入ると、その機能は幕府守護所へ移り、

館は多摩川河畔近く、中河原辺りにあったらしい。

多摩川から水路を引き入れた河湊を擁し、

直ぐ傍を中世古道が通る。

古道は目前で多摩川を渡河、向う岸に関(関戸)が設けられた。

関の前後にも、繁華な宿があり、鎌倉を目指す中世の旅人は、

右手に百草の尾根を仰ぎ見ながら、関を超えたのだろう。

そうそう、肝心の「幻の真慈悲寺」だけど、

死者を浄土へ導く、阿弥陀仏(八幡社の本地)を本尊とした、

葬送施設だったのではないか。

こういった各宗派の御堂が、尾根の彼方此方に建っていたはずだ。

五輪塔や板碑が林立する光景が広がり、裏の谷戸には、

葬送に携わる聖(ひじり)たちが集住していたのだろう。

しかし、中世後期(戦国期)に武蔵国守護所の機能が衰え、

鎌倉が享徳の乱(1455)で荒廃すると、府内も寂れ、

百草の尾根も忘れ去られたのだと想う。

帰り際、麓の地蔵堂に寄ってみると、

何と、秩父青石の板碑片が地蔵尊の足元に置いてあった。

江戸期後期以降、中世の板碑や五輪塔を数寄者が珍重し、

大量に抜き取られてしまった経緯がある。

念のため、市の郷土資料館へ一報しておいたのだった。

(捨身 CX5二代目)

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