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2012年6月 9日 (土)

武蔵府中残影(2)

B12060901

武蔵府中と鎌倉は要路で密接に繋がっていた。

ある意味、両者の興亡は相互に依存していたと言えるだろう。

百草の山を左手に観て、関を超え、多摩川(関戸渡し)を渡ると、

府中(府内)に入る。この辺り、分倍河原は要地となったから、

中世を通じて、二つの大きな合戦が起こらざるを得なかった。

新田義貞の鎌倉攻めの際の戦、

下って、室町中期、享徳の乱の際の戦。

もとより、ともに鎌倉の攻防を巡るものだ。

特に享徳の乱では、関東公方足利成氏は終に、

鎌倉を放棄するに至り、古河へ落去する。

爾来、武蔵府中は鎌倉と一緒に衰亡したのだと想う。

要路の命脈も絶たれたわけだ。

(捨身 三代目ライツミノルタCL Mロッコール40㎜F2 SPX400)

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