2012年8月の記事
2012年8月31日 (金)
2012年8月29日 (水)
2012年8月28日 (火)
2012年8月27日 (月)
「平清盛」を視る(41)
なんとか、後半に間に合った。
清盛、五十の賀の宴と、押しかける摂関家の基房、兼実兄弟、
清盛の息子たちと、舞や歌で競い合う。
今回は「中世芸能かくし芸大会」のようだな。
(春日験記絵巻では、
藤家の氏神である春日明神の加護も、
この頃は、忠通、頼長の不信心で翳っていたと云う)
中世の、田楽法師の装束には、何時観ても、魅かれるものがある。
今でも、編木(びんざさら)を作っているところがあるらしい。
一本欲しくなった。
(捨身 二代目CX5)
2012年8月25日 (土)
2012年8月23日 (木)
春日の杜へ(2)
明治期の神仏分離や廃仏毀釈のせいもあって、
多くの神社が本来の姿から乖離して、ある意味、
実に奇妙な存在になってしまったのかもしれない。
中世世界の、寺と神社の境目が曖昧な神仏習合の姿に、
限りない好ましさを覚える、筆者なのである。
春日験記絵巻をはじめ、中世史料が極めて豊富で、
今でも、ほぼ中世に近いたたずまいを残す春日大社を、
「世界遺産」の名に恥じないとしても、言い過ぎではないと想う。
(捨身 S100・二代目CX5)
2012年8月22日 (水)
春日の杜へ(1)
奈良博から直近の中世史スポットと云えば、まず春日大社だろう。
残り三時間、此処だけは抑えるべく、探索の歩を進めることにする。
博物館すぐ裏が、若宮おん祭りの御旅所、
道なりに行けば、表参道に入り、一の鳥居を見上げる。
其辺りより広大な春日の杜が始まり、本格的な神域に入る。
奈良へ撮りに行くことが多かった、高校写真部の頃、
主に歩いたのは、興福寺、東大寺、薬師寺、唐招提寺…
斑鳩、飛鳥など…古代史関係の寺々ばかりだった。
奈良市内では、春日大社、新薬師寺、元興寺、奈良町は、
全くパスしていたのである。
今考えると、いずれも核心的な中世史スポットばかりだ。
この負い目、たとえ一部でも、晴らさねば…というわけなのだ。
(捨身 S100・二代目CX5)
2012年8月21日 (火)
所謂「伝頼朝像」(其実、足利直義像)を観る
奈良博・特別展
「頼朝と重源 東大寺再興を支えた鎌倉と奈良の絆」
(7/21~9/17)を観てきた。
何はともあれ、例の、神護寺の肖像画である(~8/19)
今回の展示では、恐らく事情があるのだろう、あくまでも、
「伝頼朝像」ではなくて、「頼朝像」となっていた。
でも、そんなことはどうでもいい、実物をどうしても観たかったのだ。
第一印象は、とにかくデカイ像(1430.0×112.8)だ。
広い会場で離れていても、あそこにあるなと、
すぐに視認出来るほどなのである。そして、
やはり、尋常の肖像画ではなく、「神像」というイメージだった。
(この像の考証は、とても、この場では論を尽くせない…
いずれ、稿をあらためる。ご容赦を…)
しかも、驚いたのは、世に「頼朝像」と云われているものが、
全て、一堂に出展されていたことだ。
特に後者は、黒田日出男氏の論考に出てくる、
「真像」というべきもので、これが観られたことは大きな収穫だった。
其れや是やで、奈良博でたっぷり二時間以上使ってしまった。
これから、残りの時間で「春日の神の杜」へ分け入りたいのだが…
(捨身 二代目CX5)
2012年8月20日 (月)
2012年8月19日 (日)
2012年8月18日 (土)
2012年8月17日 (金)
2012年8月13日 (月)
「平清盛」を視る(39)
本日の放送はオリンピックのため、残念ながら、お休みである。
で、閑話休題ということで、
今回の大河での、清盛のイメージについて、一寸触れよう。
前回、清盛らしい!ギロッとした目つきを見せるシーンがあった。
今まで、優し過ぎたきらいがあったので、
これは文句なくプラスポイントだ。
もとより、清盛はこうでなくてはね。
あくまでも「猛き者」なのだから…
ついでながら、歴代大河の主人公たちは、
時の、話題のスターから選ばれるにしても、風貌も、やはり、
どこか、史上の人物との肖似性が問われていたと思う。
そこで、清盛像と知られる二像を挙げてみる。
まず、京都・六波羅蜜寺の「伝清盛像」だ。
(確か、東博に出張してきたのを観ているはず)
とても面白い像である。この目玉から、この人になったのか?
次は、現在のところ、最も信憑性が高い像。
「天子摂関御影」(14世紀 これも2009年秋の東博特別展で観た)
同巻に、鳥羽、崇徳、後白河、頼長、重盛、宗盛も描かれており、
各家に残っていた「粉本」(下絵、デッサン)をもとにしたと、
考えられる「似せ絵」の優品である。
さて、今回の清盛のイメージだけど、こっちに似ているのかな?
(捨身 二代目CX5)
2012年8月10日 (金)
2012年8月 9日 (木)
2012年8月 7日 (火)
2012年8月 6日 (月)
「平清盛」を視る(38)
伊豆の流人、頼朝は既に成人している。
だから、配所でいろいろとあったのは事実だろう。
今回の大河では、京での幼少期を(母親を含めて)
丁寧に描いているので、彼の複雑な人間形成が、
より理解しやすくなっているはずだ。
この際、あの教科書に載っていた、神護寺の「伝頼朝像」の、
イメージを消し去って、
新たな頼朝像に想いを馳せるのも一興だ。
(捨身 二代目CX5)
2012年8月 2日 (木)
目結紋のこと
武藤氏のことで、気になったことがあり、調べていて、
「蒙古襲来絵詞」(14世紀)に行き当たった。
元々は藤原秀郷の流れで、武蔵国が本貫とも。
(そうだとすると、奥州藤原氏や西行の佐藤氏と親族だ)
鎌倉初期に奥州攻めの功で、
出羽国大泉荘(山形県鶴岡市)の地頭職を得たとする。
また、大宰府の小弐職を得、鎮西にも下り、
一族は奥州と九州の二流に分かれた。
鎮西の武藤氏は小弐氏を名乗り、元寇で活躍する。
出羽の武藤氏は大宝寺氏を名乗り、戦国期まで続く。
両氏は同族なので、目結紋という同じ紋を持つ。
その目結紋を、先週末、黒川能の公演で、
振り子さんが、幔幕に観たのが今回の発端である。
そして、筆者が想起したのが「蒙古襲来絵詞」だった。
実は、この場面、2009年11月に東博の特別展で観ている。
文永の役(1247)博多防衛の総大将を務める小弐景資。
緋縅の鎧、手に日輪の扇、黒漆の鎧櫃に腰を下ろす。
後ろの武士たちが掲げる旗に目結紋がある。
四つ目結だが、出羽の武藤氏は六つ目結、
もとはこっちで、代を重ねるにつれて、目結が増えていくのだ。
左上の詞書に
「太宰小弐、三郎左衛門尉 景資 二十九
むま(馬)具足にせゑ(似絵)
…当時の、彼の乗馬と鎧具足は正確に描きましたの意味…
其の勢五百余騎」とある。二十九歳、若いね…
ついでながら、その後、出羽の大宝寺氏は絶え、
鎮西の小弐氏は幾多の興亡を経て、筑紫氏に至る。
ひょっとして、故筑紫哲也氏は末裔なのかな?
(捨身 二代目CX5)
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