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2012年10月の記事

2012年10月31日 (水)

中世山城のイメージ(4)

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山城を建設(普請)中の珍しい場面だ(真如堂縁起絵巻 15C より)

中世世界では、普通の人々が勝手に、

土木工事を行うことが出来なかった。

陰陽道で、季節によって土を触ると、「土公神」が祟るとされたのだ。

祟りを免れるのは、宗教者(僧、陰陽師=声聞師、修験者、神人)

と、乞食、河原者たちだけだった。

(結界のような、強い宗教性を感じるのも、其の辺りからだろう)

領主は、河原者から編成された「黒鍬衆/者」と呼ばれる、

専門家集団に依拠して、城普請を行うようになる。

後北条氏は、足軽と同様、常備の工兵部隊としていたらしい。

普通の領民は、農作業もあるし、動員するには制約が多いのだ。

さて、完成した山城だが、あくまでも、戦時の、

臨時の(非日常で、異な)構造物でなければならなかった。

初期の山城は、日常の領主居所と厳密に別けられ、

「詰城」(つめのしろ)と云って、戦時に籠る仮屋だった。

だから、戦が終わり、必要でなくなれば(領主の移動交代も含め)

原則的に、跡形も無く破却されたのである。

(ある意味で、山城は忌むべきものだったかもしれない)

是が、中世山城、本来の「哲学」であろう。

しかし、戦乱が常態化するに至って、山城が殆ど常設となり、

領主居所はもとより、街道、宿、市も取り込まれて、

姿を誇示するかのように、より便利な平地へ移っていく。

やがて、安土城が現れ、

近世城郭は、全く違う「哲学」を持つようになったわけだ。

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(捨身 二代目CX5)

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2012年10月29日 (月)

「平清盛」を視る(52)

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またぞろ、視聴率、低空飛行とは云うけれど、

其の実、物語のほうは、面白くなってきているのだ。

鹿ケ谷事件で、六波羅へ引っ立てられた西光、清盛の前で居直り、

「あの無頼の、高平太めが!」と吐き捨てるように呟く。

激高した清盛は、散々に痛めつけてから、「五条西の朱雀」で、

斬首を命じる。つまり、五条(東西の大路)と朱雀(南北の大路)

の交差点、都のど真ん中である。

通常は賀茂河原など、都の境界地で行うところだが、

異例の、重罪人扱いだ。余程、憎まれたのか。

平家物語では、天台座主明雲僧正を讒訴した罪は深く、

比叡山の鎮守、山王十禅師権現の神罰が、

たちまち、西光父子へ下ったのだとしている。

当時としては、誰もが、さもありなんと頷く、運命だったのだろう。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月28日 (日)

付録・滝山城へ(4)

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本丸跡は、石碑とベンチが有るのみだ。

隣の曲輪=「中の丸」(トイレ有り)との間には、

「大堀切」(おおほりきり)が穿たれ、「曳橋」が復元されている。

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「大堀切」は「堀底道」になっており、何と中世古道が通っていた。

滝山城は、古道を取り込む形で築城されたのである。

築城以前から、古道は丘陵を切通していたはずで、

その切通しを「大堀切」に利用したと考えられる。

この道は、小田原へ通じる、幹線道路だった可能性もあろう。

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現状は、ご覧の通り、整備され歩き易くなっている。

ついでながら、此処は2009年の大河「天地人」のロケで、

春日山城のシーンに利用されたそうだ。

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隣の「中の丸」からは、東側の多摩川を見渡せ、

二つの渡し(小田原道と川越街道)と水運が監視出来た。

西側、大手口前のバス通りは既述のように、

古甲州街道(中世の甲州街道)で、

城直下に、連なるように三つの宿と市があったとされる。

古道と河川、宿、市の立地からしても、この城は、

中世山城の諸条件を完備していると云えるわけだ。

次回は、是非とも、この宿跡を探索せねばなるまい。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月27日 (土)

付録・滝山城へ(3)

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滝山城は典型的な中世山城の諸条件をほぼ完璧に備えている。

まず、防御施設を観ていこう。大手道はすぐ急坂となる。

U路状に掘り込んだ「堀底道」で、両側上から攻撃し易い構造だ。

(類似した施設を鎌倉周囲の切通しや古道で見たことがある)

例の如く、道は左に大きくクランクし、木戸が設けられていた。

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藪や樹木に覆われ、浸食もあるので、判り難い所が多いけれど、

それでも、この城の遺構はよく残っているほうだろう。

空堀の真ん中を掘り残して、通路とした「土橋」(どばし)だ。

現在は遊歩道になっているので、道が拡幅されている。

往時は人が一列になって通れる程度だった。

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曲輪(くるわ)の出入り口で、これもクランク状だ。

「枡形虎口」(ますがたこぐち)と呼ぶ。

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木立の中から現れた、曲輪の跡。

広さは様々だが、こういった幾つもの曲輪を、

細く複雑な通路で連結したのが、中世山城の構造である。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月26日 (金)

付録・滝山城へ(2)

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現在、滝山城址は都立公園になっており、

遊歩道が整備されているので、歩き易い。

竹薮と生茂った樹木で、判り難いのだが、丘陵の中には、

空堀と土塁が縦横に走っている。

一寸した窪地、崖、平場、盛り上がりなどは、

全て、山城の防御施設の跡だ。

往時は眺望を確保するために、樹木が切り払われ、

土がむき出しの状態だった。遠方から観ても、

其処に山城があるのが、一目瞭然だったろう。

もとより、領民や寄せ手に対する、

デモンストレーション効果もあったはずだ。

安土城に至っては、それが第一の目的になっていく。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月25日 (木)

付録・滝山城へ(1)

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今回の、中世山城探索の付録ではあるが、

十日ほど前、一寸時間を作って、滝山城址を覘いてきた。

彼の北条氏照が、八王子城へ移る前に居た城だ。

八王子市の北端、多摩川右岸段丘上(標高160m)にあり、

対岸は昭島市になる。

バス通り(滝山街道=古甲州道)裏の住宅地を抜けると、

鬱蒼とした藪と里山林の中に、大手口が現れた。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月24日 (水)

「平清盛」を視る(51)

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保元・平治の乱のように、鹿ケ谷事件の描き方も丁寧だ。

発端になったのは、治承元年(1177)四月に起きた、

加賀国白山社末寺、鵜川寺での国司(西光の子、師高)と、

寺側との乱闘事件である。

平家物語(百二十句本)の当該箇所を読み直してみた。

…(故信西入道には、師光、成景という者が仕えていた。

  もとより、氏素性の卑しい者たちだったが、

  気が利くので取り立てられた。信西の死後は出家して、

  西光、西景と名乗り、後白河院の財政責任者になっている)

…その西光の子が師高である。これも相当な切れ者で、

 検非違使尉まで昇進し、加賀守になったが、任期中は、

 強引に同国内の寺社、権門勢家の荘園を没収して廻って、

 散々な有様であった。弟の師経が目代として、赴任すると、

 国府近くの鵜川という山寺で、寺僧たちが入浴していたところへ、

 押し入り、自分は入浴し、下人たちに馬の湯浴みなどさせた。

 寺僧たちは怒って「昔から、当寺に国府の役人が入ることは、

 禁じられている。先例に則って、すぐに狼藉を止めさせよ」と叫ぶ。

 師経も、「先々代の目代は弱腰だったから、馬鹿にされたのだ。

 当目代はそうではないぞ」と応酬、殴り合いが始まって、

 師経が大事にしていた馬の足を折られてしまう。

 それからは、武器を取って戦う事態になった。

 師経は敵わないと思ったのか、退いて、国府の軍兵数千を召集、

 鵜川寺に攻め寄せ、僧房を一宇残らず焼き払ってしまった…

 (巻第一・第八句 成親大将謀反 師経狼藉より)

ドラマでは、後白河院近臣の西光親子を陥れるため、

清盛が仕組んだことになってるけれど、直ぐ後の、

鹿ケ谷の謀議、自体のほうが怪しいのは、既述の通りだ。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月23日 (火)

「平清盛」を視る(50)

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例によって、頼朝と北条政子の物語である。

政子を、気性の激しい、今で云うところの「悪女」に描く、

ステレオタイプな演出は、もう、飽き飽きしているのだけど、

今回はそれに「ひょうきんさ」が加わったのが、新機軸か。

「髭切」を「爪切」だなんてね。

昔から、政子のイメージには、吾妻鏡の影響が大きかっただろう。

確かに、吾妻鏡は無視出来ない。でも、扱いに慎重さが要る。

初代将軍の御台所、しかも二代、三代将軍の生母…

中世世界で、彼女の力が絶大だったのは疑えないが、

一方で、生身の中世女性としての、実像も知りたいわけだ。

黒田日出男氏の「源頼朝の真像」に興味深い指摘があった。

かつて、信濃善光寺に頼朝、頼家、実朝、三人の坐像があった。

現在、甲斐善光寺に頼朝、実朝、二像のみが伝わる。

政子と頼朝が、熱心に善光寺に帰依していたことと、

(中世から今に至る、女性の善光寺信仰には注目の要あり)

夫頼朝、二人の息子、頼家、実朝の不慮の死…

晩年の政子が、この三像を念入りに造らせ、

善光寺に安置した経緯を、綿密な考証で推理している。

また、その辺に、彼女の悲嘆の大きさも想いやれるとするのだ。

最近では、最も頷ける仮説だと思う。

ところで、今回の政子役、おなじみ大河常連の、

渡辺謙の娘だとは知らなかった。

もとより、この手の情報には、めっきり弱いので…

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月21日 (日)

中世山城のイメージ(3)

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応仁の乱の合戦場面で、よく教科書に引用されている、

「真如堂縁起絵巻」(重文 大永4年=1524頃)

に描かれた、城郭の様子だ。

楯を並べ弓を置く櫓、青竹の矢来で組まれた木戸、

枝先を尖らせた「逆茂木」状の木柵、

家紋を染出した幔幕を張り、楯をかき廻らせた本陣…

(ついでながら、幔幕の三つ巴紋は赤松氏のものだ)

もとより、この絵巻は、同時代成立なので、確度が高い。

戦国時代、ごく初期の、山城のイメージじゃないだろうか。

ぐるりと円状に囲った陣地を「曲輪」(くるわ)と呼ぶが、

外部の侵入者を防ぐ目的から、「結界」とも通じる。

確かに、どの城址にも「鎮守」を祀った痕跡が認められ、

宗教的な聖地、勝地と重なることが多い。

実生活の中で、宗教との境界がハッキリせず、

ごちゃ混ぜ状態なのが、中世世界である。

「城郭→曲輪→結界」と捉えると、案外、すんなりと納得がいくのだ。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月19日 (金)

中世山城のイメージ(2)

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中世山城の実相を、かなりの確度で描いた絵図を見つけた。

「越後国瀬波郡絵図」(重文 米沢市上杉博物館)

図中左上に「村上ようがい」とあるのは、

越後・村上城(本庄城 現新潟県村上市岩船郡)である。

太閤検地により、作成された「郡郷絵図」と考えられ、

田地の石高、人数、街道、社寺、郡界などを図上に示したものだ。

製作年代も、慶長二年(1597 八王子城の天正年間より少し後)と、

正確に判明している。

奇しくも、「上杉本・洛中洛外図屏風」と同じ、

越後の旧領主だった米沢上杉家に伝来した。

中世末期、戦国時代の村落絵図の希少な現存例で、

しかも、山城が極めて具体的に描かれているのだ。

山頂には、狭間を穿った土壁(白漆喰か?)と、

木柵で囲まれた、曲輪が四つ(頂上が本丸か?)あり、

櫓、門、板葺(檜皮葺?)の建物群が立ち並ぶ。

山麓にも、木柵に囲まれた、明らかに立派な、

入母屋造の城主居館らしき建物が見える。

八王子城と同様、典型的な「根古屋式中世山城」だ。

もっと下の平地には、草葺屋根の領民の家々が密集し、

街道と思しき道に沿って、「宿」のような様相を呈している。

もう少し後の、近世城下町の萌芽とも言えるだろう。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月18日 (木)

中世山城のイメージ(1)

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八王子城を観てから、

実際の、中世山城のイメージを探ってみたくなった。

殆ど無いとされる、絵画史料だけど、

意外なところに手懸りがあった。

やはり、あの「上杉本・洛中洛外図屏風」である。

まぁ、それにしても、此の屏風の史料性は大したものだ。

これだけで、論文が何本書けるのやら、想像もつかない…

さて、問題の場面だが、応仁の乱以来、京市中、至る所に、

城と変わらない、軍事施設が造られていたのだ。

屏風が描かれた、天文、永禄年間(1532~69/

  八王子城が存在した、天正年間とほぼ同時代)でも、

状況は同じだったはずだ。

(上)水路を兼ねた堀、板葺、草葺の建物を廻る高い土塀、

櫓と門が認められる。土塀は火矢を防ぎ、防火性がある。

2007年の大河「風林火山」で勘助が、山城築城の際に、

板壁に土を塗ることを勧めるシーンがあったが、その通りだ。

さらに、右端に堀を跨いで、土塀と二本柱の木戸がある。

これも、八王子城内各所で見つかったものを想わせる。

(下)同様な防御施設を内側から俯瞰した場面だ。

土塀上に構えられた櫓の構造がよく判る。

弓矢が立て掛けられ、常に人員が配置されていたようだ。

窓みたいのは、開閉式の狭間(弓鉄砲用の銃眼)かもしれぬ。

おそらく、こういった類の施設や建物が、各地の山城に、

構えられていたと想定しても、いいのではないか。

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(捨身 二代目CX5)

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2012年10月17日 (水)

八王子城へ登る(7)

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さて、今回の八王子城探索を締めくくるとしよう。

まぁ、中世山城と言っても、

普通じゃ、取っ付き難いスポットだろう。

目立つ天守閣や高石垣を備えた「近世城郭」のほうが、

人気が高いのは、仕方あるまい。

中世山城は、土塁、空堀、堀切、木戸、櫓、掘立小屋などから、

構成される、純然たる軍事施設で、現存のものは何処にも無く、

絵画史料でも、殆ど登場しない。

遺跡は、室町中期から後期(戦国期)に集中するが、

それ以前の、平安・鎌倉期のイメージがはっきりせず、

定義も、諸説分かれたままだ。

各地の城址は、ヤブと木立に覆われた、

ただの地味な、小山に過ぎず、

僅かな文書と発掘調査だけが、往時を知るよすがである。

そんな中で、近年、信長の安土城が、

中世山城と近世城郭の、一つの画期を示してきた。

八王子城も、その意味で、

中世山城の最後を飾る存在として、重要度を増しているわけだ。

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(捨身 二代目CX5)

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2012年10月16日 (火)

八王子城へ登る(6)

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頂上直下、八王子権現社への石段を登る。

此処まで来れば、後一息だ。

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現在の八王子権現社。

平安中期、延喜年間に修験者が開いたとする。

もとより、比叡山の八王子権現に倣ったものだ。

比叡山鎮守の日枝山王権現社には、神体山の八王子山がある。

こちらも、同様の意味がこめられていると想う。

諸国の修験者が集まる、修験道場だったようだ。

城主・北条氏照も、彼らから、軍事上の要害、宗教上の、

聖地、勝地として、此の山の情報を聞いていたはずである。

天正12年頃(1584)より、本格的に山城が築かれ始め、

関東第一の名城と謳われるようになるが、

まだ、完成しないうちに、秀吉の小田原攻めに遭って、

僅か半日で落城(天正18年=1590 6月23日)する。

当時、氏照は精兵を率いて小田原本城に在り、

山城に籠ったのは、小勢の留守部隊、妻子、老人たち、

僧侶、修験者、領民、宿の道々の輩、凡そ三千ばかりだった。

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山頂部に井戸が残る。

往時、山城の貴重な飲用水だったはずだ。

こういった「水の手」の存在も、修験者からの情報だろう。

今はポンプになっており、一応、水は出る(飲用不可)

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山頂曲輪に辿り着く(460m) 八王子城の中枢部である。

山頂部には幾つかの主要な曲輪があり、落城時には、

激戦が繰り広げられた。

守備していた城方の、殆どの者が討ち死にしている。

寄せ手側の記録によると、討ち取った者千余り、

秀吉の命で、其の首どもと、捕らえた者(多くは妻子たち)を、

包囲中の小田原城下へ送り、晒したということだ。

一方、籠城中の北条側は、著しく戦意を削がれ、

同年7月6日、ついに開城に至る。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月15日 (月)

「平清盛」を視る(49)

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これから注目の二人、後白河院近臣の西光と成親。

ともに、平家とは縁の深い立場なのに、次第に反発を懐くに至る。

大きな契機となったのは、

建春門院滋子(院と清盛の関係を取り持っていた)の急死だった。

翌年、二人は平家打倒の陰謀を企んだとして(1177年 鹿ケ谷事件)

処断されてしまう。

この事件、最近では、清盛による、

「でっち上げ」の可能性が指摘されている。様々な意味で、

いかにもタイミングがよすぎると云うのが、その理由だ。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月14日 (日)

八王子城へ登る(5)

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今回は、八王子城址管理事務所のボランティアガイドの方に、

道案内をお願いしてみた。初めて場所、しかも、

一寸した山であるから、効率よく、安全にというわけだ。

実際、これは正解で、時間を節約出来て、

二時間程度で、一通り探索し終えたのだ(感謝です!)

まず、御主殿跡の直ぐ上の、間道へ入り、

ヤブ漕ぎを繰り返しながら、山道をよじ登る。

(下手をすると、深いヤブで道に迷う可能性もあり)

途中で、整備されたメインルートの階段道と合流し、

幾つかの平場(山城の曲輪跡=防御施設)を過ぎて、

山頂曲輪跡(本丸=460m)に至る。

そんなに長丁場ではないけど、急斜面があるので、

軽登山靴は必携、尚、ザックやストックがあれば、安心だろう。

谷一つ隔てた、高尾山ほどとは言わないが、眺望も悪くない。

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(捨身 二代目CX5)

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2012年10月13日 (土)

八王子城へ登る(4)

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城主館跡への虎口(入り口)石段は鍵形に屈曲し、上りきると、

冠木門(復元)が建つ。門をくぐったところの広場が御主殿跡だ。

此処には、礎石を持つ、城主居館と客殿、庭園などがあり、

非常に多くの出土品が見つかった。

(いずれも、落城時の火災の痕を残す)

現在、出土時の状況が判るように、

礎石の配列を復元する工事を行っている。

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御主殿跡を下った沢(城山川)に、小さな滝があり、

「御主殿の滝」と呼ばれる。

天正十八年(1590)六月二十三日、

秀吉方、前田、上杉、真田勢(凡そ一万五千とも)に攻められ、

たった半日で落城した際に、城方の妻子多数が、

此の滝上で自害し、身を投げたと伝わる。

沢の水は、その血で赤く染まり、下流の村々では、

米を焚くと赤くなったので、赤飯供養をするようになったと云う。

そういえば、去年の夏、

下流の宿跡で、戦死者を供養した地蔵堂を探索していた。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月11日 (木)

八王子城へ登る(3)

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八王子城は戦国末期(1578~90)で、関東最大規模の、

中世山城と考えられている。

通常、中世山城は、土塁、空堀、堀切、櫓、掘立小屋などから、

構成され、石垣は殆ど使われていないが、

この城は、小規模ながら、例外的に石垣が多用されていた。

山麓の城主館跡(御主殿跡)虎口石段の敷石には、

落城時(天正10年=1590 秀吉小田原攻め)の、

火災の痕跡が残る。

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城址の彼方此方の斜面に、往時の石垣が露出しているが、

高さは2mを超えず、素朴な野面積みばかりだ。

安土城のような、高度な技術である、穴太積の「高石垣」ではない。

まだ、関東では出来なかったのだろう。

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一方、復元された、曳橋下の石垣。

下に見える、ペンキで数字が記された石が当時のものだ。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月10日 (水)

八王子城へ登る(2)

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八王子城跡の入り口は、バス停から徒歩30分程の山裾にある。

沢(城山川)に沿った緩やかな登り坂だ。

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山麓の大手門跡あたり。

発掘で礎石や敷石遺構が見つかっているが、

現状は埋め戻されている。

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城主の館(御主殿)跡は、やや登った沢の向こう側にあり、

其処に至る「曳橋」が再現されている。

元々は綱でスライドする形式だったらしい。

石垣も復元だが、所々に当時の石を用いる。

しかし、この石垣は一寸立派過ぎるようだ。

最近では、土留め程度だった考えられている。

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曳橋を渡ったところにある、復元された御主殿入り口(虎口)

石積みの多用には、安土城の影響が覗えると云う。

16世紀後半(天正年間)関東最後の中世山城である。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月 9日 (火)

日々の写真 10/8

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新宿ヨドバシにて、CL用の1.35Vバッテリーと、

35フィルム(PN400N五本組)を仕入れ、

日本橋、三井記念美術館の、

「特別展 琵琶湖をめぐる近江路の神と仏 名宝展」(~11/25)

を観た後、復元成った東京駅まで歩行する。

戦前戦後と、此処は父親お気に入りのスポットだった。

人混みを掻き分けつつも、暫し感慨に浸る哉。

……………

其れにつけても、此の連休、疲れること多かりき。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月 8日 (月)

「平清盛」を視る(48)

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平時忠は、暗く貧相、でも、どこか滑稽で憎めない男に描かれる。

「禿」を組織、指揮する「秘密警察長官」のような設定なのだが、

実際に、検非違使を、現場からトップ(別当)まで歴任した彼は、

そんな役に、うってつけだったかもしれない。

京市中の河原者・非人を管轄したのは、検非違使だったからだ。

政変に連座すること度々に及び、解任や島流しに遭っても、

時には、政敵とも手を結ぶしたたかさで、生き残っていく。

考えてみれば、面白いキャラクターではある。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月 7日 (日)

八王子城へ登る(1)

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引っ越して来て、やっと二年目にして、

当地第一の中世史スポット、八王子城址へ登ってきた。

JR高尾駅から路線バス、徒歩、そして登山(445m)である。

まずは、駅前にて、名物とろろ蕎麦をすすり、いざ山城へ。

それにしても、今日は、久しぶりの登山で、いささか疲労した。

因って、ぼちぼちとアップするので、ご容赦を(あ~あ、疲れた)

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月 6日 (土)

「平清盛」を視る(47)

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ドラマでは、清盛の意を受けて、時忠が組織したことになっている、

異様な、少年諜報集団「禿」(かぶろ/かむろ)は、

やはり、触れねばならぬだろう。

ネタ元の平家物語、

百二十句本 第二句 「三台上禄」 「かぶろの沙汰」より、

以下、そのくだりを引く。

 …入道相国(清盛)の謀り事として、

  年のころは、十四五六ばかりの少年を、三百人集め、

  髪を「禿」(おかっぱ)に切りそろえ、

  赤い直垂を着せて、召し使われたのだが、

  その少年たちは、京市中に溢れ、大路小路を往き来した。

  もし、平家のことを悪く言う者があって、

  一人でも聞きつけられたら最後、直ちに三百人へ触れが飛んで、

  その家に乱入、家財資産を没収し、本人を絡め取って、

  六波羅に引っ立ててしまう。

  そんなわけで、心では思っていても、

  口に出して平家を批判する者はいなくなってしまった。

  「六波羅の禿」というだけで、道の馬も車も皆、避けて通した。

  「宮中の門をおおっぴらに出入りしても、咎められることがない。

  都の役人も、恐れて見て見ぬふりをした」と云われるが、

  其のとおりである…

「禿」の正体を類推するに、幾つかの手がかりが認められる。

まず、「禿髪」(おかっぱ)=童髪(童形)蓬髪と、赤い直垂で、

異類異形であること。

そして、業務として、犯罪捜査と犯人逮捕、

当該家屋、資産の破却没収が行えること。

つまり、髪型は、河原者・非人に準じるし、

仕事や派手な装束も、検非違使の下部、放免に通じる。

しかも、平家の本拠・六波羅は、河原者・非人の集住地、

賀茂の河原と、葬送地、鳥辺野に極く近い。

清盛が、河原者・非人たちの子弟を、

このような形で組織したとしても、不思議ではないのだ。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月 5日 (金)

殿ヶ谷戸秋日(3)

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秋の谷戸奥を彷徨うに、

持参したカメラはコンデジ二台のみ。

デジ一眼だったら、物音一つしない集落の中では、

目立ち過ぎてしまう。

前半はCX5、後半はS100を使ってみた。

コンデジでも、この二台は、性格が全く異なるから、

結構、絵の違いを愉しめるのだ。

ついでながら、栗のスイーツが食べたくなった。

(捨身 S100)

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2012年10月 4日 (木)

殿ヶ谷戸秋日(2)

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刈り入れ間近の田圃も、好きな風景の一つだ。

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里山の実りは愉しい。柿も多かったけど、色付き始めだった。

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去年、越してきたばかりの頃は、バス通りから観るだけだったので、

判らなかった。

一歩、谷戸へ踏み入れば、其処彼処で咲き乱れて居るわけだ。

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左端の石は、

もともと集落の入り口を守っていた、塞の神(道祖神)か?

素朴な自然石だから、中世へ遡るかもしれない。

時代が下る、右側の地蔵たちも、

この世とあの世の境界に関わるから、同様の意味合いがある。

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尾根突端の御嶽社より、斜面で囲まれた袋状の谷戸奥を覗く。

「隠れ里」みたいな風情だ。

畑や休耕地になっている、階段状の平場が認められるが、

何らかの遺構(館や防御施設跡)のようにも見えてくる。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月 3日 (水)

殿ヶ谷戸秋日(1)

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秋日和に誘われて、

旧市街行きの路線バスを途中下車した。

稲穂垂れる田圃を抜け、

戦国期の領主が館を構えたと伝わる、谷戸へ向かう。

イメージしたとおり、

竹林で、ひっそりと咲く彼岸花を見つけた。

谷戸奥には、

彼の領主が天文年間に創建した御嶽社が鎮まっていた。

(捨身 二代目CX5)

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2012年10月 2日 (火)

「平清盛」を視る(46)

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此のところ、清盛嫡男、小松内大臣こと重盛の憂鬱を描いている。

愚管抄などでは「心ばえ正しき人」と評判がよいのだが、

「殿下乗り合い事件」の報復だけは理解不能と述べる。

大き過ぎる父清盛の存在、事件での突飛な行動、

また、「早く死にたい」と洩らしていたと云うのであれば、

彼の早い晩年の、病んだ心身を示唆するもので、

十分、あり得る話だと想う。

平家物語は、その辺りを脚色して、

滅亡する平家を予感させるキャラクターとしての、

重盛像を創ったのだろう。

そういえば、彼の子、維盛の入水自殺でも、

そんな重盛の生き様が影を落としていたような書かれ方だった。

これも、ありそうな筋だな。

(捨身 二代目CX5)

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