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2012年11月の記事

2012年11月29日 (木)

鉢形城へ(4)

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荒川右岸断崖上に築かれた鉢形城は、

南側を、荒川の支流、深沢川に挟まれ、

深く切れ込んだ渓谷が内堀の役割を果たしていた。

城の外郭は、さらに外側へ広がり、空堀と土塁が囲む。

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遊歩道が張り巡らされ、よく整備された城内には、

町立の展示施設「鉢形城歴史館」が建ち、

四阿(あずまや)と四脚門が復元されている。

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発掘調査で出てきた「石積み」も再現された。

石垣ではなく、あくまでも「石積み」としているのは、

土塁の補強のために、階段状の構造になっており、未だ、

穴太積の高石垣のような、高度な技術は使われていないからだ。

これは八王子城と同じである。

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出土した礎石上に復元された四脚門と石段。

あの上杉本・洛中洛外図屏風に描かれている、

管領細川邸の板葺き屋根を参考にして、造られたそうだ。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月27日 (火)

南下する

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天気がどうにか持った連休最終日、

修理なった二代目CX5と、ライツ・ミノルタCLを携えて、

鉢形城→滝山城→八王子城と辿った線を南下してみた。

武蔵国から、峠一つ越えて、相模国に入る。

JRの路線で行けば、八王子より横浜線で橋本、其処で、

相模原線に乗り換えるルートだ。

もとより、中世古道で、戦国期には、上野、武蔵国を

小田原と結び、北条氏にとっても最重要路だった。

眼前に相模川が流れ、渡し場、関所、宿、市があった。

当麻宿と云い、かなり大きな宿だったと想われる。

この宿の中心は、時宗の「当麻道場=当麻山・無量光寺」

(時宗では、藤沢の遊行寺と並ぶ主要寺院)である。

最寄駅、原当麻で降り、早速、探索を開始した。

(鉢形城のほうも、もう一寸続きますので、お忘れなく)

(捨身 二代目CX5)

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2012年11月26日 (月)

「平清盛」を視る(57)

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ドラマは清盛晩年の精神の荒廃ぶりを描いて、佳境なんだろうけど、

それは、ひとまず置くとして、また一寸、細部を視よう。

病を含めて、寝所で臥せっている場面は何度かあった。

どうかなと思ったのは、烏帽子のことだ。

重盛の時は、烏帽子をとって、横になっていた。

今回の知盛は、烏帽子を着けたまま、横になっている。

どちらが正しいかと言えば、後者である。

中世前期の世界では、被り物は成年男性の必須アイテムであった。

露頂(ろちょう=髷を露わにする)は、とんでもなく、

恥ずかしい状態で、(入道姿を除いて)即、異形なのだ。

 (相手の冠、烏帽子を打ち落とすことも、非常な侮辱となる。

  露頂が一般的になるのは、室町後期から戦国期だ)

たとえ、寝床で何も身に着けていなくても、

烏帽子だけは被るものだった(描いた絵巻もある)

現代から想像すると、かなり滑稽な姿なんだが、

彼らは大真面目だったわけだ。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月24日 (土)

鉢形城へ(3)

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八王子城主・北条氏照と、鉢形城主・北条氏邦は、

同母四人兄弟のうち、二番目と三番目で、一歳違いだった。

(天正十八年の時点で、51歳と50歳)

一番上は北条家四代目当主・氏政(53歳)、

四番目は韮山城主・氏規(46歳)

母親は三代目氏康の正室、駿河今川家の出だ。

(彼女の母親は、あの寿桂尼で、今川義元とは同母兄妹)

秀吉の小田原攻めで、生き残ったのは氏邦と氏規である。

(氏政と氏照は、秀吉から切腹を命じられた)

氏邦は加賀前田家に禄を得て、子孫は紀州徳川家中へ、

氏規は河内狭山藩一万石の租となり、明治維新まで続く。

この北条四人兄弟、それぞれの運命が実に興味深い。

特に氏規は、今川家の祖母・寿桂尼のもとで人質として育ち、

同じ人質同士の家康と親交があったと云われる。

後に、秀吉との和平を主張して交渉に当ったり、

韮山城で四ヶ月も籠城して奮戦するなど、有能だった。

家康の説得で降伏するが、氏政、氏照らと掛け合って、

小田原開城にも貢献した。

しかし、小田原北条記によると、兄たちの切腹に際し、

介錯を命じられるという辛酸を舐めている。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月22日 (木)

鉢形城へ(2)

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天正十八年(1590秀吉小田原攻めの北国勢は、

前田、上杉、真田、本多ら、北陸信濃の大名たちから成り、

総勢五万と云われた。

三月末、軍勢は碓井峠を越え、関東へ入った。

上野、武蔵の北条方諸城を下しながら、五月初め、

鉢形城を包囲するに至る。

城を守るのは、北条氏邦以下、三千五百である。

氏邦は北条氏康の四男、あの八王子城主・北条氏照の、

直ぐ下の弟にあたる。秀吉小田原攻めに際し、

彼は、籠城策を採る兄たち、氏政、氏照らに、

城外決戦を主張して、本城小田原に拠らず、

自らの居城、鉢形城へ引き籠ったのだ。

この対立が、結果から観れば、氏邦の、後の去就に、

影を落としたと言えなくもない。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月21日 (水)

鉢形城へ(1)

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JR八高線は首都圏に残された数少ないローカル線であろう。

電化されているのは、南半分の高麗川までで、

北半分の高崎までは、ディーゼル車に乗る。

この一寸した旅気分がいいわけだ。

さて、ディーゼルに乗り換えて、

眼前に秩父山系を臨む、寄居駅で降りた。

八王子城攻めの直前、天正十八年(1590)六月十四日に、

落城した、鉢形城を探索するのである。

その城は、荒川右岸の断崖上に築かれ、

広大な縄張りを有していた。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月20日 (火)

北上する

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天正十八年(1590)六月二十三日、八王子城を攻めた、

秀吉の北国勢(前田、上杉、真田)が辿った道に興味を持った。

そのルートが、八王子駅を起点として、北上するJR八高線と、

ほぼ一致することにも気付く。

よく晴れた晩秋の休日、初めて八高線に乗り、

探索の旅へ出かけた。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月19日 (月)

「平清盛」を視る(56)

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清盛と、白拍子・祇王(ぎおう)祇女(ぎにょ)姉妹、仏御前を巡る

ラブストーリーだ。

彼女たちは清盛の前に、招かれていないのにやって来る。

「推参」(すいさん)と云い、通常は非礼なのだが、

ネタ元の平家物語にあるように、

「遊びの者の推参はつねのならひ」

「なにかはくるしかるべき」なのである。

ドラマでは、原典通り、仏御前に、今様の、

「君をはじめて見るときは…」を謡わせたのは宜しとしたい。

ついでながら、祇王、祇女の「祇」は、

「義」であったのが正しいようだ。

(古態本の延慶本ではそうだし、百二十句本は仮名書きだ)

より流布している覚一本が「祇」となっているので、

脚本家はそっちしか見ていないのだろう。

今のトレンドは覚一本じゃないから、

平家のストーリーを借りるのなら、もう一寸勉強して欲しかった。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月18日 (日)

「のぼうの城」を観る

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今日は冷たい雨でもあり、シャッターを押さない一日だった。

替りに、去年一月、東博で撮った中世後期の甲冑捨身哉。

と云うのも、話題の為に「のぼうの城」を観たからである。

でも、残念ながら、さして感想が無いのだ。

この映画自体、とてもオーソドックスな(古臭い)作りで、

著しい時代考証の誤りは無いものの、いささか退屈感がね。

幾つかのシーンで、往年の名作と重なるのもあった。

農民が田植えで田楽踊りをするシーンは「七人の侍」

迫力の城攻めは、何故か「キングダム・オブ・へヴン」の、

エルサレム攻城シーン(さっきBSでやっておったな)を想い出した。

一寸魅せたのは、主役、萬斎の水上田楽踊りぐらいか。

あとは、そうそう、騎馬の鉄砲隊が出てきたけど、

実際に、使われたかどうかは別にして、映像化は初めてだろう。

ついでながら、領民と領主が一緒に城へ籠るのは、

寄せ手による「乱取り」(略奪や拉致)や、

「逃散」(ちょうさん=農民の逃亡と耕作放棄)を防ぐ、

戦国期では、よく行われた方法だった。

 (全く同時期の、八王子城攻めもそうだったが、

  こちらは悲劇になってしまった)

(捨身 CX3)

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2012年11月15日 (木)

スタンプラリーゴール!

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「武家の古都・鎌倉 世界遺産登録推進 三館連携特別展」

「古都鎌倉と武家文化」(鎌倉国宝館 ~12/2)

午後遅く、スタンプラリー最後の一館を観る。

今回の企画、各館とも、展示内容はかなり充実していたと思う。

まず、本日の成果は「男衾三郎絵詞」(重文 13~14C東博)だ。

ちょうど、例の山賊との合戦場面が展開されており、

問題の金髪男を、しっかりと確認してきた。

今夏、奈良博で観た「頼朝像」(甲斐善光寺)と再会のオマケも。

鎌倉の紅葉はまだ早い。

今月の終わりから、来月の初めが見頃だろう。

晩秋の夕日に照らされて、八幡宮の遣り水に映り込む、

色づき始めの葉を撮ってみた。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月12日 (月)

「平清盛」を視る(55)

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重盛の死と「治承三年清盛のクーデター」を描く。

死の床にある重盛に、愚管抄で記されている如く、

「疾く死なばや」(早く死にたいものだ)と吐露させたのはよい。

おそらく、これは事実だったと想われるからだ。

清盛と後白河院、この札付き、二大特異キャラクターの間に、

挟まれ、翻弄され続けたあろう、良識人重盛、

つまり、中世世界で、ごく普通の良き人が、

心身を深く病むに至ったとするのは、まぁ、頷ける話なのだ。

清盛のクーデターのほうも重要なので、後ほど触れよう。

(捨身 Canon S100)

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2012年11月11日 (日)

「平清盛」を視る(54)

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此処に来て、ドラマの展開に気がかりなことがある。

特に、前回を視て、これはと思うようになったので、

今週の回の前に一言書く。

まず、平家物語の筋をなぞるようになってきたこと。

鹿ケ谷事件の結末、ついに清盛が、張本の後白河院を、

押し込める算段をしようとした時に、

涙ながらに諌める重盛のシーンだ。

平家物語・巻第二・第十六句「大教訓」で、有名な話だけど、

もとより、平家物語の創作である。

しかも、平家では、一番つまらないくだりで知られる。

(この話を創作した、平家作者の意図や背景については別の話)

筋を借りるなら、独自の解釈と批判的な視点が欠かせないのは、

当然だが、それが無い上に、ご丁寧にも、重盛に、

 「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず。

  重盛の進退ここにきわまれり」

と云う、ドえらく!古臭い台詞まで吐かせた。

(戦後世代じゃ、全く知らない人も多かろう。無理からぬ)

原典は平家物語ではない。

それを下敷きにして、江戸後期に書かれた、

「日本外史」(頼山陽)で創作されたものだ。

戦前、戦中の尋常小学校「国史」の教科書に引用されて、

広く人口に膾炙したから、ご年配の方々はよくご存知だろう。

これで「極悪非道の逆臣清盛」像が強く定着してしまったわけだ。

戦後の史学では(小説やドラマも含めて)

極端に歪められてしまった清盛像を如何に、

実像に近づけるかが、課題となったのは論を待たない。

その意味で、昔の大河「新平家物語」も努力していたはずだ。

 (確か、「大教訓」の場面は外し、重盛の心身の消耗の方に、

  重点を置き、描いていたと記憶する。順当な線だった)

脚本家は、この終盤で余程注意しないと、

(既に、クランクアップしてしまっただろうが)

今年の大河の、折角の評価をポカにしてしまう可能性がある。

疑いたくはないけれど、仮に、

旧きを好む向きへの、リップサービスだとしても、

安易過ぎて、芸が無いのは明らかだ。

(捨身 二代目CX5)

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2012年11月 5日 (月)

「平清盛」を視る(53)

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義理の弟である、重盛の顔を立て、成親は備前へ流される。

もとより清盛は、西光と同様、命を奪うと決めていた。

当時、既に、道中で殺されるという噂がもっぱらだったらしい。

平家物語では、身柄を、まず、備前の児島、有木の別所と移し、

ついに、備前と備中の国境、吉備の中山で、殺害されたとする。

酒に毒を入れて勧めたが、効かず、崖下に先を鋭く尖らせた、

木や鉄棒を差し並べ、其処へ突き落とす方法だった。

別に、愚管抄は、七日ほど食事を与えないで、

無理やり強い酒を飲ませたりしたので、まもなく死んだと記す。

ドラマは、それに近い「餓死説」をとった。

いずれにしても、清盛の怒りは、余程深かったと想われる。

翻れば、頼朝だって(殺せたはずだ)…含むところは大きい。

(捨身 二代目CX5)

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2012年11月 1日 (木)

双六狂!の中世

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今年の大河「平清盛」が、「双六」を効果的に、

時代の象徴する小道具として、使ったのは特筆出来るだろう。

それ程、双六(博打)は、中世を通じて大流行したわけのなのだ。

サントリー美術館の「お伽草子」(~11/4)でも、

幾つか、面白い場面を観られる。

「長谷雄卿草子」(重文14C 展示は前期のみ)

 平安初期の名高い学者、紀長谷雄は、

 男に化けた朱雀門の鬼に、双六の勝負をのぞまれて勝ち、

 約束どおり美女を得るが、禁を破って、百日待たずに、

 美女に手をつけると、たちまち水となって流れ失せてしまった。

 この美女は鬼が死体を集めて造ったもので、

 百日経たないと、人間に成れない代物だったのだ。

朱雀門の楼上で、双六の勝負をする二人。

男は負けが込んで、熱くなり、つい鬼の本性を現してしまう。

なかなかの臨場感で、大河の双六シーンを彷彿とさせる。

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「付喪神絵巻」(つくもがみえまき 16C)

年末の煤払いで、大路に棄てられた古道具たちが、

妖怪(付喪神)に変化して、持ち主だった人間へ復讐する。

彼らは、船岡山の坂をねぐらに、都へ出て暴れまわっては、

双六(博打)に入れ込むのだったが、

やがて、護法童子に調伏され、改心し出家、往生を遂げたと云う。

(捨身 二代目CX5)

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