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2012年12月の記事

2012年12月31日 (月)

「平清盛」を視る(65)

B12123001

この稿をBSの総集編を視ながら書いている。

今回で、とりあえず一旦、締め括ろうと思う。

文治二年(1186)東大寺再建勧進の為の、

二度目の奥州下りの途上、西行は鎌倉で頼朝と会う。

吾妻鏡で有名なエピソードだ。

最終回は、西行が多くを語る筋立てになってしまったが、

ドラマは頼朝を語り手にしていた。その違和感は既に述べた。

脚本の甘さであろう。西行の大きさに負けたわけだ。

さて、今年の大河の、最大のプラスポイントは、

近年に無い作り込みのよさである。

代表的な中世史家が(異例の)二人も考証についていたし、

中世世界の習俗も、細部までよく再現されていた。

一方、マイナスポイント、こっちのほうが大事なのだけど、

「何故、今、清盛なのか」という問いに十分答えられなかったことだ。

(拙ブログでも、二年前製作発表の時に触れている)

特に、終盤にかけて、脚本が安易に、

平家物語に依拠するところ、大であったのは否めない。

(このやり方では、従来の「文学」の視点を超えられず、

 平凡な「無常観」に絡め捕られてしまう)

最後まで、型破りな挑戦者「清盛」に拘り続けて欲しかった。

(今後も、折に触れて、気付いたことがあればアップします)

(捨身 Canon S100)

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2012年12月30日 (日)

平家は都を落ちはてぬ

B12122901

平家物語の、巻第七・第七十句 「平家一門都落ち」は、

繰り返し読むことが多い段の一つだ。

今年、拙ブログにかなりアップした、

「春日権現験記絵巻」(14C初)の中に、

平家都落ちの場面が出てくる。春日大明神の神慮に拠り、

平家と縁が深かった摂政・基通が、行列から抜けるところを描く。

騎馬集団の先頭、鞭で行き先を指し示しているのが、

棟梁・宗盛であろう。

同様に、後白河院も、いち早く叡山へ逃れてしまっていた。

二人を拉致し、西国へ赴こうとした、宗盛、重衝らの目論みは外れ、

一門の重鎮、頼盛父子さえ、離反していく。

…寿永二年(1183)七月二十五日、平家は都を落ちはてぬ…

と、一気に気持ちを断ち切るように終わる、結びの一行が好きだ。

(捨身 Canon S100)

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2012年12月28日 (金)

「平清盛」を視る(64)

B12122701

最終回、熱病に魘される清盛は、生霊となり、

伊勢の西行の庵に現れる。

こういう筋立ては、前にも視ているな。

厳島へ向かう、清盛一行の唐船を、

讃岐に流された崇徳院の生霊が翻弄する場面だ。

今回の脚本家は生霊を好むのか、

怨霊のほうは、ついに出てこなかった。

ところで、清盛の病を髄膜炎ではないかとする、

現代医学の立場からの説があるようだ。

とすれば、幻覚も見ただろう。

…………

今冬の、師走寒波のせいか(当地、今朝は零下五度!)

腰痛が坐骨神経痛に発展してしまった。

もとより、鎮痛剤や貼り薬の効験があったのは、最初のうちだけだ。

脚を引きずりながら、明日は、

いつもの、世田谷宿の整形外科へ往くしかない。

(捨身 Canon S100)

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2012年12月24日 (月)

「平清盛」を視る(63)

B12122301

平家物語(百二十句本)巻第六 「入道死去」 より

…同じき四日、病に責められ、せめてのことには、

 板に水をそそぎ、それに臥しまろび給えども、

  助かる心地もし給はず、

 悶絶僻地して、つひにあつけ死にぞ、死に給ひける…

諸本に「あつち死(じに)」とあるのが、一般的だけど、

他に、「あつた死」「あつさ死」「あづち死」などが見える。

いずれにせよ、熱さに苦しみ悶え、

ころげまわりつつ、死んだと云うことだ。

さて、早いもので最終回、

いろいろ振り返りながら、一寸総括してみようか。

(捨身 Canon S100)

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2012年12月22日 (土)

「平清盛」を視る(62)

B12122101

平家物語(百二十句本)巻第六 「入道死去」 入道遺言 より

…治承五年、閏二月二日 耐え難いほどの高熱だったが、

 二位の尼殿、枕元へ寄り、泣く泣く仰るには、

 「ご容態は、日増しに望み少のう、お見受けいたします。

  お心にかかることがありましたら、

  気分のはっきりしておいでの時に、仰せ置いてください」

 日頃は、激しい気性の入道相国も、さすがに苦しげな様子で、

 「われ、保元、平治の戦よりこのかた、度々の朝敵を追討し、

 恐れ多くも、帝の外祖父、太政大臣に至って、

 栄耀栄華は子孫に及んだ。

 ただし、伊豆国の流人、頼朝の首をついに見なかったことは、

 無念至極である。自分に万一のことがあったならば、

 堂塔を建てたり、供養したりしてはならない。

 ただちに討手を遣わし、頼朝の首を刎ね、我が墓の前に懸けよ。

 それが何よりの供養であろうぞ」

 と仰ったのは、罪業深いことであった…

(捨身 Canon S100)

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2012年12月17日 (月)

「平清盛」を視る(61)

B12121601

ついに、清盛入道が熱病に斃れた。

平家物語(百二十句本)巻第六、

第五十五句「入道死去」「入道病ひの事」のくだりを引く。

…入道、病ひにつき給ひし日よりして、水をだにのどに入れ給はず。

 身のうちのあつきこと、火をたくがごとし。

 臥したまえる所、四五間がうちへ入る者は、あつさ堪えがたし。

 ただのたまふこととては、「あつや、あつや」とばかりなり。

 比叡山より、千手院の水を汲み、石の舟にたたへ、

 それにおりて冷したまへば、水おびたたしく沸きあがり、

 ほどなく湯にぞなりにける。もしや助かり給ふと、

 筧の水をまかせたれば、石や、くろがねなどの焼けたる様に、

 水ほどばしって、寄りつかず。おのづからあたる水は、

 ほのほとなつて燃えければ、黒煙殿中にみちみちて、

 うづまいて上がりけり…

所謂「焦熱地獄」に喩える、凄まじい描写だけど、

南都(大仏)を焼き滅ぼした罪は、斯くの如しと云うわけだ。

(捨身 Canon S100)

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2012年12月16日 (日)

当麻宿幻想(8)

B12121501

無量光寺の北西側、墓域を出た辺りに、市場と云う小字が残る。

右手に見える、「市場」バス停の崖上が墓域で、

県道の左側に、市場集落が展開している。

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市場集落を南北に抜ける、古道と想われる、緩やかな坂道。

市は坂の上、相模川東岸崖線上にあったのか。

小田原北条氏は、六斎市(月六回)と認め、管理を任された、

当麻三人衆の関山氏が、座銭等々を徴収していたようだ。

関山氏は、当麻宿全体を取り仕切り、その苗字の如く、

関守り(関所)渡し守り(渡し場)を務め、関銭(通行税)の、

徴収権も持っていたと考えられる。

宿の「有徳人」(富裕者)として、羽振りが良かったはずだ。

でも、上納先に、北条氏と並んで、無量光寺の存在があった。

戦国期には、かなりの大寺に発展し、此処の時衆は、

僧兵のように武装していたらしい。

関山氏も、阿弥号を持った時衆の一員だったかもしれぬ。

B12121503

坂上に鎮座する天満宮。社は南面するが、

参道は、古道から直接伸びている。

元は山王権現社で、牛頭天王を祀ったこともあったようだ。

疫病神を防ぐ、中世世界の都市的な場には欠かせない装置だ。

あるいは、市の神だった可能性もあろう(摩多羅神の影も)

B12121504

集落には鍛冶坂と呼ぶ坂道があり、大きな旧家が目につく。

やはり、市跡を想起させるような、独特な風情が漂う。

(捨身 二代目CX5)

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2012年12月15日 (土)

治承四年十二月二十八日(2)

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「東大寺大仏縁起」は、南都焼討ちの総大将、平重衝の姿を描く。

中央馬上、狩衣、立烏帽子の男である。

平家物語も、彼の最後の様子を、かなり好意的に語っている。

ある意味、平家男子の、理想像とされたようだ。

一の谷の戦いで捕虜となり、鎌倉で頼朝と対面、

厚遇を受けるも、焼討ちされた南都の衆徒へ引き渡される。

京都と奈良の中間点、木津川で斬首され、

奈良坂・般若寺の大卒塔婆(頼長の墓と云う)前に晒された。

愚管抄には、或る人相見に優れた僧が、

咎人として引かれて往く、重衝を観て、

どうしても、死相が窺えぬと訝った話が載る。

(捨身 Canon S100)

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2012年12月14日 (金)

治承四年十二月二十八日(1)

B12121301

前回の「平清盛」でも、一寸だけ出てきたけど、

治承四年(1180)12月28日の南都(奈良)焼討ちのことだ。

平家物語によれば、般若寺門前で指揮を執っていた、

総大将重衝が、夜間、同士討ちを防ぐために命じたはずの松明で、

在家に放火され、折柄の風に煽られて、燃え広がったとする。

失火説を採るが、当時は、真相不明だったらしい。

東大寺大仏殿では、二階楼上へ非難した、

僧俗老若男女千余人が、敵を登らせまいと、

梯子を引いてしまってので、逃げ場を失い、

猛火にまかれ焼死すると云う、惨事があった。

今年の夏、奈良博・特別展「頼朝と重源」で観た、

「東大寺大仏縁起」(室町後期 重文 上掲)は、その場面を描く。

筆者としては、失火よりも、前後の、

平家の切羽詰った状況や、清盛の性癖などからして、

周到な計画だったような気がしてならないのだが。

(捨身 二代目 CX5)

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2012年12月12日 (水)

「平清盛」を視る(60)

B12121101

もう、最終回が近いことだし、

気になったことは、今のうちに書いて置こう。

今年の大河は、武家儀礼は然ることながら、

平安時代の、公家の宮廷儀礼の再現が多かった。

記憶する限りに於いて、歴代大河で前例が無い。

もとより、考証や演出に、かなりの手間がかかったはずだ。

既に還都が決まった、福原の内裏で「五節の舞」が演じられる。

ドラマでは、二回目か(前回は白拍子・乙前が演じていた)

今回は陶淵明の、

「帰去来の辞」(帰りなんいざ…田園将に蕪れなんとす…)

の朗詠に合わせて舞う、趣向がとられた。

還都に因んで、これまでの経緯にくよくよとせず、

さあ、旧都へ還ろうと云うところだろうか。

どこか、滅びの予感のようなものも、漂わせた演出だった。

(捨身 Canon S100)

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2012年12月11日 (火)

当麻宿幻想(7)

B12121001

当麻宿の西端まで往くと、県道相模川橋梁・昭和橋の袂に至り、

当麻渡しの碑、石塔、板碑、道祖神(塞の神)が立ち並ぶ。

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宿跡の集落内には、細い路地が張り巡らされている。

昔からの生活路だろう。

宅地の地割も、その儘のところがあるようだ。

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祠、庚申塔、道標の類は其処彼処に観られる。

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堤防下の小さな社、白笹神社と云うらしい。

もとより、案内板も無く、由緒不明だが、

宿の鎮守=宿神の名残りと看ていいと想う。

気になるのは、この地区で、

大規模な区画整理事業が始まっていることだ。

貴重な宿の記憶も、失われつつある。

(捨身 二代目CX5)

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2012年12月10日 (月)

「平清盛」を視る(59)

B12120901

昔から、多くの大河が陥ってきた、終盤の弛みというやつで、

このところ、一寸パッとしないドラマ展開だ。

その一方、今回の大河で、ストーリー最大のキモ、

清盛白河院皇胤説も、再びクローズアップされてきた。

清盛による、王権簒奪と云うべき、

治承三年のクーデター、強引な福原遷都と還都、

これは、清盛が皇胤でないと、到底為し得ない所業なのだと、

主張する研究者は、意外と多いのだ。

(二人付いた時代考証者のうち、一人がそうだ)

でも、筆者として、組みし難いのは、

歴史的な結果から、遡って、要因を付会していく手法である。

まず、歴史的に、重要な原因を提示、実証しながら下り、

結果を導きだしていくほうが、しっくり来る。

清盛を皇胤と示唆するに、十分な一次史料、

(現存史料の新解釈も含む)が見出せない現段階では、

無理筋に近い説だと思う。

(捨身 Canon S100)

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2012年12月 9日 (日)

当麻宿幻想(6)

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無量光寺から、相模川河畔へ向かって下る。

渡し場までの低地が当麻宿だ。

県道(八王子より至る)を隔て、上宿と下宿に分かれる。

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殆どの家が建て代わっているが、宿の入り口には、

こんな古民家が、辛うじて残っていた。

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関山家と云う。一遍が出た、伊予河野氏の末裔を称している。

当地へ移住し、関所、宿、市を管理する役に就いたらしい。

もとより、無量光寺の大檀那でもある。

当麻宿には、そのような家が、三家あるとされ、

当麻三人衆と呼ばれていた。

小田原北条氏の陣立てにも、家老山角氏配下の足軽衆として載る。

B12120804

無量光寺の方を振り返ったところ(前方奥の木立)

道の左側に、前述の古民家が見える。

これから、宿跡深く入り込んで往く。

(捨身 二代目CX5)

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2012年12月 7日 (金)

当麻宿幻想(5)

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当麻山無量光寺の境内を出て、周辺部の探索を始める。

まず、手始めに、同じ微高地(亀形峯)内を歩く。

元は無量光寺の寺域だったところだが、

今は農地と住宅地になっている。

直ぐ後に、相模川東岸段丘の崖が迫る地形だ。

B12120602

その崖下に三嶋明神社(伊豆三島大社と、伊予大三島の、

 大山祇神社が本社とされる)があった。

何故、此処に鎮座しているのかと云えば、

三嶋明神は一遍の出身である、河野(越智)氏の氏神なのだ。

往時は、現存の熊野社とともに、無量光寺の鎮守だったのだろう。

当地の言伝えでは、当麻宿には、一遍の伝手を頼って、

一族に連なる人々が伊予から移り住み、代を重ねたとのことだ。

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段丘の坂道を登る。標高差十数m位だろうか。

南関東特有な、谷戸を呈する。

B12120604

坂を上りきったところに立つ石碑、「無量坂」と読める。

傍らの古い石塔などから、集落の道祖神か、塞の神と想われる。

さて、踵を返して、下手の当麻宿と市庭跡目指すとしよう。

(捨身 二代目CX5)

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2012年12月 6日 (木)

当麻宿幻想(4)

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墓域のほぼ真中に、歴代上人(住職)墓所がある。

ずらっと並ぶ石塔群の多くは中世のものだ。

中央に立っているのが「伝一遍塔」(柵内手前の球状小塔のほう)

一遍の墓所は兵庫県の真光寺に在るが、分骨されたと云う。

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一遍塔の直ぐ左隣が、一遍の後続者、他阿弥陀仏・真教の塔だ。

鎌倉後期の宝きょう印塔で、塔身部正面に、

文保3年(1319 真教の没年)の銘文を刻む。

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一遍は入滅(正応二年=1289)に当たって、経典著作を焼き払い、

自分の教えは一代限りとし、寺も、教団も残さなかった。

しかし、一遍の第一番目の弟子として、真教は、

後追い往生(自殺)が相次ぐ中、動揺する弟子たちを纏め、

教団の確立を決意する。

嘉元二年(1304)真教は時宗指導者の地位(遊行上人)を譲り、

此処、相州当麻宿に無量光寺を建立して、住することになった。

(捨身 二代目CX5)

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2012年12月 5日 (水)

当麻宿幻想(3)

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さて、当麻山無量光寺の見所はこれからである。

仮本堂の左側を廻ると、後背に墓域が広がる。

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何組かの墓参の方たちと行き逢い、挨拶を交わす。

(…こういった風情は好きだ)

檀家さんの殆どが、近隣の人々のようだ。

新しい墓もあるが、その間に、明らかに、

中世石塔と思われるものが、相当数混ざっているのが判る。

まず、墓域入り口右側、小さな丸石で葺かれた、

墳丘(餓鬼草紙に出てくる土饅頭に似て居る)上に、

二基の、形の良い五輪塔が並んでいた。

B12120403

寺伝では、この五輪等を「お髪塚」と呼び、

当寺で時衆に身を投じた、三河松平氏(徳川家)の始祖、

世良田有親、松平親氏父子(14C後半頃、ともに生没年不詳)が、

落とした髪を埋めたものだと云う。

もとより、源氏新田流の世良田氏と徳川家を結びつける、

江戸期に入ってからの、牽強付会の可能性が強い。

尤も、五輪塔自体は古い形式で、鎌倉後期~南北朝期に遡れる。

1963年に発掘調査が行われたが、何も出てこなかったそうだ。

B12120404

五輪塔上の紅葉、三本塔婆の後側より、逆光で撮ってみた。

その色に、どうしても、鮮血を想起してしまう。

さらに、墓域の中を進んで往く。

(捨身 二代目CX5)

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2012年12月 4日 (火)

当麻宿幻想(2)

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無量光寺境内の紅葉はなかなかだった。

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当地は、相模川東岸段丘の先端に位置しているので、

多摩川流域の「ハケ」と同じで、湧水が多い。

豊かな湧水は霊地の条件でもある。

一遍が、三日三晩の念仏の後、錫杖で地面を突くと、

清泉が湧き出で、旱魃に苦しむ人々を救ったと云う伝説が残る。

B12120303

度重なる火災により、往時の建造物は殆ど残っていない。

近世初頭までは、広大な伽藍を誇っていたようだ。

明治二十六年(1893)に焼失した本堂跡に一遍像が立つ。

同様な像は府中の時宗寺院でも見たが、オリジナルは、

当寺蔵の、現存最古(13世紀後半頃)とされる一遍彫像である。

レプリカながら、神奈川県博で観たことがある。

B12120304

明治の火災の後、本堂は再建されず、仮本堂の儘だ。

上記の一遍像は「本尊」として、堂内に安置されている。

(捨身 二代目CX5)

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2012年12月 3日 (月)

「平清盛」を視る(58)

B12120201

坂東へ向かう平家追討軍の若き総大将維盛(重盛の長男)と、

老練の侍大将忠清の衝突は、実際にあったようだ。

平家物語では、その辺りを血気に逸る維盛と、

諌める忠清との対照で、際立たせている。

富士川で大敗して戻ってきた維盛と忠清に、清盛は激怒して、

「維盛を鬼界が島へ流せ、忠清を死罪にしろ」と命じるが、

そこを、どうにか取り成したのが、盛国だった。

ドラマでも、終盤にかけて、この二人の老臣、

忠清と盛国の描き方が、一寸注目となるはずだ。

(捨身 Canon S100)

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2012年12月 2日 (日)

当麻宿幻想(1)

B12120101

JR相模線、秋の旅情も悪くない。

列車は、相模川段丘上の端を縫うように走る。

多摩川や荒川沿いと似た地形だ。

もう直ぐ、原当麻駅に着く。

B12120102

駅を出て、段丘を下り、西側の相模川へ向かって歩行する。

橋梁(新昭和橋)左に展開する集落には、

上宿、下宿の小字が残っていた。

一先ず、此方は後ほど探索することに。

遥かなる山並みは丹沢山系哉。

B12120103

相模川東岸段丘(田名原段丘)の縁から突き出した微高地に、

時宗・当麻山無量光寺がある。亀形峯(きぎょうほう)と呼ばれた、

「勝地」で、諸国遊行途上の一遍が見出し、庵を結んだのが、

そもそもの始まりだと云うのだが、これも後述する。

B12120104

無量光寺の山門に辿り着いた。

藤沢の遊行寺(清浄光寺)のほうは未訪だけど、

この寺は、今まで観た時宗寺院では、最大だと思う。

さて、寺内の探索を始めることしよう。

(捨身 二代目CX5)

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2012年12月 1日 (土)

鉢形城へ(5)

B12113001

B12113002

天正18年六月十四日、一ヶ月余りの篭城の後、

鉢形城は降伏したわけだが、八王子城のような激しい戦闘もなく、

結果的に、多くの人命が救われたのは幸いとすべきだろう。

開城にともなって、城内の構造物は全て破却されたと想われる。

城は二度と使われず、空堀や土塁は農地に埋もれていった。

そのためか、関東の中世城郭では最も保存状態がよいのだが、

八王子城に比べ、出土品は少なかったようだ。

今回は時間が全く無かったので、

南側の外郭線に沿って展開する、

宿や市の痕跡を観察出来なかった。

構造的には、滝山城と酷似しており(やはり、北条の城だ!)

内宿、新宿、殿原小路、連雀小路、鍛冶小路、鉄砲小路など、

小字に、極めて魅力的な名称が残っている。

明瞭な道筋のクランク(鉤の手)も認められた(帰りのタクシーから)

機会があれば、是非とも探索したい。

さて、いよいよ、相州当麻宿へ飛ぶとしよう。

(捨身 Canon S100)

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