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2013年3月21日 (木)

横山党幻影(8)

B13032001

B13032002

今回廻った、旧市街・元横山町、八幡八雲神社内の横山社、

同、供養塔のある妙薬寺、及び、

湯殿川上流域・館町の龍見寺・大日堂は、

両所とも、横山党の居館跡伝承地だ。

元横山町のほうが有名だけれど、筆者としては、圧倒的に、

湯殿川上流域に魅かれる。此方は中世館跡としての、

目に見える条件が揃っていて、納得のいくことが多いのだ。

しかも、信憑性が高い、平安後期の大日如来坐像が伝わっている。

元横山町と謂えば、南北の宗教施設と字名だけである。

さて、横山党が活躍した同時代(平安後期)の遺物で、

何か、彼らを彷彿とさせるものはないかと、想い巡らしていたら、

東博に都内の経塚出土と云われる、兜鉢があった。

よく観ていたので、画像を掲げる。

(この時代の、甲冑完品の現存例は極めて希少だ)

建保元年五月(1213)鎌倉市中で繰り広げられた和田合戦で、

横山党(横山時兼ら)は一族上げて、和田義盛に加勢するも、

奮戦空しく敗れ、滅亡する。

明月記に、和田の三浦党と、横山党は、

「両人、其勢抜群者」と注記される程、軍勢の数は多かったようだ。

横山党の手掛かりも、

今となっては、何処かの地中に眠るのみだ。

(捨身 二代目CX5)

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コメント

小栗判官のモデルを調べていて、ちょっと面白いことを発見しました。

史実では、常陸小栗氏の満重が、1411年上杉禅秀の乱で、鎌倉公方足利持氏に謀反を起こした側に加わり、破れます。その子の小栗助重が「をぐり」のモデルと云われていますが、享徳の乱(1438)の結城合戦では室町幕府方に加わり結城氏と戦い、戦功により一時小栗城に復帰します。

地図で見ると、足利、結城、小栗、古河という北関東の地域は、おたがいごく近くにあるのが分かります。
その結城合戦に参戦した一族の中に、新田郡田中郷を故地とする田中氏がいました。結城合戦で敗退し下総へ逃れて行く一族の中に、この田中氏がいました。

田中氏には、後に近世初頭に、五代目田中玄蕃という人物が出て来て、今に伝わるヒゲタ醤油を作ります。つまりチョートクさんのご先祖ですね。

そうすると、『をぐり』は結城合戦で、チョートクさんのご先祖と戦ったということです。どうでしょう。

投稿: 振り子 | 2013年3月22日 (金) 15時40分

上杉禅秀の乱にも、田中為忠、経友という兄弟が出て来ます。

里見田中: http://www2.harimaya.com/sengoku/html/n_tanaka.html

『長楽寺文書』「足利尊氏寄進状」の段
「寄附 長楽寺普光庵 田中郷の内、田弐町、畠弐反、大類五郎左衛門尉の後家、尼了覚の知行分」
正平8年/文和2年(1353)3月19日、足利尊氏の名で、新田郡田中郷の田畠を長楽寺普光庵に寄進させられた。了覚は新田一族田中氏の出で、大類氏に嫁したものとみられる。大類氏は武蔵七党の児玉党の一族。

投稿: 振り子 | 2013年3月22日 (金) 17時11分

結城合戦は、足利持氏の遺児、春王と安王の籠城の話があり、絵巻物が残っていたり、南総里見八犬伝の発端になっていますね。里見田中氏は、新田氏の一族のようですが、八犬伝に出て来てもおかしくないです。

投稿: 振り子 | 2013年3月22日 (金) 17時28分

関東は、上方に先立ち、享徳の乱をもって、戦国へ突入したといいます。関東の室町期は戦乱の坩堝でしたね。どうも、関東独立の遺風というべきものが、抑ええても、抑えても、噴出するようです。その際、必ず核となって、担ぎ出されるのが、源家将軍の連枝(もちろん足利も)で、京下りの「をぐり」のように、やはり貴種と捉えられていたのだと思います。そういった貴種コンプレックスみたいな、関東の気質を「をぐり」は、実によく伝えていますよ。まぁ、当地、武蔵府中周辺はじめ、武蔵国南部は、室町戦国期の戦乱の傷跡が此処彼処に見つかります。

投稿: kansuke | 2013年3月22日 (金) 22時52分

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