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2013年3月の記事

2013年3月29日 (金)

観桜 2013 (1)

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願わくば、この桜の下での記憶が、

とこしえに、美しいままでありますように…

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月26日 (火)

横山党幻影(9) 余録として

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今回、横山党の幻影を求めて、多摩の横山を暫し彷徨したが、

横山党とともに、中世の船木田荘を経営した、

もう一つの武士団、「西党」のことが気になった。

太陽祭祀を司った、古代氏族「日奉部」(ひまつりべ)の系譜に、

連なる人々と云う(六世紀前後、各地の国府に配置されたようだ)

彼らが根拠地としたのは、日野本郷、百草、高幡周辺と、

武蔵国府(府中)に極めて近い地域だった。

 (厳密に謂えば、日野本郷は船木田荘に隣接するけど、

  含まれず、つまり私領ではなく、公領=国衙領だった。

  この辺りが微妙で、結構、示唆に富んでいると想う。

  芸能者や道々の輩が集う庭があったかもしれぬ)

氏神と考えられる、日野宮神社(日ノ宮権現)が現存している。

日野の地名も、日野宮、おそらく太陽祭祀との関連があるだろう。

そう言えば、百草の尾根は、太陽が沈む頂=聖地なのであった。

もとより、要探索地である。

(捨身 春の高幡山々中にて 二代目CX5)

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2013年3月21日 (木)

横山党幻影(8)

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今回廻った、旧市街・元横山町、八幡八雲神社内の横山社、

同、供養塔のある妙薬寺、及び、

湯殿川上流域・館町の龍見寺・大日堂は、

両所とも、横山党の居館跡伝承地だ。

元横山町のほうが有名だけれど、筆者としては、圧倒的に、

湯殿川上流域に魅かれる。此方は中世館跡としての、

目に見える条件が揃っていて、納得のいくことが多いのだ。

しかも、信憑性が高い、平安後期の大日如来坐像が伝わっている。

元横山町と謂えば、南北の宗教施設と字名だけである。

さて、横山党が活躍した同時代(平安後期)の遺物で、

何か、彼らを彷彿とさせるものはないかと、想い巡らしていたら、

東博に都内の経塚出土と云われる、兜鉢があった。

よく観ていたので、画像を掲げる。

(この時代の、甲冑完品の現存例は極めて希少だ)

建保元年五月(1213)鎌倉市中で繰り広げられた和田合戦で、

横山党(横山時兼ら)は一族上げて、和田義盛に加勢するも、

奮戦空しく敗れ、滅亡する。

明月記に、和田の三浦党と、横山党は、

「両人、其勢抜群者」と注記される程、軍勢の数は多かったようだ。

横山党の手掛かりも、

今となっては、何処かの地中に眠るのみだ。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月17日 (日)

横山党幻影(7)

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龍見寺・大日堂が見えてきた。

現状は、土塁めいた斜面上の平場に建つが、

創建時には、壇下の畑地に在ったと云う。

付近に湧水群もあり、霊地、勝地として理想的なのが判る。

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この堂内に平安後期(11C)の大日如来坐像が安置されている。

年一回、十月の大般若会で開帳がある。

写真で観る限りでは、藤原期の定朝風で、秀作だと思う。

因みに、出羽三山の本地仏は以下の通りだ。

阿弥陀如来=月山権現 

大日如来=湯殿権現 

聖観世音菩薩=羽黒権現

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背後の土塁状の斜面を登ってみる。

湯殿川の渓谷が見渡せた。

八王子一帯は、修験者の足跡が彼方此方に残り、

高尾山、高幡不動をはじめ、拠点も多い。此処もそうだが、

その中でも、古さでは、平安後期と群を抜いているようだ。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月15日 (金)

横山党幻影(6)

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湯殿川対岸、丘陵の根の部分をズームアップしてみる。

壇状の平場に、現状は梅林や畑地が広がり(住宅の後背地)

正面は真東を向いている(東側の丘陵尾根から撮影)

ちょうど、その辺りに「龍見寺」が在るが、

やはり、中世の館跡の伝承も残っている。

(平安後期の横山経兼、鎌倉権五郎景正、

 戦国期の北条氏照被官・近藤出羽守と多彩だ)

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湯殿川(正面朱色の欄干は橋)を渡って、梅林の下に立つ。

道の両側の石垣は、壇状平場の盛り上がり状況を示す。

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壇状平場の内部には、自然地形にしては、明らかに不自然な、

土塁の痕跡らしきものが、各所に見受けられた。

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目指す龍見寺の大日堂へ至る坂。土塁状の斜面に沿っている。

往時の景観は、わりと残っているほうじゃないかと想う。

この道を辿ることにしよう。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月14日 (木)

横山党幻影(5)

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今、立っている処の字名は「館町」(たてまち)だが、

湯殿川の下流方向に、望まれる郷は、

「小比企」(こびき=木挽)と呼ばれた。

船木田荘の木材切り出しと、製材が行われていたと想われる。

中世の林業の様子を描いた史料を掲げる(石山寺縁起14C)

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杣人(そまびと)と云う職人集団は、

木材の伐採、間伐、下草刈り、製材に従事した。

中世から近世にかけて、多摩の横山は、

大消費地の江戸を控え、有力な材木生産地になっていった。

その頃には、多摩丘陵に自然林は無くなり、

植林された、人工の二次林が覆っていたはずだ。

既に、現在の景観の祖形が出来上がっていたのだろう。

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製材した用材は、河川を利用して運搬した(一遍聖絵13C)

「筏師」たちは腰に綱を付け、川中、あるいは岸から、

筏を引っ張る(下流へは、堰を作って一気に流せばよい)

川の深さは踝程度だが、十分なようだ。

筏を引く際に穿った、綱通しの穴が開いている、

中世の建築用材が見つかることもある。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月13日 (水)

横山党幻影(4)

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横山党の幻影を追って、

今のところ、最も可能性が高い、彼らの館跡がある、

湯殿川上流域を観て来た。

川自体は、ご覧のように、すっかり護岸化され、

見る影もないけれど、例によって、なだらかな渓谷を刻み、

両岸は低い丘陵地になっている。

その根の部分に、丘を背負うように小高い平場を築けば、

中世の館が立地するに、理想的な環境が整うわけだ。

対岸の尾根からも、其の様子が十分に見て取れた。

ちょうど梅が満開である。

多摩丘陵で発掘された、中世集落の堀跡遺跡から、

大量の植物遺骸が検出されたが、際立って多かったのは、

梅と桃だったそうだ(次いで、栗、スモモ、山桑、桜も…)

現前に、同じような中世の春の景観が展開されていたとは、

想像するだけでも愉しい。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月12日 (火)

日々の写真 3/11

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今宵、二年前のあの日を、心静かに覚える。

(捨身 ライツ・ミノルタCL Mロッコール40㎜F2 PRO400)

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2013年3月11日 (月)

横山党幻影(3)

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日頃よく利用する路線バスから、気になっていた川があった。

湯殿川と謂い、多摩川支流淺川の、また支流に当たる小河川だ。

一寸調べてみたら、やはり、横山党に辿り着いた。

「湯殿」の名は、出羽三山の湯殿山に由来するらしい。

前九年の役で、源頼義に従って、奥州に赴いた横山経兼が、

湯殿山から、大日如来像を拝領、居館の地(館町の地名が残る)

に、大日堂を建立して祀った。

この像と称するものが(時代的には合っているようだ)

湯殿川源流域の「龍見寺」に現存しているのだ。

経兼は頼義の命で、安倍貞任の首を掛けた。

文治五年(1189)の頼朝奥州征討の際も、その故事に倣って、

藤原泰衡の首を掛ける役を務めたのが、曾孫の時広であったと、

吾妻鏡は記す。先例を重んじる頼朝らしさである。

源家三代(頼義、義家、頼朝)の奥州攻めに纏わる伝承は、

当地に多いけれど、その中では、最も信憑性が高いと想う。

湯殿川上流域は、濃厚な中世史スポットかもしれぬ。

要探索地になった。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月10日 (日)

横山党幻影(2)

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横山党系図と云うのは、鎌倉期以降は参考になるものの、

始祖を語るところでは、あまり当てにならないのではないか。

承平三年(933)古代より続いた「小野牧」が勅旨牧に変わって、

その別当職に、散位小野諸興が任じられたとする、

記録のほうが頷ける。出自がどうであれ、彼らは馬飼いであった。

小野辺りは、多摩丘陵の谷戸谷戸から流れ出た小河川が、

大栗川に集まり、多摩川へ注ぐ、なだらかな渓谷の入り口を、

形成しており、柵や土塁で谷を仕切って、

容易に放牧地を造れそうな地形なのだ。

多摩の横山とは、万葉集にも歌われたように、多摩川西岸の、

この丘陵状の山塊を謂ったものだろう。

しかし、平安後期、此処に摂関領「船木田荘」(横山荘とも)が、

立てられるに及んで、馬飼いは廃れ、

丘陵の森林を利用した船材の生産が盛んになっていったようだ。

船材は多摩川を使って、江戸湾、品川津へ流される。

小野氏も荘園経営に関わり、本拠をより平地の、

今の元横山町辺りに移し、前後して、

横山氏を名乗るようになったのではと、勝手に想像する。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月 9日 (土)

横山党幻影(1)

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古代末から中世初頭にかけて、多摩丘陵で威勢を張った、

横山氏(党)の幻影を一寸追ってみる。

横山氏の本姓は小野氏とされる。時代が下った系図によると、

小野たかむら八代の孫、孝泰が武蔵守となって、下向し、

その子義孝が南多摩郡・横山に土着して、

(横山の字名については、一考を要する。これは後述しよう)

横山大夫(無官ながらも、五位以上の官位を持つ。

 奥州藤原氏の始祖、亘理権大夫経清を想起させる)

と称したのが始まりと云う。

もとより、各地に小野姓を名乗る氏族は多いので、

伝承の域は出ない。

彼らが最初に住したとみられる地は、小野と呼ばれたようだ。

多摩市から、町田市に跨った丘陵一帯がその場所で、

現在は、町田市の小野路だけに地名が残っているのだ。

丘陵を降りれば、直ぐ多摩川で、武蔵府中に極めて近いし、

其処に氏神の小野社があるのは、不自然ではないだろう。

(小野社は、多摩市と府中市、町田市の三社が現存する)

彼らは小野牧の経営を任された集団であったと考えられている。

多摩市と町田市の間の丘陵には、多くの谷戸が入り込み、

馬の放牧に適した地形を呈しているのが窺える。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月 7日 (木)

春を待つ 2013 (10)

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説経節「をぐり」に登場する、照手姫の実家にして、

小栗主従を毒殺するに至る、横山殿のモデルは、

平安後期から鎌倉初期に、多摩一帯で威勢を張った、

武蔵七党の一つ、横山氏(本姓・小野氏)であろうとする説がある。

「をぐり」の時代設定である、室町後期とは全く合わないのだが、

其処は「御伽草子」の世界と同じで、目くじらは立てまい。

八王子旧市街の元横山町は、横山氏の本拠地と云う伝承があり、

八幡八雲社の横山社(氏神としては、武蔵一宮の小野社も怪しい)

妙薬寺には、供養塔と称する、宝きょう印塔が現存する。

今回は後者を観て来た。

戦国期の永禄三年(1560)造立とのことなので、

こちらも時代が合わないけれど、

「をぐり」の時代とは合っているわけだ。

ついでながら、寺の縁起を記した石碑に、

なんと、山本勘助の曾孫夫妻の墓ありとあった。

(墓域を探してみたが、見つからず)

「をぐり」の横山殿のモデルについては、筆者に別の見解もある。

おいおい、触れていこうと思う。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月 6日 (水)

春の待つ 2013 (9)

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どんなに開発が進んで、景観が失われたとしても、

古道の醸し出す空気は、残るものだと想う。

それを五体に感応しながら、小野路を暫し逍遥する。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月 5日 (火)

春を待つ 2013 (8)

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いつもの路線バスを降りて、古道を歩く。

今まで「野猿街道」と呼んでいた道の古名は、

「小野路道」と云うらしい。

踏切の名に、その古名が残っているを発見した。

八王子旧市街の甲州道中を別れ、

町田市内の「小野路宿」を目指す道という意味のようだ。

もとより、中世世界へ遡る語感がある。

この道を南下すれば、猿丸峠(野猿峠)を越えて、

多摩丘陵を縦断し、さらに町田へ抜けるのか。

いずれ、辿ってみたい。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月 4日 (月)

説経節「をぐり」を読む(16)

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常陸の小栗館、後藤左衛門が受け取った、照手姫の返し文を、

「あら面白」と読む小栗。

…このこと、横山御一家は全くご存知なく、照手姫殿だけが、

 ご承知と見える。この際、御一家はどうでもよい。

 姫の御諒承こそ大事、さっさと、こちらから婿入りしてしまおう…

上方と違い、東国では、御一家の許しがないと、

婿入りは叶わずとの、家臣の忠告に耳も貸さず、

小栗は、選りすぐった屈強の、十人の侍を引き具し、

勇躍、横山館へ向かう。

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路次の案内者を承った、後藤左衛門、

いつもの連雀、千駄櫃を我が宿に預け置き、、

編笠を目深に引きかぶって、小走りに、一党の先頭を往く。

この異形な出立ちは、

「手引き者」を表象するものとも考えられ、興味深い。

(捨身 二代目CX5)

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2013年3月 2日 (土)

説経節「をぐり」を読む(15)

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後藤左衛門、男は度胸、ここは駄目もとでも、

ひとつ脅かしてみんとて、連雀掴んで、白州に投げ、

広縁に踊り上がり、板踏み鳴らして、大見得を切った。

…おう!いかに照手姫様!何故、文をお破りになった!

 文の一字一字は仏なり。お大師様の指を裂くも同然、

 ああ恐ろしや!照手姫様の後生の罪業如何ばかり!…

照手姫、憤然としながらも、

…今まで、相模武蔵の殿原たちの文はいくらでも破りましたよ!

 これほどの罪業と云うのなら、悲しいかな、神も御覧ぜよ!

 何も知らずにしたことですから、お許し下さい。

 でも、父横山殿、兄弟たちがこのことを聞けば、

 私をどう罰するかも知れず。

 もはや致し方なし、返事を書きましょうぞ!…

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ついに、照手姫は返し文をしたためる。

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かくして後藤左衛門、首尾よく返事の受け取りに成功!

…承ってござある…とつくと千駄櫃へ入れ、

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常陸の小栗館へ、ひた走る。

(捨身 二代目CX5)

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