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2013年4月21日 (日)

藤沢・遊行寺へ(9)

B13042001

藤沢・遊行寺は、今でこそ、

時宗総本山と云うことになっているのだが、

その経緯は、一寸、複雑なので、此処で簡単に触れておく。

もとより、宗祖・一遍は、入寂にあたり、教団設立と寺院建立を、

一切拒否していた。だから、現存の時宗寺院と直接の関係は無い。

だが、一遍の死によって、混乱した弟子、信徒たちの状況を、

収拾するために、他阿・真教が教団を創始する。

指導者となる上人は、現役中は諸国を遊行するが、引退すると、

隠居所として寺を建立して住し(=「独住」後に「藤沢上人」とも)

次の指導者=「遊行上人」を指名する制度もそうだ。

当麻宿の無量光寺(以下当麻)は、真教の隠居所であった。

しかし、時を経ず、三代目遊行上人の指名を巡って内紛が起きる。

当麻を継いで、独住した真光と、分派して、遊行を続け、

藤沢に隠居所を建立した呑海とである。

当初、北条得宗家の支援を受けた当麻が圧倒的に優勢だったが、

鎌倉滅亡ともに、衰退を余儀なくされ、今度は鎌倉公方・足利氏の、

支持を得た、藤沢・遊行寺(以下藤沢)が隆盛を誇るようになった。

室町中期に至り、享徳の乱で、鎌倉公方が古河へ落去、

伊勢宗瑞(早雲)との対立で、藤沢は全山焼亡と、

戦国期のほぼ百年間は、小田原北条氏側に立った、

当麻が、一時、勢いを取り戻す。

戦国も治まった天正、慶長期、豊臣・徳川の支援を受けることに、

成功した藤沢は、ようやく寺域を再興、江戸期には、

徳川家の保護もあり、時宗総本山の地位を確立した。

筋からすれば、当麻のほうが古く、本山と謂えるわけなのだが、

その辺に関わる、「本末(本山と末寺)争い」は、

近世、近代を通じて頻発していたようだ。

時宗は、本来は「時衆」なのであって、

(時宗と称したのが確認出来るのは江戸初期以降だ)

教団としての結束は緩く、「時宗十二派」と云われるくらいに、

分派活動に力があったとされる。

B13042002

(捨身 二代目CX5)

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