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2013年8月の記事

2013年8月31日 (土)

武州・御嶽山へ登る(6)

B13083001

さて、参道へ戻って、頂上の武蔵御嶽神社を目指す。

此処からは、一寸傾斜がきつくなる。

B13083002

鳥居と石段の前、左右六軒の茶店が並ぶ。

何れも、昭和の雰囲気を残す店構えだ。

B13083003

石段の両側には、各地の講中が寄進した石灯籠や、

記念碑が林立する。

まだ真新しい、渋谷・恵比寿、川崎・多摩区・宿河原の、

講が建てた碑を見つけた。

御嶽講は健在のようだ。

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それでは、随身門を潜るとしよう。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月30日 (金)

武州・御嶽山へ登る(5)

B13082901

「馬場家御師住宅」前を過ぎて、集落の路地裏探索を続ける。

殆どの古民家には、今も人が住み、宿坊を経営しているから、

宿泊が出来るわけだ。

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御嶽山の御師集落は、山間にあるので、箱根の畑宿と、

よく似た風情が感じられる。

機会があれば、宿坊に泊ってみるのも、一興だろう。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月29日 (木)

武州・御嶽山へ登る(4)

B13082801

一寸、御師集落の中を探索してみよう。

此処には、二十六軒の御師住宅が現存している。

尾根の鞍部下に、隠れるようにして、重厚な古民家があった。

「馬場家御師住宅」と云う。

慶応二年(1866)築の母屋は、都有形文化財指定だ。

馬場家は江戸初期より、御師職を務め、

甲斐武田家重臣・馬場美濃守の後裔とも伝える。

B13082803

冠木門、玄関を許されるのは、名主クラス並みの格式を示す。

長屋門を備える住宅も、少なからず見受けられた。

江戸期における、御師の身分は、

神主と百姓の中間ということになっていたようだ。

B13082802

茅葺屋根の痛みが目立ったが、葺き替えの費用は、

数千万を超えるらしい。現状は全部、自己負担である。

遣水の古民家所有者も嘆いていた。何とかならぬものか。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月28日 (水)

武州・御嶽山へ登る(3)

B13082701

御師集落の中へ入る。

尾根に張り付くように展開する、集落内に、

こういった、細い路地のような道が通り、独特な風情を魅せる。

御師(おし、おんし)とは、中世に始まった制度で、

代表的な社寺霊場(伊勢、熊野、富士、三嶋等々)に所属する、

下級の神職(僧職)である。

初期は、僧形、あるいは、修験者姿だったようだが、

後に、大概が俗体化して、妻帯、俗人同様の生活を送り、

本社の周りに、集落を形成、集住した。

彼らの仕事は、諸国の檀家、信者を廻って、

祈祷や、護符、暦の配布、参拝を勧めたり、

信者の講を組織したりすることだった。

各々縄張りを持ち、それを「霞」(かすみ)とか呼んだりする。

信者が参拝する際には、道中の案内、世話を一手に引き受け、

自らの屋敷を宿坊として、接待するなど、

旅行業者の走りのような仕事もしていた。

専業旅館の起源は、御師の宿坊とも云われる。

欧州のホテルの起源が、巡礼者を泊めた、

修道院であったのと、よく似ていると想う。

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(捨身 Canon G1X)

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2013年8月26日 (月)

武州・御嶽山へ登る(2)

B13082501

ケーブルカー山頂駅を降りて、武蔵御嶽神社への参道を辿る。

軽自動車が通れる、整備された尾根道で、

徒歩凡そ30~45分くらいか。

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途中、向こう側の尾根に展開する「御師集落」を望む。

その上に、神社が鎮座する(本殿の屋根が少し観える)

道は一旦下り、また登り返して、集落の中を往く。

「御師集落」には、非常に興味をそそられてきた。

とりあえず、後程触れるとしよう。

B13082503

時々樹間から覗く、都心方向の眺望。

もとより、霊験所では、眺望も大事な条件となる。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月25日 (日)

武州・御嶽山へ登る(1)

B13082401

一寸落ち着いて、考えて居たら、

近場で、未だ探索していないスポットに想い至った。

多摩川上流域、奥多摩の929m峰、武州・御嶽山だ。

B13082402

早速、往って来た。

ケーブルカーは、標高差450mを六分弱で登り切る。

外気温が、地上より5℃くらい下がり、頗る心地宜し。

B13082403

天気も、何とかもってくれそうだ。

さて、探索を開始しようか。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月20日 (火)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(15)

B13081901

芦ノ湖畔・賽の河原で、最古の銘(正和三年=1314)を持つ層塔。

おそらく、精進池畔の元賽の河原から、移されてきたものだろう。

何れにせよ、痛みが激しい。

やはり、廃仏毀釈の、傷跡の深さが想い遣られるわけだ。

さて、当地をもって、伊豆・箱根山探索の一段落をつける。

課題としては、二つある。

まず、各地で目の当たりにした、

未だ後を引く、「神仏分離と廃仏毀釈」の影響の大きさを、

どう捉えて往くかだ。

中世以来の信仰世界の実相を、

酷く、見渡し難いものにしてしまっている。

次に、今回は、温泉地=病者の癒しと再生と云う、

視点からの探索には、手を付けられなかったことだ。

まぁ、兎に角、此処で、一寸夏休みを頂き、

(端的に謂って、夏バテ気味なのだ。嗚呼温泉入りたい!)

頭の整理と、リサーチに充て、

次の探索地を考えるとしよう。ご容赦を…

B13081902

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月19日 (月)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(14)

B13081801

精進池畔の石仏群(元賽の河原)を探索した際に、

意外に、石塔・板碑類が少ないな(と謂うか、全く残っていない)と、

想っていたのだが、その理由が凡そ理解出来た。

江戸初期、賽の河原が、此方、根芦ノ湖畔に移った時に、

運べるサイズのものは、移動させられ、

持って往けない、岩壁の、二十五菩薩、磨崖仏群や、

曽我兄弟墓や多田満中墓のような、巨大石塔が残されたわけだ。

さて、芦ノ湖畔の石仏石塔群だけど、

その後、明治期の廃仏毀釈で、大きな被害を受けたようだ。

打ち割られて、湖に投げ込まれたり、売り飛ばされたり、

と云った具合にである。

明治初年撮影の古写真に、後背が欠けて、見る影も無い、

金銅の地蔵坐像が写っているのを、観たことがある。

そのせいか、現存の石仏石塔も、痛みが激しいものが目立つ。

柵裏には、苔むした石塔の残骸が山積みになっていた。

B13081802

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月18日 (日)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(13)

B13081701

江戸期に入ると、東海道の道筋が変わり、

芦ノ湖畔沿いの道が開けたと云うので、

「賽の河原」が、精進池畔から、此処へ移される。

その際、多くの石仏石塔も、運ばれたらしい。

爾来、精進池畔のほうを「元賽の河原」と呼んだ。

新しい「賽の河原」の山側には、再び地蔵堂が立ち並び、

念仏衆や時衆が集い、旅人に喜捨を募り始めた。

喜捨をすると、彼らは札を渡してくれる。

旅人は、その札に小石を載せて湖へ沈めた。

湖底の地獄で苦しむ、死んだ子らに、功徳となって、

少しでも、その苦しみを和らげんが為に、である。

B13081702

現在、バスターミナルの駐車場の一角に、

石仏石塔、五十四基を残すのみだが、

天保年間には、銅仏二像、石仏二十一像、

石塔、板碑、百○九基を数えたと記録されている。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月17日 (土)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(12)

B13081601

再び、畑宿から路線バスに乗り、近世東海道を辿って、

元箱根、芦ノ湖畔へ向かった。

バスは、精進池・箱根石仏群の在る谷と、

二子山で隔てられらた谷のほうを通る。

此処には「お玉ヶ池」と呼ばれる、曰く因縁の池がある。

元禄の頃、江戸の奉公先を逃げ出して、

故郷の伊豆へ向かった、お玉と云う少女が、

関所破りをして捕まり、首を晒されたのが、

この池畔だった、あるいは、お杉、お玉と云う、

二人組の、上方の女旅芸人が、関所破りをして追われ、

池畔で、お玉が身投げしたとも、そんな悲しい伝説があった。

降りて探索したかったけど、もとより、時間の持ち合わせ無く、

やむを得ず、車窓より、池を観察する。

B13081602

そうこうして居るうちに、終点に着いた。

次の目的地は、元箱根港・バスターミナルの直ぐ傍、

箱根山中、二つ目の「賽の河原」(=地獄)である。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月16日 (金)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(11)

B13081501

そうそう、カメラの話をせねばならない。

今回、Canon Power Shot G1Xを導入することに決めた、

端的な理由の一つに、拙ブログ開始時に愛用していた、

RICOHの、GX100及び、GX200のコンセプトと、

そっくりだったことがある。

もっとも、センサーサイズは、かなり大型化して

OLYMPUSの4/3と、EOS一眼レフのAPS-Cの中間という、

高性能ぶりではある。

操作感が、既に使っている、Canon Power Shot S100と、

殆ど変わらないのもいい。

確かに、ボディサイズは大きくなり、重量が増えたけれど、

一眼レフに比べれば、常時下げていても、苦にならないし、

何より、目立たないので、咄嗟のスナップに好適な儘である。

ただ、光学ズームファインダーは、一寸贅沢かもしれない。

液晶擬似ファインダーで、誤魔化すよりは遥かにましだが、

筆者の、現在の撮影スタイルでは、殆ど出番が無いのだ。

もし、省いたバージョンがあれば、

より小型軽量、安価になって、尚良かった。

B13081502

(捨身 上G1X 下XZ-10)

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2013年8月14日 (水)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(10)

B13081301

さて、畑宿の、小田原側の外れまでやって来た。

毎度、お馴染みの、宿のお作法が此処ではよく残っていた。

「見附」(江戸期に設けられていたらしい)と呼ばれているが、

所謂、鍵の手=クランク、中世以来の、宿の入り口と、

結界を示す標しである。

B13081302

特に表示板は見当たらないけど、

右手の石柱は、おそらく、江戸期に立てられた、

道祖神=賽の神であろう。

前面に、地表から頭を覗かせている磐が、

それ以前の古い(中世に遡るだろう)道祖神の可能性がある。

中世の絵巻物の中に、自然石を道祖神として、

祀っている場面があったのを想い出した。

B13081303

今まで探索した、都内の宿跡で、残っている例は、

殆ど無いから、必見だと思う。

東博所蔵の「東海道分間延絵図」に、箱根道、畑宿の、

江戸後期の様子が詳しく描かれているようなので、

何れ実見して、確かめてみたい。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月12日 (月)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(9)

B13081004

B13081003

明治期、箱根寄木細工は最盛期を迎える。

それまで、種木から、鋸引きで、2~3枚しか取れなかった、

寄木板が、鉋引きを使うことで、百枚は取れるようになり、

飛躍的に生産性が向上し、価格が抑えられたのだ。

名人と云われる職人も輩出し、優れた製品が海外へ輸出された。

しかし、一方で、大量生産による、安物イメージが出て、

次第に低迷、戦後の一時期は、廃絶状態になっていたようだ。

職人たちの多くは、包装木箱などの生産に携わっていたが、

ここ四半世紀の間に、徐々に復活の動きがあって、

現在に至っているわけだ。

最近のトレンドは、

従来の、幾何学小紋、張り合わせの寄木細工から、

本格的な、無垢材の寄木細工が増えていることだろう。

この「無垢寄木細工」は、材質感、精密感にあふれ、魅力的だ。

帰りがけに、幾つか購入してしまった。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月11日 (日)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(8)

B13081001

B13081002

江戸期になると、「茗荷屋」畑右衛門を称する家が、

畑宿の宿名主を仰せ付かっていた。

その屋敷と庭跡には案内板が立っている。

本陣とも呼ばれるが、正確には、門構え、玄関を許された、

大名公家が使える、休憩、昼食のための茶屋である。

同様な茶屋が湯本にもあり、こちらは「伊豆屋」と云った。

彼らのもう一つの生業は、箱根越えを往還する人々に、

宿で作られた、様々な挽き物、指物、細工物を展示し、

販売することだった。

文化・文政期に入り、箱根を訪れる旅人や湯治客が増えると、

土産物として、評判になっていく。

庶民が買える、挽き物の独楽、人形などの玩具もあったが、

主流は、大名クラスの贈答品、輸出向けの、

高級精緻な細工箪笥類で、明治期にかけて、

箱根寄木細工は最盛期を迎える。

ついでながら、「茗荷屋」という屋号は、意味深だと想う。

かつて、諸国を遍歴していた木地師たちは、木材が入手し易い、

場所を見つけて住み着くと、必ず茗荷を植えたと伝わる。

茗荷が付く地名(例えば、茗荷谷とか)は、

彼らの集住地だった可能性があるのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月10日 (土)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(7)

B13080904

畑宿には、一寺、一社しかない。

一寺は、寛文年間(1661)開基の、日蓮宗の守源寺で、

近年まで、廃絶の危機にあったらしい。

中世後期、多くの都市的な場の、町衆、職能民が、

日蓮宗の宗徒だったように、

今も、この宿の、殆どの住民が檀家である。

路地裏の末枯れた墓所も、この寺の管理のようだ。

B13080902

あとの一社は、宿の鎮守にして、箱根社の末社、駒形神社と云う。

畑宿の住民は、一方では、箱根権現の氏子でもあるわけで、

もしかしたら、中世に、宿、もしくは、木地師の座が、

箱根権現社の支配下にあった、名残りかもしれない。

小田原北条氏の支配が確立する以前は、箱根権現社が、

絶大な力(僧、修験者、神人が武装していた)を背景に、

彼らの特権を、保護していた可能性もあるだろう。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月 9日 (金)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(6)

B13080801

B13080802

箱根山中の畑宿に、木地師たちが住み着き、

木工製品を造り始めたのは、いつの頃なのか。

現存最古の史料は、戦国期の弘治二年(1556)に、

小田原北条氏が出した、朱印状のようだ。

畑宿住人、源左衛門以下、三名宛てに、北条氏領内で、

挽物(ひきもの=轆轤で削り出す、碗、盆、瓶などの製品)

を自由に商うことを認め、宿に課せられた、

税・労役負担も、免除すると云う内容である。

大まかに観て、少なくとも、

中世後期、室町中期ぐらいまでは、遡れるだろう。

宿や市に対する、小田原北条氏の積極的な関与は、

世田谷宿、当麻宿など、彼方此方で知見してきた。

数ある戦国大名の中で、とりわけ、北条氏に、

民政に力を入れる、成熟した政権の印象を受けるのは、

相当の理由があってのことだと想う。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月 6日 (火)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(5)

B13080501

狭い石段を昇り降りしながら、畑宿の内を彷徨う。

墓所は、宿外れではなく、路地裏、人家のごく近くに在る。

「南無阿弥陀仏」と朱刻された、笠付きの墓石、

左右に男女の戒名が読み取れた。江戸後期は下るだろうな。

B13080502

路地を歩行すれば、彼方此方から、

グラインダーで木を削る音が聞こえてくる。

一寸覘いてみると、木工所と判る。

木地師の宿は、今も、生き続けている。

B13080503

各々の木工所は、展示販売もやって居るようだ。

帰りがけに、寄ってみようか。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月 5日 (月)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(4)

B13080401

畑宿は、山間の斜面に張り付くように、展開して居る集落だ。

路地裏へ廻って、探索を開始したが、

例によって、一時間しか持ち合わせていないことに、すぐ後悔した。

当地に漂っている「匂い」は、徒ならぬ、深さなのである。

B13080402

末枯れた墓地の風情も、なかなかだった。

題目と念仏を刻んだ墓石が目に付く。

B13080403

看板を観れば、お判りだろうが、

畑宿は、近世東海道の間の宿であっただけでなく、

中世より、木地細工(主に挽物細工、後に指物細工を含む)の、

職人(木地師)が集住する「宿」でもあった。

今日では、箱根寄木細工として有名なものだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月 4日 (日)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(3)

B13080301

この集落を、畑宿(畑の宿)という。

近世東海道の、所謂、箱根八里とは、

小田原宿から箱根関所までの四里と、関所から三島宿までの、

四里を呼び、ほぼ一日分の行程だった。

とくに畑宿からは、急坂が続き、難所となる。

小田原宿と箱根宿の「間の宿」として、賑わっていたようだ。

早朝、小田原を出立した、近世の旅人は、

此処で、湯漬けなどを食って、休憩を取った。

宿の西はずれには、近世東海道の石畳と、

日本橋から23番目の、一里塚遺構が残っている。

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街道を挟み、左右一対で、完全形である。

道祖神、塞の神も、そうだったと想う。

おそらく、古代、中世以来の作法であり、

近世の一里塚は、それを踏襲しただけなのだ。

旅人の、距離の目安や、休息の場とも云われるけれど、

本来は、道(人馬のみならず、疫病神、怨霊も通った)

に対する、宗教的儀礼の一つだったのではないだろうか。

B13080303

(上中下)左右の一里塚を示す。円形状の石積みで基礎を造り、

小石を積み上げ、表面を土盛りで覆い、

頂上に植樹したことが、発掘調査で判っている。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月 3日 (土)

G1Xを試しに、再び箱根山中へ(2)

B13080201

今回辿ったのは、湯本で湯坂道と別れる、近世東海道の道筋だ。

でも、道そのものは、既に、中世には、拓かれていたらしい。

B13080202

湯本から、別ルートで、元箱根へ向かう、路線バスに乗り、

山間の、とある集落で降りた。

まぁ、集落と謂うよりは、「宿」であろうな。

B13080203

近世東海道の石畳も、直ぐ近くだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年8月 2日 (金)

箱根山中の異界へ…付けたりとして

B13080101

小田原駅前、繁華街の路地裏に、

北条氏政、氏照、氏政夫人の墓所が在る。

以前の探索では、洩らしていたスポットだ。

元は、北条氏の氏寺(伝心庵)だった場所で、

寺の方はとっくに廃絶し、墓所だけがひっそりと残ったのだ。

その後、地元の人々の尽力によって、今の形を保っていると聞く。

B13080102

向かって左の、五輪塔から、

氏照(小)氏政(中)氏政夫人(大)である。

氏照とは、やっと逢えたようで

何やら、ホッとした気分になった。

(捨身 OLYMPUS XZ-10)

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2013年8月 1日 (木)

箱根山中の異界へ(10)

B13073101

かつての、精進池=六道の池畔は、見るからに怖ろしく、

人跡絶えた処だったと、想ってはみたけれど、

実は、結構、賑わっていたのではないかという、想いも浮ぶ。

あの世とこの世の境界で、葬送や、先祖追善供養に携わる、

念仏者、時衆、あるいは巫女、熊野比丘尼たちが、

湯坂道を頻繁に行き来する、中世の旅人の袖を引張って、

「後生のための功徳を」と、喜捨をせびっていたやもしれぬ。

比丘尼衆は、喜捨をはずめば、死人の口寄せもやる。

賑わいを聞きつけて、「六道の池は、極楽へも通じようぞ」と、

乞食、病者たちも、集まってきたか。

池畔に小屋掛けし、庵を結び、岩陰で雨露を忍んだりと、

この谷間に、棲み着く者たちも出てきただろう。

いつしか、功徳、結縁を望む人々が造立した、石塔、石仏が、

林立するに至り、異界を彷彿とさせる光景が現出したわけだ。

B13073102

B13073103

さて、次のバスを捕まえて、小田原へ降るとするか。

駅前の路地裏に、是非とも訪ねたいスポットが残っている。

(捨身 OLYMPUS XZ-10)

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