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2013年10月18日 (金)

朝比奈峠越え つけたりとして(5)

B13101701

直義の死について、もう一寸触れる。

尊氏、直義兄弟は、同母、しかも年子である。

二人の性格は、対照的だったが、

兄弟の仲が、頗る良かったことは、様々な史料から知られる。

尊氏は、清水寺への有名な願文で、現世での自分の果報を縮め、

弟、直義に与えてくれとまで、述べている。

政治面でも、当初は、役割分担が上手くいって、

二頭政治が続くと、考えられていた。

しかし、権勢を振るうようになった、執事、高師直との確執が、

発端となり、兄弟は対立、家臣たちも、二派に割れて争うに至る。

三年にわたる抗争の末、敗れた直義は武装解除され、

浄妙寺境内の塔頭に幽閉された。そして、程なく不審死を遂げる。

太平記で語る毒殺説は、今日では、ほぼ定説になっているが、

「国宝神護寺三像とは何か」の著者、黒田日出男氏は、

観応の擾乱の中で、双方とも、窮地に陥った際に、

兄弟で、助命し合っていた経緯があったので、

尊氏が、直義の毒殺を命じることは、無かったとしている。

むしろ、甥の義詮(尊氏の嫡子)が、直義の生前より、

仲の悪さもあり、勝手に命を下したのではないかと謂う。

成る程と、頷かされる説だ。

悲報に接した尊氏は、「しまった」と、呟いたかもしれぬ。

その後の、彼の晩年も、余程、辛いものになったのではと、

想い遣れるのだ。

(捨身 Canon G1X やがて飛び去る、谷戸の揚羽蝶)

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