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2013年10月の記事

2013年10月31日 (木)

富士山本宮浅間社へ参る(1)

B13103001

天候回復中と雖も、足柄山は未だ厚い雲の中だった。

B13103002

三嶋で新幹線を降り、在来線で富士駅まで。

身延線に乗り換え、裾野を北上する。

雲の切れ間より、やっと顔を覗かせた富士権現、既に冬姿哉…

B13103003

昼前、富士宮駅に降り立った。

もとより、当地も、豊かな湧水群に恵まれた町である。

件の、富士参詣曼荼羅図に誘われて、やって来たわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月29日 (火)

朝比奈峠越え つけたりとして(8)

B13102801

杉本寺=大蔵観音堂、秘仏本尊の三尊像の御影を示す。

右より、十一面観音像 伝恵心僧都作(鎌倉中期 重文)

               伝慈覚大師作(平安後期 重文)

               伝行基菩薩作(平安後期)

この内、行基作の一尊は、「覆面観音」とも呼び、異形である。

則ち、昔、信心無く、御堂前を下馬せず、

乗り打ち(乗馬の儘、通り過ぎる)する者は、

必ず落馬すべしと云うので、「下馬観音」と称した。

時に、建長寺の開山大覚禅師が、観音堂に参籠し、

祈願して、袈裟で観音像を覆うと、止むに因れりと伝える。

B13102802

この御影を拝受した際に、

将に、坂東観音霊場巡りを始めようとする青年と往き逢う。

彼が取り出した、真新しい御朱印帳の一頁目が眩しかった。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月28日 (月)

朝比奈峠越え つけたりとして(7)

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茅葺の観音堂と五輪塔群。

一寸、京都奈良の寺を想わせる風情だ。

B13102702

小さな五輪塔が殆どだけど、多くは中世のものだろう。

どんな人々が立てたのか。鎌倉に棲んだ都市民たちか。

権力者の匂いは、あまり漂ってこない。

観音信仰の癒される所以だな。

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杉本寺も、中世寺院の定石に従って、古道に面し、

見下ろすように建つ。

朝比奈峠へ向かう、六浦道を望む。

この寺の創建伝承に拠れば、道は、頼朝入府の、

遥か以前からあったはずだ。

金沢・北条氏が入る前の六浦荘(津)は、三浦一族の和田氏が、

押さえていたと云う説が有力である。

北条氏にとっても、かなり目障りな存在だったろう。

そこに、和田合戦(建保元年=1213)が起こるわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月27日 (日)

朝比奈峠越え つけたりとして(6)

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浄妙寺から、西方へ一寸歩を進めると、杉本寺(天台宗)がある。

中世には、大蔵観音堂と呼ばれ、

鎌倉最古の寺(天平六年=734 行基創建)とも云う。

熊野権現の神託で、安置されたと伝わる、

平安後期の十一面観音が本尊だ。

当寺をもって、今回の探索の上がりとしよう。

B13102602

小さな寺だけれど、鎌倉の寺では、風情を残しているほうだろう。

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坂東三十三観音霊場の第一番札所でもある。

ちなみに、弘明寺は第十四番、本尊も同じく、十一面観音だ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月21日 (月)

富士参詣曼荼羅図を観る(2)

B13102001

浅間大社の富士参詣曼荼羅図を観て、

一寸気が付いたことがある。

ひょっとして、中世末の戦国期は、

富士信仰の、謂わば、第一次ブームだったのではないかと。

江戸中期以降は、第二次ブームに過ぎないことになる)

そう考えると、その時期の、駿河、甲斐、相模、武蔵の、

政治情勢でも、想い当るフシが出てくる。

駿河の今川、甲斐の武田、相模の北条は、相争っていたが、

所謂、甲相駿三国同盟(天文23=1554)で、一時的に手打ちをする。

もとより、其々に、領土的野心や、政治的な思惑もあるけれど、

もう一つの側面として、富士信仰ブームの影響が、

あったように、感じられるのだ。

高尾山薬王院の、富士を遥拝出来る場所に、

摂社が祀られているが、それは、武田、今川と対立した際に、

領民の富士参拝が難しくなったため、北条氏康が設けたとされる。

領内に、浅間社、登山口、門前市を有する、駿河、甲斐の、

今川、武田にしても、諸国の巡礼者が落す、関銭、津料などで、

潤っていたはずであり、相模、武蔵の参拝者が、

戦乱のせいで、やって来ないのは、困るわけだ。

三者手打ちの裏に、こんな、宗教的、経済的、打算が、

存在したとしても、不思議ではない。

(この同盟の発案者と云われる、今川の軍師、太原雪斎は、

 参詣曼荼羅に描かれた、清見寺の住持を務めていたとも!)

背面に、当時流行の富士山をあしらった、具足を見つけた。

(捨身上 伝明智光春所用 南蛮胴具足 16C 東博所蔵)

戦国武将たちにとっても、

富士信仰は、外せないトレンドだったのではないか。

B13102002

三嶋近くの富士、静岡県美へ往った翌日は初冠雪だった。

(捨身 Canon S110)

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2013年10月20日 (日)

富士参詣曼荼羅図を観る(1)

B13101901

やっと、観ることが出来た。

やはり、この手の、中世の寺社参詣曼荼羅図の中では、

屈指の名作だと想う。

あの上杉本・洛中洛外図の、永徳の祖父、狩野元信と、

彼の工房の手になると云うのは、頷ける。

人物や風景の、細密且つ、力強い筆致は、

この作品でも、十分に発揮されている。

ルーペで、詳細に観察したが、この絵に描かれた、

全てのモチーフに、興味が尽きない。

富士山頂は、例によって「三峰」に表現され、

それぞれ、左より、薬師、阿弥陀、大日の三尊が配される。

その頂へ、蟻の如く列を作って、白装束で、手に松明を持ち、

登拝する巡礼者たち。彼らは、麓の浅間大社で、水垢離して、

社殿裏の登山道を登って往くのである。

堂舎が建ち並ぶ境内では、同じく白装束で「虫の垂衣」を、

垂らした笠を被った、女性の巡礼者たち?が目立ち、

黒色の法衣を着て、頭巾姿の念仏者(時衆か?)の一団も居る。

神楽舞台では、巫女が神楽を舞っている最中だ。

中世末の戦国期に、既に、これほどの盛行をみせていた、

富士信仰なのだ。近頃は、江戸中期以降の富士講に、

関心が往きがちだけれど、もっと、中世の富士信仰に、

目を向けるべきだろう。現状、研究者や論考が少なすぎる。

熊野比丘尼たちがそうであったように、この参詣曼荼羅も、

絵解きに用いられたと考えられている。多くは、もっと素朴な、

掛軸だったが、この作品は、例外的に、かなりの豪華版だ。

絵解きをしたのは、浅間大社の、修験者や御師たちだろうか。

画面下方に、富士川、駿河湾、旅人と物資を運ぶ帆船、

三保の松原、浜辺を往く中世東海道、

清見寺、清見ヶ関(関銭を徴集する)が添えられる。

これらも、富士と不可分の、セットとして、考えられていたのは、

如何にも、中世的な世界観らしくて、面白い。

この絵を観たら、ユネスコの委員も、即座に、

三保の松原を、世界遺産に加えることに賛同しただろうな。

遠くない将来、国宝指定も、あり得るのではないか。

(捨身 Canon S110)

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2013年10月18日 (金)

朝比奈峠越え つけたりとして(5)

B13101701

直義の死について、もう一寸触れる。

尊氏、直義兄弟は、同母、しかも年子である。

二人の性格は、対照的だったが、

兄弟の仲が、頗る良かったことは、様々な史料から知られる。

尊氏は、清水寺への有名な願文で、現世での自分の果報を縮め、

弟、直義に与えてくれとまで、述べている。

政治面でも、当初は、役割分担が上手くいって、

二頭政治が続くと、考えられていた。

しかし、権勢を振るうようになった、執事、高師直との確執が、

発端となり、兄弟は対立、家臣たちも、二派に割れて争うに至る。

三年にわたる抗争の末、敗れた直義は武装解除され、

浄妙寺境内の塔頭に幽閉された。そして、程なく不審死を遂げる。

太平記で語る毒殺説は、今日では、評価が分かれるが、

「国宝神護寺三像とは何か」の著者、黒田日出男氏は、

観応の擾乱の中で、双方とも、窮地に陥った際に、

兄弟で、助命し合っていた経緯があったので、

尊氏が、直義の毒殺を命じることは、無かったとしている。

むしろ、甥の義詮(尊氏の嫡子)が、直義の生前より、

仲の悪さもあり、勝手に命を下したのではないかと謂う。

仮に、そうだったとしても、

悲報に接した尊氏は、「しまった」と、呟いたかもしれぬ。

その後の、彼の晩年も、余程、辛いものになったのではと、

想い遣れるのだ。

(捨身 Canon G1X やがて飛び去る、谷戸の揚羽蝶)

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2013年10月17日 (木)

朝比奈峠越え つけたりとして(4)

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そんなわけで、浄妙寺界隈に、

足利直義の、何らかの手掛かりを求めて、暫し彷徨した。

墓所が現存しているのかと、案内所で聞いてみたが、

公開していないと、要領を得なかった。

実は、直義の菩提所だった塔頭は、既に廃絶して、

彼の墓所の所在が、不明になっていると知ったのは、

探索から、戻った後のことだ。

でも、もしやと、浄妙寺裏の小径を登る。

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例によって、山腹の岩壁に穿たれた、小穴を見つけた。

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やはり、やぐら(中世の墓所)である。

もとより、誰のものか判らない。

まぁ、今回は、直義墓所へ想いを馳せるのみで、十分としよう。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月16日 (水)

朝比奈峠越え つけたりとして(3)

B13101501

浄妙寺は、足利家二代の義兼が、自らの鎌倉館近くに建てた、

持仏堂が始まりと云う。当初は密教系だったが、

代を重ねるうちに、臨済宗に変わっている。

後に、尊氏の父、貞氏(大河・太平記では、緒形拳が演じた)が、

葬られ、一族の菩提寺の一つになった。

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現在、貞氏の墓所と伝わる、宝きょう印塔(明徳三年銘=1392)

が残る。

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背後の斜面より、六浦道が通る、谷戸を望む。

実は、この寺で、気になっていたことがある。

観応の擾乱(1350~52)で、兄弟相争った、尊氏と直義、

最後に、直義が武装解除されて、押し込められたのが、

ここ浄妙寺境内の塔頭だった。

程無く、彼は、不審死(太平記では、毒殺とする)を遂げ、

墓所も当地に営まれたことになっている。

足利直義は、例の、神護寺の肖像や、

無窓疎石との、仏教対話を記した「夢中問答集」などで、

筆者の興味が尽きない、中世人の一人である。

予て、彼の跡を辿ってみたいと、想っていたのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月13日 (日)

朝比奈峠越え つけたりとして(2)

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此の辺りに、足利館が構えられたのは、結構古い。

頼朝の代に、足利家二代・義兼が建てたと云う。

以後、鎌倉期を通じて、彼らの、鎌倉での根拠地だった。

源氏一門である足利家と、嫡流将軍家や、

北条氏との関係は、吾妻鏡でも、窺えるように、微妙で、

歴代当主の中には、若年で出家したり、不審死したり、

あるいは、北条一門と姻戚関係を結んだりと、

一族生き残りのために、綱渡りの連続だったようだ。

最早、本貫の地、足利荘へ帰ることも、殆ど無くなり

此処が、事実上の、彼らの生活の場になっていく。

尊氏、直義兄弟の、故郷でもあったわけだ。

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かつて、六浦道に立てられていた、庚申塔群を見つけた。

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さて、足利家の菩提寺、浄妙寺が観えてきた。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月11日 (金)

朝比奈峠越え つけたりとして(1)

B13101001

朝比奈峠、鎌倉側の六浦道に沿い、今度は光触寺から、

鎌倉府内へ向かって、一寸探索してみた。

スタートしたのは、青砥橋を過ぎた辺りだ。

B13101002

此処には、中世後期の鎌倉を語る上で、

欠かせないスポットがあった。

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「足利公方邸旧跡」である。

今は、観ての通り、何の変哲も無い、住宅地の一角になっている。

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まず、谷戸を目指して、歩を進めよう。

かつて、関東公方・足利家の邸宅と、彼らの菩提寺が建ち並び、

南北朝から、室町中期にかけて、鎌倉の中心地だったところだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月10日 (木)

舟木本・洛中洛外図を観る

B13100803

今回の東博特別展の、愉しみの一つに、

各時代の洛中洛外図の観比べがある。

代表的な洛中洛外図が、応仁文明の乱直後の、室町末期から、

安土桃山、江戸初期までの間に描かれたので、

その間の、つまり、戦国時代の人々の、風俗の移り変わりが、

手に取るように判るのだ。

岩佐又兵衛の舟木本・洛中洛外図の人物描写は、上杉本同様、

一人ひとりの大きさが、僅か25㎜程度に過ぎない。

しかし、その筆致の力強さと、細密さには目を奪われる。

大坂の陣前後、慶長・元和期(1597~1624頃)の京の賑わい。

京・五条通りで、扇を商う店先の光景だ。

扇を作り、売るのも女性である。

中世世界では、扇は、特別な霊力を持つと信じられていた。

また、上記のように女性が扱うものとして、

性的なシンボルとも、看做されることがあった。

店の左角で、笠を被り、扇で顔を覆い、辺りを窺う男、

これも、扇を使った、中世的な仕草の一つだ。

往来で、突然、何か異な状況に遭った時、とる行動である。

彼の視線の先に、笠を被り、木箱を抱える熊野比丘尼たちがいる。

彼女たちが持っている箱の中には、

絵解きに使う、掛軸が入っているのだろう。

熊野比丘尼たちも、やがて、聖なる存在から、

遊女のような、存在へなって往く。

(捨身 Canon S110)

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2013年10月 9日 (水)

洛中洛外図・全四作観覧達成

B13100801

東博で「特別展 京都 洛中洛外図と障壁画の美」(~12/1)

が始まった。

喧伝されている如く、現存、洛中洛外図屏風の代表四作が、

一堂に会する展覧会である。

上杉本(国宝・前期)

歴博甲本(重文・後期)

歴博乙本(重文・前期)

舟木本(重文・全期間)

前期10/8~11/4 後期11/6~12/1

他に、福岡市博本(重文・後期)

勝興寺本(重文・前期)池田本(重文・後期)も出品される。

既に、筆者は、上杉本、歴博乙本歴博甲本を観ている。

加えて、本日、最後の舟木本を観た。

従って、上記全四作の観覧を達成したわけだ。

あの頃は、些か大げさに、生きているうちにはと、

熱望して居たけれど、存外に早く、ゴール出来た。

なので、一寸肩透かしを食った感じで、感慨が湧かぬな。

岩佐又兵衛筆の舟木本は、

想ったより力強く、且つ細密で、印象的だった。

遠くない将来、国宝指定もあり得るのではないか。

(捨身 Canon S110)

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2013年10月 7日 (月)

朝比奈峠越え(16)

B13100601

県道沿いの朝比奈峠。

今も残る、境界地特有の荒涼さ、この風情がいい。

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光触寺の園池に映る、朝比奈峠の山稜。

地図で確認すると、直ぐ背後まで、

逗子の、池子弾薬庫跡地が迫っているのが判った。

その隣りは、大きな団地になっている。

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谷戸の彼岸花と揚羽蝶。

揚羽蝶は、平氏の紋だったな。

鎌倉も、源氏が入る前は、坂東平氏の、根拠地の一つだった。

其処へ、嚢祖、源頼義が婿入りしたのだ。

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小町通りに、レトロなホットーケーキで、

一寸流行っている、コーヒーショップがある。

何時も前を通ると、行列で入れないのだが、

この日の午後は、すっと入れた。

遅めの昼食にして、探索の続きを想い巡らす。

もとより、ホットケーキには、

メープルシロップと、一欠けのバターが一番だ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月 6日 (日)

朝比奈峠越え(15)

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朝比奈集落の入り口、丁度、上り坂へかかるところに、

「かや」の巨木があるのだ。

小河川の畔だが、現状は、空き地になっているようだ。

(案内板の類は、一切見当たらなかった)

今のところ、此処に寺社が在ったと云う話は、聞いていないから、

六浦道の朝比奈峠登り口と謂うことで、植えられたのだと想う。

樹齢は、ざっと観て、恐らく中世へ遡り、四百年に届くかも知れぬ。

B13100502

誰の手によるのか、注連縄も張られている。

筆者には、思い当たることがあった。

この木は、道祖神=賽の神 の役割を、

果たしていたのではないだろうか。

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中世絵巻(慕帰絵詞14C)に描かれる、道祖神としての、

街道沿いの巨木。枝には絵馬が懸けられ、

通りがかる僧俗の旅人が、皆拝んでいる。

朝比奈峠でも、こういった、中世世界の、境界地の光景が、

繰り広げられていたとしても、全く不思議ではない。

それどころか、奇跡的に残って居た可能性がある。

B13100503

もう一寸、朝比奈峠周辺の探索を続けたくなった。

路線バスで、一旦、鎌倉側へ戻ろう。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月 5日 (土)

朝比奈峠越え(14)

B13100401

横浜横須賀道路を潜ったら、

庚申塔や地蔵が並んでいるところに出た。

どうやら、六浦側の登り口に着いたようだ。

鎌倉側から、一時間とはかからなかった。

B13100402

道形に、朝比奈の集落を抜けて、下って往けば、

県道204号(金沢街道)の朝比奈バス停前だ。

しかし、是にて、今回の探索、

目出度く仕舞い、と云うわけにはいかず…

この後、一寸喫驚するような遺物に出くわしたのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月 3日 (木)

朝比奈峠越え(13)

B13100201

熊野権現と一遍、時宗の尋常ならぬ関係について、一寸触れたが、

時衆と同様に、諸国を遍歴する熊野修験者、御師、比丘尼たちも、

気心の知れた仲間として、行動を共にすることが多かったはずだ。

境界地の、朝比奈峠周辺は、

そういった人々のテリトリーであったと想うのだ。

ひょっとしたら、関所の管理も任されていたかもしれぬ。

さて、もとの分岐へ戻るとしよう。

B13100202

六浦側へ少し下ったところに、もう一つ切通しがある。

こちらは、「小切通し」と呼ばれる。

捨身は撮りそこなったが、この辺りの岩壁上部に、

「やぐら」(中世墓)群が認められる。

その「やぐら」の高さに、中世の道床があったという、

見方がある。つまり、近世、近代と時代が下がるにつれて、

道床が掘り込まれ、現状に至ったというわけなのだ。

B13100203

矢庭に、車の騒音で、現世に引き戻された。

見上げると、高速道路だ。横浜横須賀道路である。

B13100204

こんな具合に、古道を跨いでいる。

切通し面の上部は、破壊されたのであろうな。

暫し、複雑な想いが過る。

(捨身 Canon G1X)

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2013年10月 2日 (水)

朝比奈峠越え(12)

B13100103

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時宗と熊野権現の、格別の関わりとは、こうである。

文永十一年(1274)一遍は熊野参詣の途上、山中で、

とある老僧と行き逢い、賦算(ふさん=名号札)を授けようとする。

その僧は、未だ信起こらずと、受け取りを拒否した。

一遍と老僧、札を受ける受けないで押し問答となるが、

結局、札を押し付けてしまう。

このことで、一遍は、自分の布教方法に、

重大な誤りがあるのかと、自問し、苦悩する。

しかし、この老僧こそが、熊野権現の応化身なのであった。

一遍は、熊野権現の神意を知るべく、本宮で参籠、

ついに、神託を受ける。

白髪の修験者姿で、示現した熊野権現は、

 「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしく、

  すすめらるるぞ。御坊のすすめによりて、

  一切衆生はじめて往生すべきにあらず…

  …中略…

  信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、

  その札をくばるべし」

…融通念仏を勧める一遍聖よ、

 どうして、念仏を悪く勧めるのだ。

 そなたの勧めによって、全ての衆生が初めて、

 極楽往生出来るのではない。

 阿弥陀仏が十劫の昔に、悟りを開いた時、

 全ての衆生の往生は、南無阿弥陀仏の名号に因って、

 (一遍の賦算とは関係なく)既に、決まっているのだ。

 衆生に信ずる心があろうが、なかろうが、

 清浄、不浄に拘らず、差別することなく、

 その札を配りなさい…と、説いた。

所謂「熊野権現の神託」がこれで、以後、一遍は、

「他力本願」の真義を深く悟り、迷うことなく、

布教に邁進するようになった。一遍の信仰の、あるいは、

後の時宗・教義の、根幹を成すとも謂えるわけだ。

上掲一枚目、一遍聖絵より、

山中で、老僧姿の熊野権現と行き逢う一遍たち。

上掲二枚目、同じく、左から、

山伏姿で示現する権現、跪き合掌する一遍と、

神託の後、多数の童子たちが集まり、一遍に札を請う奇瑞を、

異時同図法で描く。

B13100101

(捨身 上S110 下G1X 十二所神社前、滑川の流れ)

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2013年10月 1日 (火)

朝比奈峠越え(11)

B13093001

鬱蒼とした、杉の植林帯が途切れた辺りに、

忽然と、鳥居と石段が現われた。熊野神社であろう。

頼朝が熊野より勧請し、六浦道の開削を指揮したと云われる、

北条泰時が社殿を造営と伝わる。

現在の社殿は、ごく最近、再建されたものだ。

B13093002

実は、鎌倉側の登り口、光触寺と、県道を隔てたところに、

十二所(じゅうにそ)神社というのがある。

元は、光触寺の鎮守で、熊野社だった。

(時宗と熊野権現は、格別な関わりを持つ。

 それについては後述しよう)

つまり、朝比奈峠の両側に、熊野社が祀られていたのである。

中世世界では、峠には、必ず「峠神」が祀られ、旅人は、

峠を安全に越えられるよう祈願し、幣を捧げるのが常であった。

朝比奈峠の「峠神」は、熊野権現だった可能性が高いのだ。

B13093003

(捨身 Canon G1X)

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