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2013年11月24日 (日)

奈良坂にて(10)

B13112301

この辺りを「般若野」、大仏道も「般若道」と呼ぶことがあったようだ。

保元の乱で敗れ、瀕死の重傷を負って、逃亡した頼長だが、

終焉の地は、当地だと云うのだ。

愚管抄などでは、幾つかの説を挙げる。

父忠実に面会を拒否された後、木津川を下る船中で、

息を引き取ったので、遺骸を般若野へ運び、火葬を行って葬った。

その場所は、般若寺から、30mばかり登ったところだとする。

奈良坂は、南都・奈良の境界地であったから、

葬送地としても知られていた。今も墓地が目立つ。

あるいは、母方の叔父、千覚律師の興福寺の坊へ逃れたが、

程なく息を引き取り、同様に般若野へ運ばれ、葬られたとも。

乱より十日経て、信西に命じられた実検使が墓を暴き、

咎人の習い、打ち棄てたとするのは、

恐らく、その通りなのだろう。重衡の首が晒された時に、

既に建っていたと云われる、大卒塔婆が裏付けになるのか。

やや時代が下がって、怨霊を畏れて、

頼長の名誉回復がされた際も、改葬の記録は無いし、

京都の相国寺に現存する、五輪塔も信憑性は低い。

この般若野に、眠っている可能性のほうを信じたいわけだ。

B13112302

般若寺境内の頼長供養塔。

もとより、此方も伝承の域を出ないが、手を合わせてきた。

B13112303

頼長埋葬の地と伝わる場所を、寺の方に聞いた。

般若寺の一寸上の坂沿いで、現状も墓地である。

(捨身 Canon G1X)

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