奈良坂にて(10)
この辺りを「般若野」、大仏道も「般若道」と呼ぶことがあったようだ。
終焉の地は、当地だと云うのだ。
愚管抄などでは、幾つかの説を挙げる。
父忠実に面会を拒否された後、木津川を下る船中で、
息を引き取ったので、遺骸を般若野へ運び、火葬を行って葬った。
その場所は、般若寺から、30mばかり登ったところだとする。
奈良坂は、南都・奈良の境界地であったから、
葬送地としても知られていた。今も墓地が目立つ。
あるいは、母方の叔父、千覚律師の興福寺の坊へ逃れたが、
程なく息を引き取り、同様に般若野へ運ばれ、葬られたとも。
乱より十日経て、信西に命じられた実検使が墓を暴き、
咎人の習い、打ち棄てたとするのは、
恐らく、その通りなのだろう。重衡の首が晒された時に、
既に建っていたと云われる、大卒塔婆が裏付けになるのか。
やや時代が下がって、怨霊を畏れて、
頼長の名誉回復がされた際も、改葬の記録は無いし、
京都の相国寺に現存する、五輪塔も信憑性は低い。
この般若野に、眠っている可能性のほうを信じたいわけだ。
般若寺境内の頼長供養塔。
もとより、此方も伝承の域を出ないが、手を合わせてきた。
頼長埋葬の地と伝わる場所を、寺の方に聞いた。
般若寺の一寸上の坂沿いで、現状も墓地である。
(捨身 Canon G1X)
| 固定リンク
「歴史(中世史)」カテゴリの記事
- 直義墓所探索の後日談(2017.12.04)
- 七十一番職人歌合を観る(37)(2017.01.10)
- 説経節「をぐり」を読む(48)(2015.12.31)
- 説経節「をぐり」を読む(47)(2015.12.30)
- 説経節「をぐり」を読む(46)(2015.12.28)
コメント