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2013年11月の記事

2013年11月29日 (金)

奈良坂にて(14)

B13112801

般若寺を出て、大仏道を先へ進もう。

中世は大仏道、近世では、京街道と呼んでいた、

この道だけれど、般若寺辺りでは、「般若道」

あるいは、「般若坂」と呼ぶことが多かったようだ。

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ただ単に、般若寺前を通るからだと想っていたが、それより、

まさに「般若道」と呼ぶに、相応しい理由があった。

鎌倉後期、西大寺の叡尊らが、復興した般若寺は、

長大で、堅固な築地に取り囲まれ、

大仏道の両側に跨って、寺域が広がっていたらしい。

つまり、大仏道が、般若寺のど真ん中を、

突っ切っていた可能性が高いのだ。

南北の出入り口に木戸があり、武装した門番(僧形だ)が居て、

早朝に開き、夕刻に閉じられる体制を、とっていたであろう。

(もとより、正式の門は、道を前に西面する、現存の楼門だ)

ある意味、これは「城郭」と謂っていいかもしれない。

囲われた世界は、外からのいかなる力も、排除出来る。

実際、中世世界の、山城や、宿、市、寺社が、幹線道路を、

中に抱え込む形で、形成され、発達した例は多い。

般若寺が、この優位性を利用しない手はない。

当然、関所が設けられ、中世の旅人は「関銭」を、

(此処では、勧進だ喜捨だと云われたかもしれぬが)

シッカリ取られたはずだ。

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暫く往くと、急坂になる。「般若坂」だ。

関所は、この坂下に在ったと云われる。

(捨身 Canon G1X) 

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2013年11月28日 (木)

日々の写真 11/27

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十月下旬 富士山本宮浅間社にて

 話は変わるけど、今秋、「植田正治・生誕100年」と云うことで、

 アサカメの特集とか、写真展も幾つか開かれているようだ。

 今さら「再評価」とか、ウンザリだな。

 正直、好かないのだ。

 過大「評価」されてちまった作家って、悲惨としか謂いようが無い。

…奈良坂にて まだ続きます。お付き合いのほどを…

(捨身 ライカCL Mロッコール40㎜F2 PRO400)

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2013年11月27日 (水)

奈良坂にて(13)

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般若寺は、一寸した中世石造物の宝庫であろう。

前述の、石造十三重塔の他に、

現存最大の「笠塔婆」二基(重文指定)がある。

銘文から、一基は、宋人石工・伊行末の子、行吉(ぎょうきつ)が、

亡父・行末の追善のため、もう一基は、母親の逆修ために、

弘長元年(1261)七月に造立したことが知られる。

もとは境外、「般若野五三昧」と呼ばれた、

葬送地(般若寺より、坂下150mとも)に立っていたらしい。

頼長の墓標として、建てられていたと云う「大卒塔婆」も、

こんな形ではなかったかと想われる。

中世の絵画史料で、石造物が立っている様子を探してみた。

やはり、直ぐ見つかったのは、一遍聖絵だ。

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白く表現されているので、般若寺塔のように(西日本の特徴か)

花崗岩で造られていることも、よく判る。

石材は地方によって、違っているようだ。

因みに、鎌倉では砂岩が多い。

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これは、般若寺の石造十三重塔にそっくりだ。

結構、中世世界では、見慣れた風景だったのだな。

(捨身 Canon G1X/S110)

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2013年11月26日 (火)

奈良坂にて(12)

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国宝の楼門から、般若寺境内を望む。

正面に観えるのが、般若寺層塔と呼ばれる、石造十三重塔である。

建長五年(1253)頃、造立と考えられており、重文指定だ。

治承四年(1180)の、重衡の南都焼討ちで焼亡した、

大仏殿再建のために、来朝していた、伊行末(いぎょうまつ)等、

宋人石工集団の手に成ることが判っている。

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この石塔が建てられるまで、般若寺は焼失したままで、

荒廃していたようだ。再建の担い手になったのは、

西大寺の真言律僧・叡尊と、弟子の忍性たちだった。

忍性は、鎌倉・極楽寺の住持としても知られる。

伊行末等、宋人石工集団は、叡尊、忍性の指導下で行動し、

その子孫(伊派と大蔵派)は、あの箱根石仏も刻んでいた。

奈良坂と箱根、想わぬ接点だけど、

どちらも、極めて重要な、中世世界の境界地なのだった。

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石塔基部の西面に線刻された阿弥陀仏。

因みに、東面は薬師、南面は釈迦、北面は弥勒だ。

(捨身 Canon G1X) 

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2013年11月25日 (月)

奈良坂にて(11)

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般若寺のある奈良坂は、まさに、中世世界を代表する、

一大往来、十字路、雑踏…とも謂うべき処だったと想う。

中世著名人の足跡を、其処彼処に見つけられた。

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先に触れた、平重衡の供養塔だ。

般若寺境内には、由来不明の五輪塔、数知れずとのことだから、

後世人の想いを、かき立てないわけにはいかないのだ。

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大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよし)もある。

これは、太平記に出てくる、有名なストーリーに由る。

元弘の変(1331)で、般若寺に潜伏した宮は、

大般若経を納めた唐櫃の中に隠れ、幕府の追手から脱した。

その唐櫃と云うのを、本堂内で拝観出来る。

一見、現代の成人男性が入るには、著しく小さなものだ。

中世の成人男性(身長150cm)なら、何とか?という感じか。

「中世テーマパーク」めいてきたけれど、まぁ、大目にみよう。

(捨身 Canon G1X) 

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2013年11月24日 (日)

奈良坂にて(10)

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この辺りを「般若野」、大仏道も「般若道」と呼ぶことがあったようだ。

保元の乱で敗れ、瀕死の重傷を負って、逃亡した頼長だが、

終焉の地は、当地だと云うのだ。

愚管抄などでは、幾つかの説を挙げる。

父忠実に面会を拒否された後、木津川を下る船中で、

息を引き取ったので、遺骸を般若野へ運び、火葬を行って葬った。

その場所は、般若寺から、30mばかり登ったところだとする。

奈良坂は、南都・奈良の境界地であったから、

葬送地としても知られていた。今も墓地が目立つ。

あるいは、母方の叔父、千覚律師の興福寺の坊へ逃れたが、

程なく息を引き取り、同様に般若野へ運ばれ、葬られたとも。

乱より十日経て、信西に命じられた実検使が墓を暴き、

咎人の習い、打ち棄てたとするのは、

恐らく、その通りなのだろう。重衡の首が晒された時に、

既に建っていたと云われる、大卒塔婆が裏付けになるのか。

やや時代が下がって、怨霊を畏れて、

頼長の名誉回復がされた際も、改葬の記録は無いし、

京都の相国寺に現存する、五輪塔も信憑性は低い。

この般若野に、眠っている可能性のほうを信じたいわけだ。

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般若寺境内の頼長供養塔。

もとより、此方も伝承の域を出ないが、手を合わせてきた。

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頼長埋葬の地と伝わる場所を、寺の方に聞いた。

般若寺の一寸上の坂沿いで、現状も墓地である。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月22日 (金)

奈良坂にて(9)

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般若寺の楼門について、一寸触れる。

今の楼門は、恐らく二代目であろう。

前の門は、治承四年(1180)12月28日の晩、

平家の南都焼討ちで、焼亡した。

時の総大将、平重衡が指揮を執ったのが、この門前だった。

場所は、ほぼ変わっていないようだ。

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寺内より、楼門を観る。

奈良坂は、南都焼討ちの主戦場になったと平家物語は語る。

南都の大衆(僧兵)たちは、この楼門前の路上と、

「坂本」(この先の坂下)に、防砦を構えて、平家方を待ち受けたが、

早暁に開戦、夕刻には打ち破られたとある。

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奈良坂を進撃する重衡一行の姿が描かれていた。

後に、南都へ引き渡され、処刑された重衡の首が、

晒された(平家では「釘打ち」されたとする)のも、この門前である。

楼門は焼け落ちた状態であったろう。

頼長の墓標と云う「大卒塔婆」が立っていただけらしい。

そうそう、当地は、あの悪左府、頼長の故地でもあるのだ。

それについては、後述しよう。

般若寺は「コスモス寺」として、人気だそうだ。

(捨身 Canon G1X) 

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2013年11月21日 (木)

奈良坂にて(8)

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奈良豆比古神社を出て、大仏道を奈良市中へ向かう。

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この辺りは、点々と古民家(町屋)が続く、なだらかな坂道だ。

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五、六分程歩くと、立派な楼門が観えてくる。

般若寺の楼門である。

由緒正しき、鎌倉期の中世建築で、国宝指定だ。

奈良豆比古社前で、喜捨をせがまれた中世の旅人は、

此処でも、ライ者の群れに囲まれたはずだ。

奈良時代、都の鬼門鎮護のために、聖武天皇によって、

建立されたと伝わる般若寺は、

中世世界では、奈良坂に棲む、ライ者・乞食非人の、

一大救済センターを呈していた。

では、寺内を探索してみよう。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月20日 (水)

奈良坂にて(7)

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社殿の裏側は、突如、ストンと擂り鉢状(何とも人工的だ)に、

落ち込んでいて、その底に、巨木が生えていたのだ。

案内板に拠れば、樹高30m、幹周り7.5m、

樹齢は軽く千年を越える、楠とのことである。

今まで、彼方此方の霊地(主に南関東だが)で、

楠の古木は観てきたが、これほどの巨木は初めてだった。

もとより、人が植えたものだろう。

仮に、古代へ遡れば、祭神の施基親王と春日王の時代に、

それほど離れていないことになる。

峠の道祖神=賽の神か、あるいは、本殿の真後ろなので、

社の神体そのものなのか。

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かつて、奈良坂を往来した、中世の旅人たちが、

手向けてきた光景が想い浮ぶ。

もしも、この楠に、精霊が在すなら、

やはり、その姿は「翁」であろうな。

見上げると、直ぐ近くまで、住宅地が迫っていた。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月19日 (火)

奈良坂にて(6)

B13111801

さてと、一寸、奈良豆比古神社の境内を探索してみよう。

鳥居と参道の前は「大仏道」だ(近世は京街道と呼ばれた)

その間に、狭い空間があって、幾つかの摂社と樹木が茂る。

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小さいながら、二つの「神池」、水神の小社も祀られていた。

水源は判らないが、往古から泉があったのだろう。

この空間、ひょっとしたら、中世の「乞場」の名残りかもしれないな。

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社殿は回廊と瑞垣に囲まれているが、その裏側にも、

境内地が続いており、鬱蒼としていて、何かありそうだ。

いざ、歩を進めよう。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月18日 (月)

奈良坂にて(5)

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そろそろ、中世の奈良坂の実相に、想いを廻らさねばなるまい。

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それには、この社の祭神、春日王とその子、

浄人王、安貴王兄弟の物語の、続きを辿る必要がある。

ライ(ハンセン病)に、

「ライ」「白(びゃく)ライ」「黒(こく)ライ」の三種があると云う。

「白ライ」に罹患した父春日王と、介護する兄弟たちは、

奈良坂に棲んだ。

兄弟は「夙冠者黒人」(しゅくのかじゃくろひと)と呼ばれた。

またしても「白と黒」だが、この言葉の暗示する意味については、

あまりに、深遠なので、此処では触れない。

いつしか、辺りに、ライを患った、非人、乞食の夙(宿)が出来、

彼らが喜捨を乞う場=「乞場」(こつば)になっていった。

今は、地名として残っていないが、「北山宿」である。

大仏道を奈良へ向かう旅人は、奈良豆比古社前に着くと、

たちまち、乞食たちの群れに囲まれたであろう。

鉢を握る手、手が差し出され「施行ひかせ給へや」と。

中世世界では、ライの病は、前世の罪業の因果とされた。

あるいは、ライ者自身が、仏の化現とも云われた。

路上で、彼らに手を合わせる光景も観られたはずだ。

信心深く、罪業を畏れ、「善根を積むは今世ぞ」と願う者は、

多目の喜捨をしたに違いない。

絵画史料に、そんな場面はないかと探したら、

やはり「一遍聖絵」だった。

京の西方、桂の辺、同じく街道沿いの「乞場」に集う乞食たち。

今、侍女を従えた女性二人(左下)が施しをしようとしている。

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(捨身 Canon G1X S110)

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2013年11月16日 (土)

奈良坂にて(4)

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去る十月六日の例祭で、「翁舞」が演じられた拝殿の舞台。

その余韻のようなものか、幽かに漂う。

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拝殿の奥、瑞垣に囲まれた本殿がある。

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三柱の神であるから、小さな三つの社が並び建つ。

春日大社のそれ(其方は四柱だが)を、

ミニチュア化したようにも観える。

かつて、「春日の神=春日社」と呼ばれたと云うが、

春日大社の祭神との、直接的な関係は無いと想う。

此方の祭神、「施基親王」(春日宮天皇)と、

その子、「春日王」の名前から、

そう呼ばれるようになったのではないだろうか。

貴種=王孫が、ライ者(ハンセン病)になり、神となった。

各地に、「春日」を名乗る社は多いが、

丹念に痕跡を辿れば、同様な事例が結構あるかもしれぬ。

かなり時代が下がって、例えば、

明治の神仏分離などが契機となって、

春日大社の摂社として、付会されることもあったはずだ。

同じ「春日」でも、必ずしも、祀られた神(全く別の神だ)が、

一致するとは限らないことを、よくよく留意せねばならない。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月15日 (金)

奈良坂にて(3)

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奈良豆比古神社の鳥居を潜り、参道を進む。

こじんまりとした社だけれど、古雅な佇まいで、好ましい印象だ。

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元々は、奈良坂の「峠神」であったと想う。

祭神は、…まず、地主神(産土神)であるところの、

「平城津彦神」(ならつひこがみ)

「施基親王」(しきしんのう)

=志基皇子。天智天皇の第七皇子で、光仁天皇の父、

 春日宮天皇、田原天皇とも称する。

「春日王」 施基親王の子  …の三座である。

春日王は、ライ者(ハンセン病)であったと伝わる。

子の浄人王と安貴王の兄弟は、奈良市中、近隣の宿々で、

弓弦や花卉を売り、歌舞芸能を演じて、父親を養った。

浄人王が舞った「散楽」が、猿楽能の起源であり、

例祭の宵宮祭(10/6)で奉納される「翁舞」は、是に始まると云う。

この伝承は、奈良坂の発祥にも関わる、重要なもので、

後ほど、詳しく触れねばなるまい。

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「翁舞」が舞われる拝殿。回廊に吊るされている灯篭は、

春日大社の、それとよく似ている。

中世では、この社は「春日社」と呼ばれていたようだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月14日 (木)

奈良坂にて(2)

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奈良坂は、近鉄奈良駅から北方へ、路線バス十分程度で着く。

今では、何の変哲もない、郊外の住宅地だが、

中世世界では、極めて重要な、都市的な場だった。

京の都を早朝に出立し、南都=奈良へ向かう、中世の旅人は、

その日のうちに、奈良に辿り着くこと目指した。

旅の目的は、多くは、東大寺、興福寺、春日社を始めとする、

「大聖地」の巡礼にあったろう。

片道十里(40km)の、この道は「大仏道」と呼ばれ、

古今、数え切れないほどの、上下貴賎の人々が往還した、

大幹線道路だった。

昼前には宇治、午後遅く、木津を経て、日が傾く頃、

最後の峠、奈良山に掛かる(上、現在の峠付近)

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長い坂を登り詰めると、峠の社が鎮座していた。

辺りは、楠の巨木が茂り、水場も在って、休憩に好適だった。

伊勢、伊賀へ向かう道の分岐もあり、旅人で賑わっていたはずだ。

弘化四年(1847)の道標が現存している。

「南 右 いが いせ」 「すぐ(直ぐ)京 うぢ道」

「東 右 京 うぢ」 「左 かすが 大ぶつ道」

「北 すぐ かすが 大ぶつ」 「左 いが いせ道」と読めた。

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この道標が立つのが、今回の探索の出発点、

峠の社=「奈良豆比古神社」の真前なのである。

此処から、道は南都・奈良へ向かって、下りになる。

既に、大仏殿の屋根が遠望出来たであろう。

これが奈良坂だった。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月13日 (水)

日々の写真 11/12

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九月下旬 鎌倉・朝比奈峠越え 杉本寺にて

今宵、一寸、頭を整理して、

奈良坂に取り掛かります。ご容赦を…

(捨身 ライカCL Mロッコール40㎜F2 PRO400)

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2013年11月12日 (火)

富士山本宮浅間社へ参る(10)

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浅間社門前から、駅前まで、結構な商店街がある。

かつての、門前町の名残りだろうか。

往時の繁華ぶりは、今は昔、

此処も、例外では無く、シャッター街になっている。

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折角の「目出度さ」も、人無くば、如何はせむ、だろうな。

寂しいかぎりだが、都市的な場と云うのは、こんなものだ。

何れは失われる。

この地下には、中世の「大宮六斎市」も、眠っているのだから。

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還りの富士宮駅ホームより。

今回は、大宮と不可分な関係にある、

「山宮」と「村山浅間社」には、距離や時間の折り合いがつかず、

探索出来なかった。

それと、山梨側、富士吉田の「北口本宮浅間社」もある。

次の機会を考えるとしよう。

三嶋明神、伊豆山権現、箱根権現と続いてきた、

富士箱根伊豆火山帯の霊験所廻り、もう一寸だ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月11日 (月)

富士山本宮浅間社へ参る(9)

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もとより、当地はお膝元であるので、市内の何処からでも、

富士を望むことが出来る。

でも、今回、筆者が、麗しいなんて想うことは、

一切無かったと、謂っていい。

3.11以後、大いなる自然を観る度に、畏怖心と云うか、

徒ならぬ威圧感と云うのか、ぬうっと、湧き上がるが如くで、

とても、心中穏やかにはなれないのだ。

今春、境川の河口で、江ノ島を観た時も、そうだった。

恐らく、感覚が、中世人の、あるいは古代人のそれに、

先祖返りをしたように、呼び覚まされたのかもしれぬ。

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威圧するもの=仏神であろうか。

中世世界では、富士が大いに暴れた記憶が生々しかったから、

同じような感覚を持つ人々が、殆どだったはずだ。

唯、手を合わせ、平伏すか、その怖ろしい力を、

何とか分けて頂いて、「霊験」とするしかないのである。

富士を、美的に鑑賞するなんてことが、流行ってきたのは、

活動が鎮まってくる、近代、江戸後期以降のことだろう。

爾来、鳴りを潜めて、現代に至っている次第で、

これは、束の間の、まったく新しい流儀に過ぎないわけだ。

B13111003

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月10日 (日)

富士山本宮浅間社へ参る(8)

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雲間から、富士が頂を覗かせた。

此処から観ると、

成る程、理想的な「三峰」の吉相を呈しているわけだ。

それはそうと、一寸、腹が減ったなと、想いつつ、参道を戻る。

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この際、旅情を味わうのも一興と、

「富士宮焼きそば」と云うのを食してみた。

ごく普通の?美味しい焼きそばである。

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さて、今度は、神田川の、一つ下った橋を渡り、

駅前へ続く、門前町を辿って往こう。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月 9日 (土)

富士山本宮浅間社へ参る(7)

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頭上に富士を観上げ、身際は、滾々たる泉に臨む。

これ以上、望むべくもない、「勝地」だ。

此処に、浅間大神の大宮を造営すべきなのは、論を待たないが、

さらに、神のお膝元、門前に、「聖なるアジール」が設けられた。

「大宮六斎市」である。

永禄九年(1566)今川氏真は「楽市」と為すように命じる。

この門前市は、規模も大きく、かなり栄えたらしい。

もとより、領主・今川家に落ちる利益も、

バカにならなかったはずだ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月 8日 (金)

富士山本宮浅間社へ参る(6)

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本殿東側には、太古以来、滾々と、尽きることなく、

湧き続ける富士の湧水、

「湧玉池」(わくたまいけ)がある。

富士参詣曼荼羅では、水垢離(禊)をする、

中世の巡礼者の様子が描かれている。

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古代より、泉は、人知を越えた、仏神の驚くべき霊験であり、

人馬の渇きと、田畑を潤す、有り難き恵みであった。

それは、今でも変わることがない。

おそらく、此処に浅間社の里宮が建てられたのは、

この泉が在ったからで、既に聖地であったはずだ。

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この「湧玉池」が源泉となり、冒頭で触れた「神田川となって、

駿河湾へ、流れ出て往く。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月 5日 (火)

富士山本宮浅間社へ参る(5)

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富士山本宮浅間大社の歴史は、詳らかと云えないが、

江戸中期に成立した「富士本宮浅間社記」には、

大同元年(806)に、坂上田村麻呂が「山宮」の地=

(社殿を持たない、最古の形式の、富士祭祀施設とされる)

から、現在地に神体を移したことに始まると記されている。

所謂、「山宮」と「里宮」の関係であり、明治初年までは、

神体の渡御(山宮への里帰り)=「山宮御神幸」が、

最も重要な祭礼だったようだ(現在は廃絶している)

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いずれにせよ、平安初期に相次いだ大噴火、

(延暦十九年=800 貞観六年=864)が差し迫った契機となって、

浅間大社の原型が整えられたと、考えていいと想う。

朝廷は、祠堂を建立し、滞りがちだった祭祀を勧め、

今まで無位の、富士大神=浅間神の神位を、異例の越階、

(おっかい=飛び級)で、従三位、従二位と引き上げている。

延喜式(延長年間=922~30)では、「駿河国浅間社」は、

駿河国唯一の「名神大社」に列して、一宮となったわけだ。

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(捨身 Canon G1X)

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2013年11月 4日 (月)

富士山本宮浅間社へ参る(4)

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楼門より、拝殿、本殿を望む。

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総朱塗り桧皮葺きは、優美且つ、中世的な造作で好ましい。

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本殿は、珍しい望楼状の二階を持つ。

「浅間造り」と呼ばれ、東国はもとより、他に類例を見ない、

優れた神社建築である。

重文指定だが、2010年の、久能山東照宮の国宝指定で、

先を越され、国宝になる機会を逸してしまったと云うことだ。

筆者も、此方のほうが、よっぽど相応しいと想うのだけれど、

今年の世界遺産騒ぎで、可能性は高まっているかもしれぬ。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月 3日 (日)

富士山本宮浅間社へ参る(3)

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参道を進む。三の鳥居だ。

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総朱塗り檜皮葺きの、立派な楼門が観えてきた。

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概して、此処の社殿建築は優れている。

関が原で勝利を収めた家康が、慶長九年(1604)に、

答礼も兼ねて、大造営を行った時のものだ。

これを観れば、家康に、相当気合が入っていたことがよく判る。

家康は、幼少期より、今川の人質として、駿府で過ごして以来、

当地に土地勘があり、富士信仰にも馴染んでいたはずだ。

中世末の第一次富士山ブームのお陰で、地元は賑わい、

今川氏にも、かなりの収入が落ちていた。

そのせいか、晩年の家康、隠居所に駿府を選ぶに、

躊躇は無かったようだ。

所謂、気候温暖、東海道と海運の要地、幼少期の故地と云った、

好条件の他に、富士の存在を加えてもいいと想う。

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月 2日 (土)

奈良坂にて(1)

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想うところ在って、一寸遠出してしまった。

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意中の?二人の中世人にも逢えて、

ほぼ所期の目的を達し、先程、戻ったばかりだ。

まずは、富士山本宮浅間社のほうを片付けてから、語るとしよう。

今宵は、些か疲労もあるので、とりあえず、これにてご容赦を…

(捨身 Canon G1X)

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2013年11月 1日 (金)

富士山本宮浅間社へ参る(2)

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富士宮駅から、歩いて十分程度で、浅間大社前に着く。

その間も、興味をそそられる町並みが展開するのだが、

後述するとして、まず、眼前の、滔々たる、

富士湧水の流れを渡って、神域へ入って行くことになる。

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神田川と云う、尋常ならぬ豊かさを持つ、この流れに、

もとより、溢れ出る霊力を感じないわけにはいかない。

浅間大社にとっても、欠かせない重要な意味を与えているので、

これも、後述する。

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観えてきたのは、巨大な二の鳥居と駐車場だ。

まぁ、よくあるような風景になってきたけれど、

とりあえず、参道へ歩を進めるとしよう。

(捨身 Canon G1X)

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