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2013年12月31日 (火)

真土山まで(2)

B13123001

中世世界の浅草は、武蔵国下では、

屈指の都市的な場であったことは間違いない。

古代開創の浅草寺と、江戸湾から隅田川を遡った、この辺りの、

河岸に拓かれた、石浜の津と呼ばれる湊が在ったからである。

六浦津、神奈川津、品川津と、江戸湾の重要な航路の、

ネットワークも形成していたであろう。

だが、往時を偲ばせる遺物は殆ど残っておらず、

僅かに、浅草寺境内の「西仏の板碑」ぐらいなものだ。

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真土山(まつちやま=待乳山)は、かつて低湿地が広がっていた、

浅草一帯の、現存唯一とも云える小丘で、現状は海抜僅か9m、

コンクリートで固められた構造物に過ぎない。

恐らく、古代・中世に於いては、もっと高かったはずだ。

石浜の津を目指す、廻船にとって、重要な航海上の目印、

「船当て山」であったことは、疑いようがない。

湊の後背に位置することが多い「船当て山」は、

六浦津の上行寺裏山(上行寺東遺跡)、神奈川津の権現山、

品川津の御殿山と、枚挙の暇なく、

しかも全て、聖地、霊地であり、葬送地だった。

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真土山で最初に祀られたのが、十一面観音と伝わるのも、

非常に興味深い。

十一面観音は、水難を避け、航海の安全と守るとされ、

これは、厳島神社とも共通する。

やがて、観音は、人々(都市民)の現世利益を約する、

「歓喜天」(聖天)に化現し、江戸期の盛行を経て、

今に至るが、こういった都市的な場の信仰形態としては、

真に相応しい、在り様と謂えるわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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コメント

ここに載っている地図が分かりやすいですね。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/zue/torigoe/
長江の入江から続く泥湿地帯に七つの堆積丘があってそれを切り崩して埋め立てをしたとあります。唯一残ったのが待乳山。
日本堤は長江の入江を土手を築いて隅田川の氾濫を防いぎ、南部を農地化したんですね。
祭礼日に千束を歩いていたら、祭りの寄り合い所のテントに「田圃」という立て札をしているのを見たことがあります。

投稿: 振り子 | 2013年12月31日 (火) 06時38分

ご教授有難うございます。
江戸の中世は、殆ど失われてしまっていますが、こういった所に、ほんの僅かな残滓があるわけで、細心の注意を払わないと見落としますね。
聖天様に参拝する人々の風情が、いろいろ想像心をかきたて、面白かったです。

投稿: kansuke | 2013年12月31日 (火) 22時06分

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