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2014年1月16日 (木)

河越で中世を探す(2)

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喜多院は、江戸初期に家康の信任厚い、天海僧正が再興し、

春日局や三代家光も関わった、徳川家の所縁深い寺と云う、

イメージが大きいけれど、創建は非常に古く、

平安初期に円仁が開いたと伝わる、比叡山・天台宗直系の、

大寺院=無量寿寺が元になっている。

古代、中世を通じて、何度も、戦乱や火災に見舞われ、

やっと落ち着いたのが、江戸期に入ってからなのだ。

そんな長い歴史のお陰で、喜多院は、近世の遺産はもとより、

中世遺産にも、観るべきものを持っている。

まず、最初に触れた、寺域を囲む空堀遺構だけど、

記録が殆どないので、諸説紛々なのが現状だ。

曰く、近世初期に、河越城の出城の役割を果たす為に造られた…

曰く、室町中期、太田道潅が河越城を築く前に在った城…

曰く、この辺りは、古くから堀之内と呼ばれており、中世前期の、

   館跡か、無量寿寺の寺内町の痕跡だろう…

筆者は、一寸違う見解を持つ。

 空堀は、あくまでも中世的な遺構である。

 中世の大きな寺社には、元来、固有の、

 空堀、土塁、築地などの、防備施設を持つものが多い。

 空堀や土塁と云っても、純然たる城郭施設とは限らない。

 市や宿などの、都市的な場にも備えられ、

 アジールや、宗教的な結界を意味することがある。

 中世後期に於いては、伽藍、寺宝、僧侶、寺領の領民を、

 戦乱から守るために、寺自体が武装し、

 このような防備施設が、実際に機能していた可能性が高い。

つまり、喜多院、もしくは、前身の無量寿寺に、

中世から、もともと在った、施設なのではないか?

そんなことを想い巡らしているわけだ。

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(捨身 Canon G1X)

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歴史(中世史)」カテゴリの記事

コメント

いつもツイッターのほうでお世話になっております。
この記事を拝読し、とっさに思い出したのが談山神社のたたずまいでした。バスを降りて伽藍に到着するまで、とっつきの東大門の前で、おもわず「お城やん!」とびっくりした次第です。
まるで山城。あとで調べてみると、興福寺とは頻繁に抗争していたようですので、まさしく武装の遺跡でしょうか。
他の例は存じませんし、もしかして時代もはずれているかもしれません。
一笑にふしてください。

投稿: 糸でんわ | 2014年1月19日 (日) 16時06分

仰るとおりです。西日本では、よく残っていると想いますよ。最近は、戦国ブーム、山城ブームのせいで、空堀、土塁、石垣と云えば、即、武士の城となりますけれど、私には、甚だ疑問なのです。中世世界で、外界から襲ってくる敵は、軍勢だけでなく、あらゆる政治権力、あるいは、厄病神(疫病)、怨霊、物の怪など、様々です。そういったものまで含めた、一種の結界と捉えたいわけで、宗教学的なアプローチが、もっと必要かと愚考して居るところなのです。

投稿: kansuke | 2014年1月19日 (日) 21時14分

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