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2014年1月 1日 (水)

真土山まで(3)

B13123101

今は見る影もない真土山だが、中世以前は、この十倍、

否、数十倍はあったろう。元和の、家康の江戸開発に伴い、

低湿地が埋め立てられ、日本堤や新吉原が造られた。

その土は、こういった山々から採られたのだ。

 (真土山だけが、辛うじて、残されたわけだが、

  品川津の御殿山も、幕末期の江戸湾台場建設の為に、

  かなりの部分が削られ、土を採られている)

中世江戸の景観と云うのは、近世のそれと、全く異なっていた。

塩入りの潟、湿地、無数の小河川に覆われ、

水鳥と波音、藻塩焼く煙りが棚引くばかりだったと想う。

幾つかの、岬、丘陵地が海中へ突き出し、

社寺、集落、山城が点在した。移動手段は専ら船であったけれど、

渚に沿って、陸には、幾つかの「大道」も通じていた。

石浜の津付近には、隅田川の重要な渡し場が在って、

武蔵国と下総国の境界を為す。

南北朝期から、戦国期にかけて、山城の存在が想定されていて、

その場所は、真土山だと云うのだが、

もとより痕跡は、悉く失われてしまっている。

だが、神奈川津の権現山にも山城があり(六浦津も可能性がある)

小田原北条氏と、上杉氏との合戦の記録が残るので、

真土山・山城説は、ある程度の蓋然性があるのだ。

B13123102

話は変わるが、吉原を造った土が、

この真土山のものであったとすれば、縁浅からぬものがある。

江戸・文政期の、吉原神楽講中が建てた碑が残っていた。

B13123002

吉原の人々の、信仰が篤かったことが窺える。

その伝統は、下町となった現在も、受け継がれているようだ。

(捨身 Canon G1X) 

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