« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月の記事

2014年1月30日 (木)

河越で中世を探す(12)

B14012901

探索の終わりに、河越城下、北西の境界地を占める、

東明寺と云う、時宗寺へ足を伸ばす。

川越市には、時宗寺が四ヶ寺、現存しているそうだ。

小田原北条氏の治世下にあった宿々では、多いほうかもしれぬ。

B14012902

境内に「河越夜戦」の碑が立つ。

天文六年(1537)北条氏が奪取した後の河越城は、

度々、上杉方の攻撃に晒された。特に、天文十五年(1546)の、

包囲戦は、山内・扇谷、両上杉氏の関八州連合軍八万余

(一説には二~三万)が攻め寄せ、危機に陥る。

時の北条家当主、氏康は、和睦をちらつかせ、

油断させた包囲軍を、同四月二十日夜、寡兵(八千)を持って、

奇襲攻撃で打ち破り、関東に於ける支配権を決した。

この「河越夜戦」の実相は、殆ど不明なのだが、

(夜戦と云うのも判らない。昼間の迎撃戦だったとする説あり)

「東明寺合戦」とも呼ばれたので、

当地が主戦場だったのではないかと云われているのだ。

B14012903

もとより、その真偽は確かめようが無い。

いつもながら、時宗寺の末枯れた風情に、

往時への想いを馳せ、今回の探索の上がりとしたわけだ。

(捨身 Canon G1X) 

| | コメント (0)

2014年1月29日 (水)

河越で中世を探す(11)

B14012404

かつての、河越城内を彷徨う。

何処かに、中世世界の縁をと、想うのだが、なかなかに苦労する。

B14012503

何の変哲の無い住宅街を、延々と歩き、本丸跡に辿り着くと、

一寸開け、市立博物館と美術館が建ち並ぶゾーンに出た。

鉢形城の博物館もそうだったけど、埼玉県内のこういった施設は、

新しく、立派なところが多いみいだ。

立ち寄って見学、史料と情報を仕入れたのは勿論である。

B14012504

城の北端に至る。

水堀の役割を果たした、新河岸川が流れる。

新河岸川は、江戸期の開削工事により、

荒川、隅田川水系と繫がれ、江戸へ水運で明治期まで栄えた。

喜多院の近くには、大きな河岸場(川湊)も出来ている。

此の辺りは上流部で、元は赤間川と呼ばれ、

入間川流域の湧水群が水源になっていた。

中世の景観は、点々と湖沼が続く、低湿地だったようだ。

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (0)

2014年1月28日 (火)

河越で中世を探す(10)

B14012501

住宅街に、ほんの僅かに残る、河越城の遺構を観て歩く。

まず、富士見櫓跡だ。

江戸期に、二重もしくは、三重の櫓が建っていた小丘である。

天守を持たない、河越城では、一番高い構造物だった。

人工の築山と考えられるが、既に、太田道潅の時代(室町中期)に、

何らかの、建物が在った可能性もある。

B14012502

河越城の鎮守とされる三芳野社。城内の東端に当たる。

前回紹介した、江戸初期の絵図では、左上端に描かれている。

此処の起源も、太田道潅の時代に遡るようだ。

こういった宗教施設は、どこの城址でも、観られるけれど、

城郭とは、純然たる軍事施設、と謂い切れない所以でもある。

堀や土塁で囲む行為には、どうしても、

宗教的な「結界」の感覚が付き纏うのだ。

時に、軍事より優先する事項だったとしても、不思議ではない。

B14012505

本丸跡に着いた。

河越城、現存唯一の建物、「本丸御殿」だ。

幕末期(嘉永元年=1848)築と、かなり新しい。

内部を見学出来るが、今回はパスした。

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (0)

2014年1月26日 (日)

木地師の物語

B14012602

浅草橋にて、映画上映会に参加する。

「奥会津の木地師」(1976 民族文化映像研究所作品)

38年前、福島県南部の山間部に、

木地師の伝統を受け継ぐ人々が居た。

当時、既に高齢で、山から山への移動生活は止めて、

五十年と云うことだったが、この映画のために、

かつての、木地師の生活を再現する様子を、

克明に追った、極めて貴重な映像記録である。

山中に、作業場となる、笹葺き、掘立柱の小屋を、

建てるところから始まり、山の神を祀り、

ブナの木の見立て、伐採、荒削り(女性の作業だ)

現在では全く観られなくなった、手回し轆轤を使っての作業など、

初見の映像ばかりだった。

特に喫驚したのは、手回し轆轤が、室町後期に成立した、

「七十一番職人歌合」(下)に出てくる「轆轤師」=木地師が、

使うものと、殆ど変わらなかったことだ。

作品に登場した人々は、もう鬼籍に入られているかと想うと、

この、失われれて、二度と戻ることの無い「物語」に、暫し瞑目した。

B14012601

(捨身 Canon S110) 

| | コメント (0)

2014年1月25日 (土)

河越で中世を探す(9)

B14012402

大手門前から、河越城の本丸を目指して、歩いてみることにした。

今まで、各地の城下町を訪ねているけれど、

川越は、城の場所が、把握し難い町だと想う。

大抵の城下町は、駅を降りると、地図や、大まかな地形を観れば、

あの辺りとなるわけだが、当地は、武蔵野台地上と云っても、

平坦で、変化の少ない市街地が続き、起伏感も乏しい。

おまけに、明治維新で、城跡は、ほぼ跡形も無く、破却されている。

B14012403

既に城内に入っているのだが、漠とした住宅街ばかりで、

路地裏なんかに、一寸起伏が認められる程度だ。

河越城は、長禄元年(1457)扇谷上杉氏の家宰、太田道真、

道潅父子が築城、戦国期は小田原北条氏に属し、近世に入ると、

徳川譜代親藩の居城となった。基本は、空堀、土塁で囲まれる、

幾つかの曲輪を繋げた、「連郭式平山城」とされるのだが、

比高は僅か4~5m、遺構も殆ど現存していな現状では、

なかなか、往時を偲ぶのが難しい。

江戸初期に描かれた、唯一の絵画史料を掲げる。

B14012401

天正十八年(1590)の小田原合戦で、開城した後、

徳川の支配下に移って、間もない頃、

松平信綱による、大拡張以前の姿と云われている。

堀には水が湛えられているが、天守などは見当たらない。

瓦葺きも、櫓門程度で、茅葺、平屋の建物群で占められる。

中央左下が大手門だろう。その前の堀に架かるのは、

橋ではなく、古風な土橋。中世城郭の名残りが濃厚だ。

(捨身 Canon G1X S110)

| | コメント (0)

2014年1月24日 (金)

河越で中世を探す(8)

B14012205

元禄期頃に描かれた、河越城下の絵図面。

松平信綱の城下町整備後の姿だが、現存最古のものだ。

上下は北南、左右は西東を示す。

上方右側に「東」と書かれた空白部が河越城で、

左の馬蹄型に観える部分が大手門、同右下は南大手門だ。

大手門前を南北に走るのが、川越街道になる。

一街区左を並行する道が、所沢街道だろう。

下方中央に赤く塗られた部分は、蓮馨寺と熊野社、

その付近一帯が、現在の連雀町か。

小田原北条氏時代に、連雀町が在ったと想われる場所は、

大手門前の、西から来る道と直交している辺りだ。

北上し、鉢形城を経て、上州方向へ抜ける道と、

西方の、八王子・滝山城と連絡する道もあったはずだけれど、

この絵図では判然としない。

B14012202

ちょうど大手門前まで、やって来たので、

河越城跡も一寸探索してみよう。

(捨身 Canon G1X S110)

| | コメント (0)

2014年1月23日 (木)

河越で中世を探す(7)

B14012201

連雀町を過ぎる。所沢街道は、少し先で、クランク(鉤の手)し、

仲町の辻で、「蔵造りの町並み」通りに繋がる。

現在は、西武・本川越駅まで、通じているが、

昭和初期までは、蓮馨寺の寺域が大きく張り出しており、

この道がメインストリートだった。

さて、江戸初期、松平信綱の城下大整備以前まで、

(小田原北条氏の治世下に)連雀町が置かれたと想われる、

大手門前に往ってみることにした。

一街区隔てた、東側に並行する、河越街道を辿る。

江戸城を起点に、河越城大手門前に至る道だ。

既に、室町中期、太田道潅の時代には、拓かれていたはずで、

戦国期、江戸期通じて、河越では最重要道路だった。

B14012203

暫く進むと、川越市役所前の交差点に出る。其処が大手門前だ。

B14012204

この辺りは、「元町」(かつては、元宿だろう)と呼ばれる。

戦国期まで、河越城下の「宿」が在った場所で、

川越の町は、此処から始まったのだ。

次回は、元禄期の描かれた、現存最古の河越城下絵図を、

一寸、覗いてみよう。

…人気の「蔵造りの町並み」は敢えて外しました…

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (0)

2014年1月22日 (水)

河越で中世を探す(6)

B14011901

中世を探すと云うことは、その前に立ちはだかる、

分厚い近世(江戸期)のフィルターを取り除くことから、

始めねばならない。これが、結構厄介な作業なのだ。

長い近世の間に、著しい改変があったり、

逆に、上手い具合に保存されていたり、一筋縄ではいかない。

さらに、その上に、近代のフィルターもかかっている。

河越の場合、「蔵造りの町並み」「小江戸」とか、

往時の風情がよく残っている町と、喧伝されているけれど、

実情は、改変が大きく、中世の姿を描くのは、

大変なのが判って来た。

でも、出来うる限り、推測も含むが、試みてみよう。

B14011902

連雀町は、中世末期から、近世初頭にかけて、

各地の戦国大名の城下に、置かれたことが判っている。

未だ、近世の城下町が、発展途上の段階である。

その頃、城下は「宿中」と呼ばれ、大手門前の一番いい場所が、

連雀衆に割り当てられていたようだ。

因みに、関東・東海・甲信の、他の町の例では、

(岩槻、松山、鉢形、前橋、箕輪、館林、甲府、静岡、

 浜松、岡崎など) ほぼ共通の特徴になっている。

現在の川越の連雀町については、川越城の大手門から、

離れたところに在って、状況を一寸複雑なものにしているわけだ。

さて、この所以は、後で触れるとして、連雀町の探索を続ける。

典型的な、末枯れた昭和の商店街になってきた。

辿る道は、川越市内を南北に貫く「所沢街道」と呼ばれる古道だ。

武蔵府中で甲州街道と交わる。中世まで遡る道と観ていいだろう。

B14011903

町の中ほどに、熊野神社が現われた。

連雀衆は、熊野山伏(修験)を先祖に持つ家系が多いから、

縁浅からぬものがある。ひょっとしたら、町の鎮守かもしれぬ。

B14011904

元は、道一つ隔てた「蓮馨寺」(れんけいじ)が別当寺だった。

浄土宗の、この寺は、戦国期に河越城代を務めた、

小田原北条家重臣、大道寺氏が建てたもので、

宿中の管理を任されていたらしい。

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (0)

2014年1月21日 (火)

丸石の道祖神 (2)

B14012001

2010年の八月に、山梨・石和の丸石の道祖神に触れて以来、

懸案だった、中世の絵画史料に描かれた、丸石道祖神の画像を、

やっと見つけることが出来た。けじめの為にアップする。

彼の三大絵巻の一つ、「信貴山縁起絵巻」(12C 国宝)だ。

街道に、祠と供に祀られる丸石。周りには御幣が立てられている。

こんなわけで、道祖神の孕む、深遠な問題は兎も角として、

「石」が持つ、霊力について、再び、想い廻らしてみた。

小石、飛礫石、庭石、磐座に至るまで、中世世界はもとより、

古代から、その強力な霊力が、人々を捉えてきたのではないか。

峠、坂、辻、橋、渡し場宿、市などの、境界地の道沿い、

あるいは、家々の戸口、庭中、墓の土饅頭の上に置けば、

疫病神、鬼、邪霊、怨霊の侵入や侵出を、塞ぐことが期待出来る。

(彼らは、虚空を飛んでくるのではない。あくまでも道を辿るのだ)

「塞の神」(さえのかみ)とも、呼ばれた所以である。

病人が出た家では、祈祷する呪師が戸口に祀る。

鎌倉の切通しでは、道の真中に「置石」が現存するが、

騎馬を防ぐためと云われるけれど、これも「塞の神」か。

そのせいか、この頃、探索の際に、古道や寺社に、

忽然と置かれた石が(漬物石でも!)気になってしようがない。

中世遺跡では、足下に転がる小石にもだ。

「経石」って云うのも、あるしね…(下 東博にて 14~15C頃)

B14012002

(捨身 Canon S110)

| | コメント (0)

2014年1月20日 (月)

ボロ市 2014

B14011905

15日、久し振りに、世田谷の整形外科へ往ったのだけど、

ボロ市の日であったことを忘れていた。

丁度、病院の真前の通りなので、人波に巻き込まれるわけだ。

一寸、後悔したが、二年ぶりのボロ市ではある。覗いてみた。

B14011906

B14011907

B14011908

竹細工、木工品、神棚、古着、古道具…こういった、ボロ市らしい、

昔からの商品は、明らかに、年々減っているようだ。

増えているのが、アンティーク関係だが、

今年は、出展者が入れ替わっているのか、あまりパッとしなかった。

B14011909

この玩具屋のオッチャン、健在でした。

(捨身 Canon S110)

| | コメント (0)

2014年1月19日 (日)

河越で中世を探す(5)

B14011801

喜多院の山門前に、日枝山王社がある。

比叡山・天台宗の鎮守神だから、当然、不可分なのだが、

やはり、明治の神仏分離で別れている。

こぢんまりとした社で、戦国期の様式を残し、重文指定だ。

ついでながら、川越市は、関東では、鎌倉、日光に次いで、

文化財が多い町だそうだ。喜多院、仙波東照宮始め、

江戸初期の重文指定の建造物群が現存する。

B14011802

さて、喜多院を出て、住宅街を抜け、

近世・河越の、城下町地区へ歩を進めよう。

古い町には、和菓子店が目に付くけれど、当地もそうだ。

せんべい、団子、餡子か。

B14011803

まず、目指すのは、連雀町(れんじゃくまち)と決めていた。

家康の関東入部後、河越は、主に徳川譜代が封ぜられ、

川越藩が立藩されるが、寛永16年(1639)に藩主になった、

松平信綱が、河越城の大拡張、城下町の整備を行う。

現状の町並みは、それが元になっている。

連雀町も、その時に造られたようだが、実は、以前の、

戦国期・北条時代に、既に存在し、移転してきたものなのだ。

B14011804

もとより、連雀町とは、連雀商人連雀衆)たちが、

集住させられた町である。

このような町名は、各地の城下町に見出せるが、

連雀衆は、近世に入ると、歴史の表舞台から、

消え去って往く集団なので、中世世界の遺物と謂っていいと想う。

連雀町の探索は、念願でもあった。

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (0)

2014年1月18日 (土)

河越で中世を探す(4)

B14011701

B14011702

空堀の他に、喜多院に残る中世遺物を観よう。

境内南側の小高い丘は、6~7世紀頃の古墳と云われているが、

その頂上に、慈眼堂と呼ぶ、小堂が建つ。

慈眼とは、天海僧正の大師号、この堂は彼の坐像を祀る。

天海は、天文5年?(1536)生まれ、寛永20年(1643)まで、

在世したから、108歳だ。当時としては、例外的な長命だろう。

生き抜いた時代は、戦国期只中、れっきとした中世人だ。

家康、秀忠、家光の三代に仕え、江戸や日光の、

基本コンセプトを設計した、ホンモノの「大物」である。

B14011703

話がそれたが、観るべきものは、堂裏の歴代住職の墓所にある。

正面、真中にそそり立つ、天海僧正の巨大な石塔が遮って、

甚だ観辛いのだが、立派な中世板碑が二つ現存しているのだ。

B14011704

周りを廻って、やっと二本とも、観易いアングルを見つけた。

手前が、延文三年(1358)銘、奥が、暦応五年(1342)銘を持つ。

無量寿寺時代から、此処に立っていたもので、

保存状態もいいようだ。

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (0)

2014年1月17日 (金)

河越で中世を探す(3)

B14011601

B14011602

B14011603

喜多院西側の、巨大な空堀に架かる橋を、

「どろぼうばし」と呼ぶ。

この橋について、一寸面白い伝説が紹介されている。

…昔と云うけれど、恐らくは、江戸期のこと。

  河越の町方で、泥棒を働いた者が、橋を越えて、

  喜多院へ逃げ込んだ。町奉行の獲り方は、

  寺域が、幕府公認の「御朱印地」で入れず、

  取り逃がしてしまった。

  その後、泥棒は喜多院で修行し、改心する。

  寺側の申し出でもあり、奉行側は、罪を問わなかった…

寺社に認められていた、典型的なアジールである。

(鎌倉の縁切り寺=東慶寺と、同種のものだろう)

中世世界に置き換えても、十分通じるストーリーだ。

喜多院の空堀が、中世へ遡る、結界も兼ねた、

固有の施設とする、筆者の仮説を、

幾分でも、補強すると想うのだが。

(捨身 Canon G1X) 

| | コメント (0)

2014年1月16日 (木)

河越で中世を探す(2)

B14011502

B14011503

喜多院は、江戸初期に家康の信任厚い、天海僧正が再興し、

春日局や三代家光も関わった、徳川家の所縁深い寺と云う、

イメージが大きいけれど、創建は非常に古く、

平安初期に円仁が開いたと伝わる、比叡山・天台宗直系の、

大寺院=無量寿寺が元になっている。

古代、中世を通じて、何度も、戦乱や火災に見舞われ、

やっと落ち着いたのが、江戸期に入ってからなのだ。

そんな長い歴史のお陰で、喜多院は、近世の遺産はもとより、

中世遺産にも、観るべきものを持っている。

まず、最初に触れた、寺域を囲む空堀遺構だけど、

記録が殆どないので、諸説紛々なのが現状だ。

曰く、近世初期に、河越城の出城の役割を果たす為に造られた…

曰く、室町中期、太田道潅が河越城を築く前に在った城…

曰く、この辺りは、古くから堀之内と呼ばれており、中世前期の、

   館跡か、無量寿寺の寺内町の痕跡だろう…

筆者は、一寸違う見解を持つ。

 空堀は、あくまでも中世的な遺構である。

 中世の大きな寺社には、元来、固有の、

 空堀、土塁、築地などの、防備施設を持つものが多い。

 空堀や土塁と云っても、純然たる城郭施設とは限らない。

 市や宿などの、都市的な場にも備えられ、

 アジールや、宗教的な結界を意味することがある。

 中世後期に於いては、伽藍、寺宝、僧侶、寺領の領民を、

 戦乱から守るために、寺自体が武装し、

 このような防備施設が、実際に機能していた可能性が高い。

つまり、喜多院、もしくは、前身の無量寿寺に、

中世から、もともと在った、施設なのではないか?

そんなことを想い巡らしているわけだ。

B14011501

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (2)

2014年1月15日 (水)

河越で中世を探す(1)

B14011401

B14011402

B14011403

B14011404

典型的な近世城下町、川越にやって来た。

今回は、この町のさらに古層、中世世界の、

都市的な場の痕跡を探して歩こうと、想い立ったのだ。

以下、表記も、戦国期以前の「河越」でいく。

出発点は、喜多院に決めた。

この寺は、西方を拝せるように、山門は東へ開いている。

本尊が阿弥陀如来だからだろう。

反対側の西から、境内に入って往くと、

いきなり、大きな空堀が現われた。

(捨身 Canon S110)

| | コメント (0)

2014年1月 5日 (日)

真土山まで(7)

B14010401

伝法院通りまで出て来た。

B14010402

横丁の角に、一寸知られた洋食屋がある。

B14010403

カウンターに座り、チキンカレーをたのむ。

カレーは、洋食風が好みなのだ。

B14010404

店を出ると、何時もと変わらぬ浅草の賑わいだった。

(捨身 Canon G1X) 

| | コメント (0)

2014年1月 4日 (土)

真土山まで(6)

B14010301

この稿を書いている居る間に、年を越してしまった。

と謂っても、わざとそんな風にしたのである。

いつもの、日々の淡々とした在り様を、

殊更に変えるのが、否なだけなのだ。

年末年始の、非日常の浮ついたバカ騒ぎに、

遣り切れない気持ちが、寄る年波とともに、

押さえられなくなって居る、としか謂いようがない。

この我侭は、物心ついてからのものだろうな。

でも、とりあえず、拙ブログをご覧になっている方々には、

何卒、ご容赦頂いて、本年のご多幸をお祈り致す次第哉。

B14010302

もとより、年始の寺社探索は、なるべく避けるわけだが、

騒ぎが始まる一寸前の、年の瀬、押し迫って、

静まり返った風情は、悪くないと想う。

そんなことで、浅草・真土山界隈を歩いてみた。

B14010303

さて、浅草寺門前の繁華なる町場へ戻るとしよう。

B14010304

ちょうど、腹ごしらえもしたくなったし、締め括りは何か食べ物で…

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (0)

2014年1月 3日 (金)

真土山まで(5)

B14010201

真土山の境内は、彼方此方に注連縄が張られ、

手水舎も完備している。

寺であるのに、神社の要素が交り合い、面白い。

これも、ある意味、神仏習合の残滓かもしれぬ。

龍がイメージされるのは、浅草寺の観音が示現する際に、

先触れとして、この山が一夜のうちに湧出、

天より、金龍舞い降り、守護したとする、伝承に因むのだろう。

「金龍山」と云うのは、浅草寺のほうの山号、

もとより、水=龍=観音は、よく見出せる組み合わせである。

B14010202

歓喜天(聖天)信仰は、俗信と共に語られることが多いようだ。

効験のあまりの強さに、歓喜天を修す真言を、

妄りに唱えることを忌んだり、

真言を七度唱え、待ち人の名を呼ぶと、

その人を寄せることが出来る、などと云った話だ。

B14010203

今回も、一人、丁寧に参拝する女性の姿が目立った。

真土山の霊験は、尚、あらたかと観える。

(捨身 Canon G1X) 

| | コメント (0)

2014年1月 2日 (木)

真土山まで(4)

B14010102

歓喜天(聖天)の尊様は、

象頭人身の男女二神が抱擁する姿を示す。

ヒンドゥー教から入った、密教の護法神だが、異形の神であろう。

財宝、子宝、安産、夫婦和合など、徹底した現世利益を約する。

彼地では、大根を好まれたと云うので、大根が供物である。

B14010103

歓喜天の修法には、浴油をもって行う。

甚だ強い効験を現すので、古来より、恃まれると同時に、

畏れらてもきた。

後醍醐天皇は、寵妃の御産に託け、歓喜天を信仰し、

あの文観僧正に命じて、鎌倉調伏を修していたことが知られる。

やはり、怪しく、隠微なイメージが浮ぶのは、否めまい。

B14010104

でも、一方で、その信仰の在り様に、

都市民の、日常の切実な願いも、ひしひしと感じられるから、

どこか、愛おしささえ、覚えるのだ。

(捨身 Canon G1X)

| | コメント (0)

2014年1月 1日 (水)

真土山まで(3)

B13123101

今は見る影もない真土山だが、中世以前は、この十倍、

否、数十倍はあったろう。元和の、家康の江戸開発に伴い、

低湿地が埋め立てられ、日本堤や新吉原が造られた。

その土は、こういった山々から採られたのだ。

 (真土山だけが、辛うじて、残されたわけだが、

  品川津の御殿山も、幕末期の江戸湾台場建設の為に、

  かなりの部分が削られ、土を採られている)

中世江戸の景観と云うのは、近世のそれと、全く異なっていた。

塩入りの潟、湿地、無数の小河川に覆われ、

水鳥と波音、藻塩焼く煙りが棚引くばかりだったと想う。

幾つかの、岬、丘陵地が海中へ突き出し、

社寺、集落、山城が点在した。移動手段は専ら船であったけれど、

渚に沿って、陸には、幾つかの「大道」も通じていた。

石浜の津付近には、隅田川の重要な渡し場が在って、

武蔵国と下総国の境界を為す。

南北朝期から、戦国期にかけて、山城の存在が想定されていて、

その場所は、真土山だと云うのだが、

もとより痕跡は、悉く失われてしまっている。

だが、神奈川津の権現山にも山城があり(六浦津も可能性がある)

小田原北条氏と、上杉氏との合戦の記録が残るので、

真土山・山城説は、ある程度の蓋然性があるのだ。

B13123102

話は変わるが、吉原を造った土が、

この真土山のものであったとすれば、縁浅からぬものがある。

江戸・文政期の、吉原神楽講中が建てた碑が残っていた。

B13123002

吉原の人々の、信仰が篤かったことが窺える。

その伝統は、下町となった現在も、受け継がれているようだ。

(捨身 Canon G1X) 

| | コメント (0)

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »