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2014年4月30日 (水)

極楽寺坂から長谷観音へ(29)

B14042901

極楽寺坂の古道は、現在の車道とほぼ重なっている。

切り通し部分は、上掲の如く、深く掘り込まれているが、

開削当時の鎌倉後期には、4~5m程度の掘り下げで、

坂も急だったようだ。

朝比奈切り通しみたいに、時代が下がるにつれて、

深くなっていったのだ。

さて、極楽寺坂の非人宿を論じているうちに、

非人、乞食、らい者と纏めていたが、一寸乱暴だったと想う。

未だ不明な点は多いにしても、より正確に謂うならば、

非人とされた人々の中で、らい者(ハンセン病)の占める、

割合が高かったとすべきだった。

らい病は、貴族、武士を問わず、あらゆる階層の人々を襲う。

不幸にして罹患した場合は、地域社会の差別を恐れ、

各々の家を出て、非人宿へ入らざるを得なかった。

家族は、いくばくかの謝礼と、食い扶持を、

非人宿の頭目=長吏(ちょうり)に渡し、世話を請うた。

当然、豊かな家であれば、謝礼をはずめるので、

非人が携わるべき様々な生業から、楽な仕事を宛がわれ、

扱いがよくなった。病状が進んでも、手厚い看護が期待できる。

それが出来ない貧しい者は、辛い「乞場」での、

乞食に従事させられた。上前を撥ねられ、食事も減らされる。

病状が悪化すれば「地獄」へ棄てられるかもしれない。

そうなれば、極楽寺の施療院だけが頼りだ。

全ては、長吏の胸先三寸であったろう。

非人宿の長吏は、世襲が殆どで、もとより、らい者ではない。

その地位と利権は強く、極めて富裕だった。

一方で、らい者でない非人もいた。彼らは、戦乱、災害、

貧困などの理由で、この境涯に落ちざるを得なかった人々である。

B14042902

日蓮宗の光則寺境内より、長谷側の谷戸を望む。

もう、すっかり新緑の中哉…

(捨身 Canon G1X)

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