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2014年4月の記事

2014年4月30日 (水)

極楽寺坂から長谷観音へ(29)

B14042901

極楽寺坂の古道は、現在の車道とほぼ重なっている。

切り通し部分は、上掲の如く、深く掘り込まれているが、

開削当時の鎌倉後期には、4~5m程度の掘り下げで、

坂も急だったようだ。

朝比奈切り通しみたいに、時代が下がるにつれて、

深くなっていったのだ。

さて、極楽寺坂の非人宿を論じているうちに、

非人、乞食、らい者と纏めていたが、一寸乱暴だったと想う。

未だ不明な点は多いにしても、より正確に謂うならば、

非人とされた人々の中で、らい者(ハンセン病)の占める、

割合が高かったとすべきだった。

らい病は、貴族、武士を問わず、あらゆる階層の人々を襲う。

不幸にして罹患した場合は、地域社会の差別を恐れ、

各々の家を出て、非人宿へ入らざるを得なかった。

家族は、いくばくかの謝礼と、食い扶持を、

非人宿の頭目=長吏(ちょうり)に渡し、世話を請うた。

当然、豊かな家であれば、謝礼をはずめるので、

非人が携わるべき様々な生業から、楽な仕事を宛がわれ、

扱いがよくなった。病状が進んでも、手厚い看護が期待できる。

それが出来ない貧しい者は、辛い「乞場」での、

乞食に従事させられた。上前を撥ねられ、食事も減らされる。

病状が悪化すれば「地獄」へ棄てられるかもしれない。

そうなれば、極楽寺の施療院だけが頼りだ。

全ては、長吏の胸先三寸であったろう。

非人宿の長吏は、世襲が殆どで、もとより、らい者ではない。

その地位と利権は強く、極めて富裕だった。

一方で、らい者でない非人もいた。彼らは、戦乱、災害、

貧困などの理由で、この境涯に落ちざるを得なかった人々である。

B14042902

日蓮宗の光則寺境内より、長谷側の谷戸を望む。

もう、すっかり新緑の中哉…

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月29日 (火)

極楽寺坂から長谷観音へ(28)

B14042801

ところで、中世の極楽寺坂に在った非人宿は、

いつ頃まで存続していたのだろうか。

救済施設を経営していた極楽寺は、室町中期(応永年間)の、

大火で著しく衰微し、以後の再建は難しくなって往ったようだ。

非人宿のほうは、鶴岡八幡宮寺の清めや警護、

祭礼の先触れ役などを務めていたから、

享徳の乱で、鎌倉公方が古河へ落去して、

鎌倉が荒廃し始めた戦国期も、小田原北条氏の庇護下で、

活動していたことが判っている。

小田原攻め、家康の関東入府で、大きな変化が現われる。

極楽寺坂の非人頭(長吏)の一人が、家康に取り立てられ、

江戸市中、関八州の非人頭、浅草の「弾左衛門」の祖に、

なったと云うのだ。彼らが享保年間に奉行所へ提出した、

所謂「由緒書」に、その経緯が出てくるが、幾らかの身贔屓は、

割り引くにしても、納得出来る所伝が多い。

ついでながら、証拠として、引用されている「頼朝の御証文」は、

中世後期から近世初頭にかけて、職能民の間で流行った、

典型的な「偽文書」である。

B14042802

「弾左衛門」が出て往った後の、極楽寺坂非人宿は、

江戸期を通じて営まれ、明治維新を境に廃絶したと考えられる。

廃仏毀釈で、鶴岡八幡宮寺の御用が途絶えたのも、

一因だったろう。

B14042803

さて、極楽寺谷戸奥から、踵を返して、もう一寸探索を続ける。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月28日 (月)

極楽寺坂から長谷観音へ(27)

B14042701

今回の探索で、心中密かに期すること有り。

それは、谷戸奥を出来るだけ極めることだ。

だから、近頃になく、よく歩いた。

少々足が痛むけれど、心地よい疲労感もある。

「月影地蔵堂」の裏手は、極楽寺後背の谷戸の最深部で、

一寸、田園風景が広がっていた。

B14042702

墓地を抜ければ、尾根を越えの急な山道だ。

B14042703

斜面の途中に平場が現われた。

樹木が生茂っているが、何らかの構造物が建っていたようだ。

「極楽寺絵図」に拠れば、谷戸内に多数の堂舎が、

描かれているので、その一つかもしれぬ。

このような場所を発見する時が、醍醐味なのだ。

B14042704

さらに登って、今まで詰めてきた、谷戸の全景を望む。

袋の中に、いろいろものを放り込んだようなと、

中世人の誰かが書いていたが、実に云い得て妙だと想う。

今でも、それはまったく変わらない。

やはり、谷戸は、一種のミクロコスモスと謂えるだろうな。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月27日 (日)

極楽寺坂から長谷観音へ(26)

B14042601

白藤の路地は、直ぐ往き止まって、小堂に突き当たった。

目当ての「月影地蔵堂」だ。

B14042602

近くの寺が管理しているわけではなさそうだ。

谷戸の人々が手をかけて、維持しているようなのだ。

B14042603

この地蔵堂の由来はよく判らない。

隣りの「月影ヶ谷」(つきかげがやつ)に棲んだと云う、

阿仏尼の持仏堂が始まりだとも伝える。

もともと「地獄谷」には、地蔵が彼方此方に祀られていたはずだ。

忍性らが極楽寺を興してからも、

地蔵たちは大切にされたであろう。

極楽寺絵図にも、名も無き諸堂が描き込まれているが、

それに当るのだろうか。

B14042604

堂の傍らには、近世の石塔や墓石群が立つ。

でも、やはり、片隅に目が往った。

かつて、地獄谷に立てられていた中世五輪塔の残欠だとしたら…

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月26日 (土)

極楽寺坂から長谷観音へ(25)

B14042501

「月影地蔵堂」は、極楽寺後背の谷戸奥に在りと謂うので、

江ノ電極楽寺駅まで戻り、再び谷戸探索に入る。

駅前の「導地蔵」前を過ぎ、振り返って、まず一枚哉。

B14042502

往時、此処には、極楽寺の主要伽藍が広がっていた。

既に訪ねた「忍性塔」は、西南寄り、手前の斜面だった)

その前は、中世都市鎌倉の葬送地で、「地獄谷」と呼ばれ、

市中に打ち棄てられた、病者、孤児、屍体を送る、

「無常堂」が在ったらしい。

谷戸中、念仏を唱える声で満ちていたのではないか。

路地が迷路めいて、外見より懐が深い谷戸だ。

とりあえず、奥へ進むしかない。

彼方此方に藤花を観る。

B14042503

おっと、往き止まりだ。

一寸迷ったみたいだ。

鎌倉の谷戸では、こんなことによく出くわす。

それもまた、愉しみなのだ。

方向転換しよう。

B14042504

まさに「地獄で地蔵を求め、彷徨うの図」であることよ。

こっちの路地は往けそうだ。

白藤の香りが誘って居るな。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月25日 (金)

極楽寺坂から長谷観音へ(24)

B14042401

再び、極楽寺坂の古道へ戻り、針磨橋横、

極楽寺町内会の集会所前に至る。

実を謂うと、当地にこれほど、

中世史スポットが隠れているとは想わなかった。

京、鎌倉を結ぶ「古東海道」は、天下の雑踏であり、

中世世界の上下貴賎、著名人はもとより、

様々な人々が通ったはずである。

まさに、奈良坂に匹敵するだろう。

まぁ、この一年、彼方此方と探索して、「史眼」が鍛えられたので、

少しばかり、勘が効くようになり、見落としも少なくなったわけか。

B14042402

集会所の裏へ廻ると、楠の古木があり、江ノ電の線路に出る。

針磨橋前の双樹と、同じくらいの樹齢で、なかなかの風情だ。

一寸線路に沿って、稲村ヶ崎方向へ進む。

B14042403

小さな踏切を渡ったところに、古碑を見つけた。

阿仏尼邸址を示す。

此処から山裾へ入った辺りが「月影ヶ谷」(つきかげがやつ)だ。

そうだ。その谷戸に在ったと云われる地蔵堂を観てみよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月24日 (木)

極楽寺坂から長谷観音へ(23)

B14042301

南側の谷戸奥で、急坂に突き当たる。

上り詰めて往こう。

B14042302

一寸高度を稼いで、振り返ってみた。

向こう側の山裾が、極楽寺の伽藍が広がっていた辺りだろう。

谷底には、極楽寺坂(古東海道)と極楽寺川、江ノ電が走る。

B14042303

程なく行き止りになり、藪の中に、目当ての小社を見つけた。

大分荒れ果てているけど、谷戸の鎮守、白山社である。

東国の非人宿と、白山信仰の関係は、既に提起されて久しいが、

当地、極楽寺坂も、やはり、例に洩れないと想う。

この問題を論じようとすると、収拾がつかなくなるので、

とりあえず、今宵は此の辺で留め置く。

(今回の探索、まだ続きます)

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月23日 (水)

極楽寺坂から長谷観音へ(22)

B14042201

谷戸の内は、両側から斜面が迫り、

狭く入組んだ住宅地になっている。

家々の屋根を渡して、鯉幟りが泳いでいた。

季節は動いて居るな。

中世古道に於ける、クランク(鉤の手)考の、続きだけど、

これからは「筋違(替)」(すじかえ)と呼ぶことにしよう。

近世の、五街道や城下町に観られるものとの間に、

継続性や関連性は認めつつも、明確に区別したいと想っている。

まず、規模の違いは大きいだろう。

中世古道の「筋違」は、軍事目的と云うには、あまりに小さ過ぎる。

5m以下の、ミュニチュアめいた代物で、しばしば見落とすほどだ。

それに比して、近世の「筋違」は、

(例えば、藤沢・遊行寺門前とか)

俗に「大曲」(おおまがり)と称することもあるくらい、結構があって、

軍事目的、あるいは「火除け地」と云うのも、納得が往くのだ。

B14042202

さて、谷戸の路地を進もう。

聞こえるのは、鶯の谷渡りと、

時たま走り去る、江ノ電の音だけである。

B14042203

廃屋と空き地を通り抜け、道はやや登りになった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月22日 (火)

極楽寺坂から長谷観音へ(21)

B14042101

江ノ電を見送ってから、中世古道のクランク(鉤の手)ことで、

想いを廻らしてみた。

朝比奈切り通しへ向かう、六浦道(むつらみち)でも、

鶴岡八幡宮前を出て、宝戒寺を過ぎた辺りで、

「筋違(換)橋」(すじかえばし)と云う橋跡があり、

同様に道がクランクしていたようだ。

どうも往時は、クランク(鉤の手)を「筋違」(すじかえ)とも、

呼び習わしていたふしが感じられる。

調べると、京都、大坂、江戸に「筋違橋」の地名が見出され、

いずれも、幹線道路のクランク(鉤の手)の痕跡が認め得る。

江戸の「筋違橋」は、今の万世橋辺りで、ちゃんと江戸城の、

「見付」を伴っていた。京都、大坂の例は未確認だが、

各地の、中世の都市的な場と古道の遺跡でも、

同じような事例が、発見出来るのではないか。

今まで、街道のクランク(鉤の手)は、

近世城下町の防御施設と捉えるのが定説だったけれど、

もとより筆者は、賽の神や道祖神のように、道を通って、

外界から来訪する「厄病神」(疫病)や怨霊を防ぐ、

呪術的な意味が、込められていたのではないかと、

密かに睨み、こだわり続けて居るわけだ。

B14042102

さて、極楽寺川に沿った、この谷戸内を一寸探索してみよう。

細い路地へ、足を踏み入れる。

B14042103

狭い谷間を極楽寺川は、こんな具合に流れ往く。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月21日 (月)

極楽寺坂から長谷観音へ(20)

B14042001

「針磨橋」を過ぎ、極楽寺坂から続く「古東海道」を、

さらに、稲村ヶ崎方向へ向かう。

くねくねと進む細い車道は、典型的な古道の趣を残す。

B14042002

江ノ電の線路と並走するところだ。

絵になり易いスポットなので、電車と通行人が通る、

タイミングを待って、撮ってみた。

この辺りに「十六夜日記」の作者で知られる、

阿仏尼(1222~83?)の邸址があると云う。

土地訴訟のために、鎌倉に赴いた阿仏尼は、

「月影ヶ谷」(つきかげがやつ)と呼ぶ、谷戸の山沿いに、

棲んだと「十六夜日記」に出てくる。

彼女は、律宗(女人救済にも熱心だった)の法華寺(奈良)で、

出家受戒したようで、同じ律宗の、極楽寺内の尼寺に、

世話になっていた可能性もあるだろう。

B14042003

やがて、踏み切りに出遭う。

道がクランク(鉤の手)しているみたいだ。

やはり、「御作法」通りなのか。

此処は、宿や関の出入り口に当るので、

(もとより、起源は近世でなく、中世、それも鎌倉中期へ遡り得る)

仮にそうであっても、不思議ではないと想うのだが。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月20日 (日)

鎌倉大仏前の中華料理店

B14041901

一寸、閑話休題を…

今回、鎌倉・極楽寺長谷界隈を探索中に、

大仏前の通りで、気になる中華料理店を見つけた。

幼少期、横浜中華街の裏通りで、父親が贔屓にして、

よく通った店と、同じ名前なのだ。

一度、入ってみたいと想った。

B14041902

土曜の夕方、横浜で落ち合った、振り子さんを無理に誘って、

この店に往った。

中華街の店とは、全く関係が無いと判ったけど、

懐かしい定食=@\1230也 の味はまずまずだった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月19日 (土)

極楽寺坂から長谷観音へ(19)

B14041604

話を「針磨橋」に戻そう。道の向かい側には、古い石碑もある。

中世世界の、この辺りの様子を、一寸想い描いてみた。

極楽寺坂(現在は江ノ電の線路も)と、極楽寺川がなぞる、

谷戸沿いには、非人、乞食、らい者が集住する宿々と、

極楽寺が経営する、施療院、施薬院が在った。

もとより、極楽寺の結界の内である。

その真中を、極楽寺坂(極楽寺道)が通っている。

「針磨橋」が西の境界で、木戸と関所が置かれた。

橋を渡り、鎌倉へ入ろうとする、中世の旅人は、此処で、

関銭(通行税)を取られたはずだ。極楽寺坂を開削したり、

「針磨橋」を架けた費用=勧進を要求されたわけで、

極楽寺は、謂わば徴税権を幕府から付与されていたのだ。

B14041802

橋の袂には、奈良坂のように、非人、乞食、らい者のための、

「乞場」が、設けられたのではないか。

中世の旅人は、関銭の他に、喜捨もせがまれた。

非人たちの中には、針を売る者(針磨)も居ただろう。

いつしか「針磨」は、この橋の名物になり、橋の呼名となる。

現在の極楽寺川は、上掲の如く、護岸と暗渠だ。

B14041801

「針磨橋」の賽の神、楠の古木を見上げる。

さほど大きくないのだが、風格は満点だった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月18日 (金)

極楽寺坂から長谷観音へ(18)

B14041701

針磨橋の周囲、一寸、異な雰囲気が漂っていたので、

手前に数歩退いて、観察してみれば、

気になる古木(右手)があった。

楠のようである(樹木は詳しくない。間違っていたら、ご容赦を)

直ぐ傍の住民の方、二人ばかりにお聞きしたのだが、

こちらに住まわれる、ずっと前からあった木で、

名前は分らないとのことだった。

道の向こう側にもあるよと云われて、カメラ位置を変えると、

B14041702

住宅の石垣から、にょっきりと出ている(右側)

これも、昔からあった木を残して、こんな容になったらしい。

古道を挟むように、二本、対の古木が現存する。

絵に描いたような、「賽の神」の在り様だ。

ここ針磨橋は、西からの鎌倉の入り口であり、

極楽寺坂の峠の登り口である。

ちょうど、想いだしたのは、全く同様なロケーションの、

朝比奈峠の六浦側登り口にあった「かや」の木だった。

あるいは、奈良坂の奈良豆比古神社裏の大楠も…

B14041703

今の古木が中世へ遡るとは、いかないだろうが、

人々が植え続けて、代を重ねたとも、謂っていいのではないか。

極楽寺坂、案外なモノが残っている。

さらに探索を続けよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月17日 (木)

極楽寺坂から長谷観音へ(17)

B14041601

極楽寺坂の古道は、江ノ電と極楽寺川に沿って、谷戸筋を、

稲村ヶ崎方向(西南)へ下っていく。

「極楽寺絵図」に拠れば、道の両側は、

薬師堂、非田院、らい宿、病宿、施薬非田院などの、

らい者、乞食、非人のための施設が軒を並べていたようだ。

その先に、極楽寺川を渡る橋が現われる(絵図では左下か)

今では、見落としてしまうような、とても小さな橋で、

欄干も片側しか残っていないが、極めて意味深な存在なのだ。

B14041602

同じ欄干を反対側から観たところ。右が極楽寺方向だ。

橋の名を「針磨橋」(はりすりばし)と呼ぶ。

聞いたことがあるな。そう、あの「針磨」(はりすり)である。

云い伝えに曰く…昔、この橋の袂に、「針磨」を生業とする、

老女が住んでいた(あるいは、我入道と云う坊主とも)

B14041603

おっと、こんなところに「針磨橋」を示す石柱が…

これも見落とすところだった。

「針磨」と、乞食、非人との関わりの深さは、既に触れたところだが、

さらに、考察を進めて往くことにしよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月15日 (火)

極楽寺坂から長谷観音へ(16)

B14041403

極楽寺に入寺した忍性は、門前を通る極楽寺坂(切り通し道)の、

開削工事も指導したと云われる。

鎌倉草創以来、西方より、鎌倉へ入るには、

稲村ヶ崎、由比ヶ浜の海沿いを辿るのが、

メインルートだったのだが、

鎌倉中期以降は、極楽寺坂を使うようになった。

この道は、謂わば「古東海道」で、

中世世界の西国と東国を結ぶ、大幹線道路であったから、

極楽寺門前は、非常に賑わったていたはずである。

忍性らは、周到な計画を持って、極楽寺と長谷界隈を開発した。

おそらく、モデルとしたのは、奈良坂ではなかったか。

現在の極楽寺坂は、車道となっているが、

ほぼ古道と重なっているようだ。

一寸、想いついたのだが、奈良坂の般若寺のように、

極楽寺坂は、まさに、その名の如く、極楽寺境内の真中を、

取り込まれるように、突っ切っていたのかも知れぬ。

B14041401

江ノ電・極楽寺駅前を過ぎる。

B14041402

ホーム直ぐ下を流れる小河川を、極楽寺川と呼ぶ。

意味深な川なのだが、それは後ほど。

線路と、この川に沿って、古道を稲村ヶ崎方面へ下るとしよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月14日 (月)

極楽寺坂から長谷観音へ(15)

B14041302

鎌倉の谷戸奥では、さらに深部へ進むと、

こんな小径があったりする。おそらく、私道なのだろうが、

想わず誘われそうで、好ましい風情ではある。

B14041303

再び、谷戸の入り口に戻る。

極楽寺山門の並び、江ノ電の長谷側、線路沿いに、

地蔵堂がある。「導地蔵」(みちびきじぞう)と呼ぶ。

この堂も、忍性が極楽寺開山の際に建立し、

運慶作の地蔵像を安置したと伝えられている。

現存の地蔵尊は、室町期のもののようだ。

下に江戸期に作成された「極楽寺絵図」の模写を示す。

B14041301

右側の「東」と記された隣に、前回触れた「新宮社」が観え、

その下方、築地と門を出たところに「地蔵堂」が描かれる。

さて、この後、探索は、絵図の西南方向(左下)へ向かう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月13日 (日)

極楽寺坂から長谷観音へ(14)

B14041201

極楽寺の在る「地獄谷」より、一つ東側の谷戸へ、

足を踏み入れてみた。静かな住宅地である。

B14041202

江戸期に作成された「極楽寺絵図」が伝わっている。

中世、最盛時の、極楽寺の広大な伽藍を示したものだが、

最近の発掘調査と一致する部分が多いので、信憑性は高い。

その中で、「新宮」(=熊野社)と記された堂舎が観えるのが、

この谷戸なのだ。

確かに「新宮」は現存していた。

やがて、谷戸奥に達する。

B14041203

「新宮」は、忍性が極楽寺を開山した際に、

鎮守社として、勧請されたようだ。

真言律宗寺院の鎮守が、熊野社である例は、

金沢文庫の称名寺があるが、その意味については、

別に考察の必要があるだろう。

(捨身 Canon  G1X)

*PC不調に因り、ツイッターへ接続不能になって居ります。

 悪しからず、御諒承下さい。

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2014年4月12日 (土)

極楽寺坂から長谷観音へ(13)

B14041101

極楽寺坂一帯の谷戸を「地獄谷」と呼んだと云う。

周りの尾根には、どんな光景が広がっていたのだろうか。

長谷観音裏手の尾根は、遊歩道が整備されているので、

往時の縁を求めて、一寸登ってみた。

鎌倉市中に、詰まり、重なる家々の屋根、

眼前の海辺に寄せ来る白波が、手に取るように見渡せ、

「勝地」とするに、如何に相応しかったか、よく判る。

B14041102

中世には、五輪塔や板碑が林立していたと想う。

極楽寺の忍性墓所、大仏や長谷観音境内の片隅には、

それらの残欠と想われる石材が集められていた。

かつては、尾根を掘れば、沢山見つかったであろうが、

今では、殆ど出てこないそうだ。

近世に、数寄者の間で人気があったようで、

持ち去られたものが、多かったに違いない。

纏まった発掘調査で、土中深くから、

再び現われる可能性も、あるにはある。

B14040601

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月11日 (金)

極楽寺坂から長谷観音へ(12)

B14041002

山桜の下、忍性の墓所の辺り、もう一寸、寄ってみた。

このくらいが限度だろうか。

ちょうど辿り着いた時間(13時頃)に、墓前で法要が始まっていた。

ひとしきり、僧侶たちの読経を聞き、その後、焼香して、

五輪塔の周りを一巡してきた。高さ約3.5mと云うことで、

やはり、巨大さを実感する。

元箱根の五輪塔の倍は、ありそうだった。

手元の史料に、不鮮明ながら、画像が見つかったので、示しておく。

B14041001

極楽寺の存在は、奈良坂の般若寺と、全く相似形を成している。

南都(奈良)鎌倉という、中世世界の代表的な都市的な場の、

境界地に立地し、幹線道路押さえ、近隣の葬送地、

非人、乞食、らい者の宿々を支配、救済活動を行った…

改めて、中世世界を探索する上で、外せないスポットだと想う。

B14041003

境内に戻る。

現在の極楽寺は、応永32年(1425)の大火で、

殆どの堂塔を失い、往時の数十分の一も無い、細やかさだ。

境内も「撮影中止」なので、この程度の画像でご勘弁を…

B14041004

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月10日 (木)

極楽寺坂から長谷観音へ(11)

B14040901

極楽寺開山・忍性の墓所は、境内後背の西側、谷戸奥に在る。

案内板を辿って、路地を進むと、小学校に出た。

此処から、往時の極楽寺、中心伽藍が発掘されたそうだ。

B14040902

道は、やや登りになる。

現在の極楽寺方向(東側)を、振り返ってみたところ。

正元元年(1259)奈良より、北条家の招請で鎌倉に下っていた、

忍性らによって、念仏寺から再興中だった極楽寺は、

正式に、西大寺・律宗の寺院となる。

堂塔が並び立つ前の、この一帯は「地獄谷」と呼ばれ、

鎌倉西方の境界を占め、大きな葬送地だった。

さながら「餓鬼草紙」のような光景が観られたに違いない。

連なった小さな谷戸には、非人、乞食、らい者の宿々が、

密集していたことだろう。

B14040903

谷戸奥は小学校の校庭だ。

ちょうど、山桜が満開だった。

忍性の墓所は、左手尾根の中腹に、

平場を穿って置かれている。

場所は、中世以来、動いていないようだ。

校庭脇より、小径が続いているのだが、残念ながら、

其処からは、「撮影中止」なので、お伝え出来ない。

(それほど、神経質になることはないと思うのだが)

B14040904

その平場付近をアップする。桜の下辺りだ。

忍性の巨大五輪塔については、次回にでも…

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月 9日 (水)

極楽寺坂から長谷観音へ(10)

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再び、極楽寺門前に立つ。

前に訪れたのは、拙ブログを始めて間もない頃、

まったく人気の無い、初冬だったか。

四月八日は、花まつり=潅仏会で賑わう。

でも、鎌倉市街の寺々よりは、かなり静かだ。

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鎌倉の桜も、終盤だな。

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こぢんまりとした境内を抜けて、寺の裏手へ出る。

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目指すのは、谷戸奥の高みに在る、

開山・忍性の墓所、重文指定の巨大五輪塔である。

何しろ今日は、年に一日だけの、特別公開日でもあるのだ。

早速、歩を進めるとしよう。

(捨身 Canon G1X) 

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2014年4月 8日 (火)

極楽寺坂から長谷観音へ(9)

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大仏前の車道(大仏坂)を隔てた、直ぐ西側の谷戸は、

今は、静かな住宅地を呈しているのだが、

中世では、坂上の極楽寺の、広大な寺域の内だった。

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「桑ヶ谷(くわがやつ)療養所跡」と云う石碑が建っている。

西大寺・律宗の宗祖、叡尊の後続者にして、極楽寺の開山、

忍性は、此処を拠点に、非人・乞食・ライ者・病者の、

救済活動を行っていた。繰り返しになるが、

これは、奈良坂の般若寺と同様である。

弘安七年(1284)忍性は「大仏別当」に任じられた。

鎌倉大仏が、極楽寺の管理下にあったことは明らかだろう。

再び、極楽寺へ戻って、探索を続ける。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月 7日 (月)

極楽寺坂から長谷観音へ(8)

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謎だらけの鎌倉大仏だけど、細部に目をやると、

興味深い事実が拾える。

些細と想われることの中から、

重要な手掛かりが得られることがあるのだ。

例えば、大仏が結ぶ、阿弥陀仏の常印である。

これは、特異な形を示していると指摘されている。

通常は、左右の親指と人差し指の先端を、

輪を作るように、つき合わせるのだが、

大仏のそれは、人差し指を親指の後に入れている。

同じような常印を結ぶ阿弥陀仏像は、非常に少なく、

何れも、北条得宗家関係(伊豆韮山の願成就院)の寺々に、

限られるそうだ。特に関心を引くのは、

百草の尾根の、八幡社の阿弥陀仏も、その例に含まれることだ。

筆者は、百草の尾根を武蔵府中の葬送地と睨んでいるし、

武蔵国は、鎌倉期を通じて、北条得宗家、及び支族(金沢氏)が、

国守、守護を務め、極めて縁が深い。

やはり、大仏には、この一族の影が濃厚に浮かび上がってくる。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年4月 6日 (日)

観桜 2014 (8)

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谷戸奥の、山桜の古木が一寸気になって、覘いてみる。

ほぼ予想通り、満開に近づいていた。

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森も賑やかになって居る。

もう直ぐ新緑か。

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時ならぬ寒風と暗雲…

桜には、ピーカンなんかより、

このほうが、ずっと似合うと想うのだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年4月 5日 (土)

観桜 2014 (7)

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上野、芸大美術館にて、

「観音の里の祈りとくらし展

 ―びわ湖・長浜のホトケたち―」(~4/13)

併せて、東博の「栄西と建仁寺」(~5/18)を観てきた。

上野公園の桜は、既に散り始めている。

…落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜がり(太平記)…

落花…この胸を苛むが如く、記憶どもが過ぎり、

開花…あのわくわく感は、今何処哉…

(捨身 Canon S110)

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2014年4月 4日 (金)

極楽寺坂から長谷観音へ(7)

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鎌倉大仏に関する文献は極めて少ない。

主に吾妻鏡に拠れば、

嘉禎四年(1238)木造の大仏が造り始められ、

寛元元年(1243)頃までには、大仏殿が出来、

建長四年(1252)から、現存の銅製大仏の鋳造が、

開始されたとする。鋳造には、十数年を要したらしい。

勧進聖=浄光なる僧が、広く人々に勧進(寄付)を募ったと云うが、

北条得宗家の、バックアップ無しには考えられないようだ。

使われた銅は、当時、流通していた宋銭を鋳潰したものと

判っている。最初の木像も、

銅仏の鋳型を取った原型だったいう説が有力だ。

中世を通じて、大仏には決まった寺が無く、

この辺りを支配した極楽寺が、別当として、管理していた。

奈良坂でも、中世の東大寺が西大寺・律宗の影響下に、

あったことを想い合わせると、やはり、極楽寺の存在が、

キーワードになりそうだ。

近世に入り、江戸の増上寺が再興して、

浄土宗寺院・高徳院となり、現在に至るわけだが、

その際に建てられた石塔が残っている。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年4月 3日 (木)

観桜 2014 (6)

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桜が観たくて、ひさしぶりにモノレールに乗った。

多摩丘陵の、尾根や谷戸では、ほぼ満開になっている。

山桜も綻び出したようだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年4月 2日 (水)

観桜 2014 (5)

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一寸、閑話休題。

満開が近づいている。

鎌倉長谷で、観桜と洒落込もうか。

(捨身 Canon G1X)

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2014年4月 1日 (火)

極楽寺坂から長谷観音へ(6)

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「大仏坂」は、大仏前を右手に観て、北西より、

藤沢方面へ抜ける峠越えだ。

切り通し道になっているが、中世では記録が残っていない。

現存の古道は、近世に拓かれたようだ。

大山参詣道(大山―江ノ島―藤沢遊行寺―鎌倉―金沢)の、

ルートの一つだったかもしれない。

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今は、交通量の多い車道で、トンネルが峠を潜る。

大仏門前には、近世に建てられた石柱があった。

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折角だから、大仏を観て往こう。

幼少期以来だけど、このアングルだけが記憶に残っている。

改めて、見上げてみると、悪くない。

そうか、「国宝指定」だったのだな。

鎌倉大仏は謎だらけである。一寸、そのことに触れる。

(捨身 Canon G1X)

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