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2014年5月 7日 (水)

極楽寺坂から長谷観音へ(36)

B14050601

浄光明寺後背、三段目の平場を見下ろす。

かつて、地蔵堂が在った場所だ。

祀られていた地蔵菩薩立像は、現存していて、

足利直義の念持仏だったと云う。

創建時、この寺は西大寺律宗の影響下にあり、

(現在は真言宗で、禅・浄土・華厳・律宗の兼学)

北条一族・赤橋家の菩提寺だった。

最後の執権・赤橋守時は、足利尊氏の妻・登子(とうこ)の実兄、

その縁で、鎌倉滅亡後も、足利家の厚い庇護を受けていたようだ。

後に尊氏が、後醍醐天皇に反旗を翻すかどうかで、

逡巡、引き籠った寺でもある。

B14050602

上掲の如く、眺望の良さから、「勝地」なのは疑いなく、

一角の人物が墓所を設けるに、相応しい場所だ。

斜面に穿たれたやぐらには、多数の五輪塔が残る。

もとより、今となっては、主も判らない。

B14050603

頂上に辿り着いた。

二番目の墓参り先、冷泉為相(れいぜいためすけ)墓所だ。

阿仏尼の次男にして、定家の孫、歌道家・冷泉家の祖である。

母、阿仏尼の死後、訴訟を受け継ぐために鎌倉に下向、

以後、京鎌倉を往復しながら、当寺近くの藤ヶ谷に棲み、

嘉暦二年(1328)鎌倉で没したようだ。

立派な宝きょう印塔で、ほぼ同時代、南北朝期の様式を示す。

B14050604

彼の墓所から、鎌倉の町と海を臨む。

羨ましいくらいの立地だ。

そうだ、中世都市・鎌倉にとっての此岸、

由比ヶ浜へ往ってみたくなった。

(捨身 Canon G1X)

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コメント

4月の皆勤賞おめでとうございます(花◎)
ここが浄光明寺なんですね。ほんとに写真を見ているだけでも、心休まる場所に思えてきます。
噂の地蔵菩薩立像、奈良博で拝見してきました。直義を窮地から救ったことから「矢拾地蔵」とも呼ばれていると解説にありました。そんな言い伝えのイメージとはちょっと違って、高貴な風貌とスマートなたたずまいに優美な裳裾がなまめかしく、ドキッとしました。
截金がまたすばらしくて、ちどり?もちりばめられていて、みやびなお地蔵さまでした。
図録の表紙を飾るのも、このお寺の観世菩薩坐像ですよ。こちらも斜めな視線がたまりませんものね^^

投稿: 糸でんわ | 2014年5月 7日 (水) 07時40分

有難う御座います。
もとより、よろめきながらの仕儀ではあります。
矢拾地蔵様も奈良へご出張でしたか。一寸お顔を拝したかったのですが…
今、鶴岡八幡宮境内の鎌倉国宝館が夏まで、大規模修繕中で休館しているのです。
それで、鎌倉中の仏たちが、大挙ご出張のわけなのですね。
浄光明寺はお勧めスポットですよ!

投稿: kansuke | 2014年5月 8日 (木) 10時40分

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