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2014年5月 8日 (木)

極楽寺坂から長谷観音へ(37)

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鎌倉の海辺へ出るのは、何年ぶりか。

いや、はっきりとした記憶が無いから、遠い幼少期の何時かだろう。

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頬を撫でる海風と、潮の香りは変わることがない。

長谷の浜から始めよう。

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極楽寺坂、稲村ヶ崎、江ノ島方向を望む。

ちょうど引き潮である。

浜歩きには、お誂え向きの時間だ。

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極楽寺坂の、稲村ヶ崎へ突き出した尾根は「霊仙山」と云う。

極楽寺絵図に拠れば、この山も極楽寺の結界の内で、

頂上付近に平場が穿たれ、

堂舎と石塔・板碑が林立していたらしい。

坂に面した側は、防備施設が築かれ、元弘三年(1333)の、

鎌倉攻めの際には、激戦が繰り広げられたはずだ。

もとより、眺望の良さを生かして、

鎌倉の浜に造られた湊「和賀江津」(わかえのつ)へ入港する、

「唐船」(からふね)の見張りが行われていたであろう。

極楽寺は、由比ヶ浜の「殺生禁断権」および、

「和賀江津」の「津料」(入港税)徴収権と管理権を、

中世を通じて保持していた。

鎌倉が賑わっていた室町中期、享徳の乱前後までは、

「唐船」の入港は頻繁であったろうから、莫大な利権である。

鎌倉の浜(前浜と呼ばれた)は、極楽寺の完全なテリトリーだった。

極楽寺の僧と、配下の非人たちが、浜を絶えず見回り、

闊歩していたと想う。もし「殺生禁断」を破る密漁者を見つけたら、

容赦なき、私刑を担当するも、非人たちなのだ。

(捨身 Canon G1X)

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コメント

当時の極楽寺の勢力の大きさの背景と雰囲気ががわかりました。今は海のスポーツや貝をとったり?浜辺の漁具のある風景など、なんとものどかですが。

投稿: 平野 | 2014年5月 7日 (水) 23時36分

調べれば、調べるほど、叡尊、忍性らの西大寺真言律宗の実力に驚いておりますね。財力、政治力、組織力、技術力…どれをとっても、中世世界では無視出来ない、巨大組織です。でも、近世に入ると、見る影もなく衰微してしまうのです。往時を偲ぶ縁は、ほぼ何も残っていません。仰る通り、実に長閑な浜辺の光景でした。

投稿: kansuke | 2014年5月 8日 (木) 10時51分

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