« 極楽寺坂から長谷観音へ(37) | トップページ | 極楽寺坂から長谷観音へ(39) »

2014年5月 9日 (金)

極楽寺坂から長谷観音へ(38)

B14050705

中世初期の由比ヶ浜は、かなり地形が異なっていた。

その再現地図を掲げる。

海岸線は、現在より内陸にあった。

二つの河口には、ラグーン(潟湖)が形成され、船入りが出来た。

位置がちょうど、長谷と若宮大路・一の鳥居の前辺りなのが、

興味深い。鎌倉の人口が増えるにつれて、

次第に、堆積物で河口と潟湖が埋まり、

船の着岸が困難になっていったようだ。

貞永元年(1232)北条氏や勧進聖らによって、

伊豆より運んだ石材で、桟橋になる人工島が造られた。

これが「和賀江津」である。

この湊は、近世まで使われ、明治期以降は解体されて、

現状は、引き潮時に現れる浅瀬になっている。

長谷の浜から観ると、湾の向こう岸だが、

まず、其処まで往ってみることにした。

B14050802

湾のほぼ中央、滑川河口(右側)を越えて、

長谷・極楽寺坂方向を振り返る。

B14050803

これから向かう、小坪・逗子方向。

「和賀江津」は、岬の一寸手前だ。

B14050801

もう、初夏の海岸の風情哉…

(捨身 Canon G1X)

|

« 極楽寺坂から長谷観音へ(37) | トップページ | 極楽寺坂から長谷観音へ(39) »

歴史(中世史)」カテゴリの記事

コメント

ラグンーンがあったのですか。海上交通が活発だったことがそれでわかります。海の側にある鳥居の位置と向きはは大事ですね。

投稿: 平野 | 2014年5月 9日 (金) 20時10分

今でも、浜近くの地面は砂に覆われています。砂丘状の地形が残されていたのでしょう。鎌倉にとって、海は南面へ開いています。所謂、補陀落浄土=観音浄土に相対する形です。長谷観音も海上交通の守護神の文脈で捉えられると想いました。

投稿: kansuke | 2014年5月10日 (土) 23時26分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 極楽寺坂から長谷観音へ(37) | トップページ | 極楽寺坂から長谷観音へ(39) »