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2014年5月10日 (土)

極楽寺坂から長谷観音へ(39)

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「和賀江津」(和賀江嶋)が観えて来た。

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近づくと、こんな人頭大の丸石がごろごろとしている。

貞永元年(1232)勧進聖・往阿弥陀仏の指導で、

築港が始まった時、伊豆海岸や、相模川、酒匂川の河原から、

船で運ばれたのである。

清盛の福原の津のように、まず、大量の石が海中に沈められ、

それを基礎に、海岸から通路で結ばれた島状の桟橋が、

築かれたのであろうか。

吾妻鏡に拠れば、七月十五日から八月九日までの、

たった一ヶ月で、完成したようだから、

大変な突貫工事だったのだ。

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意外に広大で、丸石のせいで歩くのが大変だ。

石をひっくり返して、何か探している人たちがいる。

聞いてみたら、アサリだそうだ。そんなに獲れるのか。

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「和賀江津」跡を示す、石碑が立つ。

浜を彷徨って、改めて認識したけれど、中世都市鎌倉は、

海に向けて、常に大きく、間口を開いていたのだ。

もとより、山側の極楽寺坂や六浦道は重要だったが、

時に縁って、城砦となり、閉じられてしまうことがある。

由比ヶ浜は、この世とあの世の境界であると同時に、

海外へ繋がる道の起点でもあったわけだ。

東大寺大仏の再建に当った宋人技術者、陳和卿が、

将軍・実朝のために造った「唐船」は、ついに浮かばず、

この浜で朽ち果てたと云う。

今も、その遺跡が砂中深く、埋まっているのではと、

ふと、妄想してしまう。

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(捨身 Canon G1X/S110)

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