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2014年5月22日 (木)

富士吉田口へ(5)

B14052002

「御師・外川家住宅」の門前まで来た。

御師の屋敷は、門と玄関を構えることを許されていた。

これは、御岳山の場合と同じである。

ここで、御師宿の由緒に触れておこう。

宿が立てられたのは、元亀三年(1572)と云う。

この年は、年末に三方ヶ原の戦いがあり、

前年には、信長の比叡山焼き討ち、

翌年の元亀四年に、武田信玄が没している。

それ以前の御師宿は、前々回にアップした地図に拠れば、

やや東より、富士山―浅間社―御宿の軸線(本来の参道)上に、

展開していた。まさに富士を真正面に望んでいたわけである。

その場所を「古吉田」(ふるよしだ)と呼んでいる。

あるいは「新宿」に対する「元宿」と呼んだかもしれない。

移転の理由には、こんなことが伝わっている。

往古より、富士の裾野では、春先の雪解けによる、

土石流=「雪代」(ゆきしろ)が恐れられてきた。

「古吉田」は「雪代」が襲って来る沢筋に当たっていたからだと。

然りであろうが、背景もあったはずである。

戦国期では「新宿」を立てるに、領主の意向が強く反映された。

「関銭」(=通行税)を取る関所の存廃に関わるからだ。

当地は、武田家重臣の小山田氏領だが、武田家にとっても、

爆発的に増え始めた、甲相国境を越えて来る、

富士信仰の「道者」(登拝巡礼者)が落とす「関銭」を、

無視出来ず、積極的に後押しをしたのではないかと想われるのだ。

大規模な遠征が続き、何かと物入りが多かった武田家だ。

信玄も、有望な現金収入源として、直裁したのではないだろうか。

B14052003

門内へ入ろう。

現状、屋根は、鉄板覆葺になっているが、

元は、ベアトの古写真(前々回アップ)の様に、置石板葺きだった。

B14052101

格式の高い「式台玄関」だ。

上がって、表の「龍道」と「富士道」を振り返り、

屋敷内に進む。

(捨身 Canon G1X)

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民俗」カテゴリの記事

コメント

「雪代」はこちらでは聞かないので調べましたら、富士山から東北にかけて使う言葉で、甚大な被害をもたらす災害があったということを知りました。宿移転の背景の考察、災害と町づくり、富士山登拝の庶民への広がりも伺えて興味深いです。

投稿: tae | 2014年5月22日 (木) 20時16分

最近は河川改修が進み、少なくなったようですが、生々しい記憶を語ってくれた方がいました。今年二月の大雪は、市内でも2メートルを越えたので、五合目以上の様子が判らず、まだ、とても心配だとも。地元では富士を畏怖する気持ちが、今でも強いのですね。

投稿: kansuke | 2014年5月23日 (金) 12時35分

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