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2014年5月の記事

2014年5月31日 (土)

富士吉田口へ(14)

B14053005

ここで、御師宿の、東側の結界を一寸外れて、

元亀三年(1573)の移転前に、宿があったと云う、

「古吉田」を覘いていこう。

その前に、「町割り復元図」の左側、やや下、

結界の括れた部分を確かめてみると(上)

不自然なL字カーブになって、ちゃんと残っていた。

B14053001

さて、辿ってきた道を戻り、地蔵堂墓地の脇道へ入る。

ほぼ、富士の軸線に沿ってきた。

B14053002

まず左手、木立に小社「中宿山神社」(なかじゅく・やまのかみ)だ。

祀るのは、大山祇神(おおやまつみのかみ)

つまり、大三島=三島明神である。

「市」も想起させるが、所伝では、元禄年間創建となっている。

「中宿」だから、まだ結界の内なのか。

B14053003

傍らに、また巨樹、今度は榎(えのき)だ。

やはり、樹齢数百年は越えそうだ。

大榎の直ぐ下を流れるのは「間堀川」

富士北麓の沢筋を源流とするが、江戸期には「村間堀」と呼ばれ、

宿の、外堀の役割を果たし、用水の取水源にもなっている。

此処が、本当の東側の結界だろう。

橋を渡った向こう側、吉田小学校のピンク色の、

建物辺りからが、「古吉田」=元宿だったわけだ。

B14053004

「間堀川」が護岸化されたのは戦後である。

それまでは、春先になると、「雪代」(ゆきしろ)が走り抜ける、

暴れ川だったのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月30日 (金)

富士吉田口へ(13)

B14052901

境内で、新緑の桜木立に包まれる。

春は饗宴だろうな。

B14052902

周りは、田植えの済んだ田圃ばかりだ。

水面を渡る風と雲、清か哉。

富士の軸線へ、一層近づく。

B14052903

今辿った道を、ふと観遣ると、向こう側にまた木立が。

往ってみよう。

B14052904

石灯籠、墓石、板碑…

立派な「屋敷墓」だ。

御師家のものだろうか。

江戸中期までの銘は読めたが、あとは判読不能だった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月29日 (木)

富士吉田口へ(12)

B14052801

欅のようだ。やはり、樹齢数百年は越えるだろう。

その下に、地蔵堂があった。

臨済宗の寺になっているが、

御師宿が立てられて、間も無くの、天正五年(1577)創建と記す。

B14052802

当地は、屋敷墓が多いのだが、地蔵堂の裏には、

墓域が広がる。宿結界の、外縁なので、

葬送地だった可能性もあるか。

B14052803

地蔵堂を過ぎると、また、木立ちが観えて来た。

ちょうど、宿の軸線の、中間点辺りだろうか。

B14052804

「根神社」(ねのじんじゃ?)と呼ぶ。

一寸面白い伝承がある。

元亀元年(1571)古吉田から、御師宿が移って来るに先立ち、

欅の切り株に、大国主命を祭った所だと云うのだ。

宿を立てるに際して、土地の地主神を鎮め、

あらためて、宿の守り神=宿神を祀ったのかもしれぬ。

所謂、宿の鎮守だ。

境内の中へ入って往こう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月28日 (水)

富士吉田口へ(11)

B14052701

御師宿の西側結界に沿って走る道だ。

暫し、この道を辿る。

富士の軸線へ、やや寄ってきたか。

人も車も殆ど通らず、静かな風情哉…

B14052702

表通りに向けて門を開いている、細長い御師屋敷を、

奥庭から、窺えるわけで、一寸ワクワクする。

屋敷林にぶつかった。

B14052703

畑もある。

御師屋敷は、奥庭に小規模な耕作地を持ち、収穫した作物を、

講中の食膳や、自家用に供していたようだ。

もとより、このような狭さでは、専業農家とは謂えまい。

中世世界より、様々な生業の人々が、本業の傍ら、

在所脇の、僅かばかりの田畑を耕してきた。

この感覚を「百姓」と云う、本来の意味から外れた、

言葉で一括りにしてしまうのは、乱暴極まりないと想う。

歴史家・網野善彦氏が提唱し続けてきたことを改めて覚える。

手前、木の根元に、正体不明の古びた石柱を見つけた。

ひょっとしたら、宿の結界を示した、

「榜示石」(ぼうじいし)かもしれぬ。

御師宿では、土塁と空堀跡を認めたと云う、未確認情報もあり、

何に遭遇するか判らないのだ。

B14052704

新緑が眩しい。

今度は、巨木が観えて来た。

近づいてみよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月27日 (火)

富士吉田口へ(10)

B14052601

再び、御師宿の入り口「金鳥居」前に戻る。

此処から、宿西側の結界(町割り図参照)に沿って、

探索してみよう。

山中湖方面から来る古道との交差点である。

江戸期までは、鳥居は木製で、位置も20m位手前だった。

鳥居の傍らに、案の定、宿へ入る旅人から「関銭」を取る、

関所が、元亀三年(1572)以来、設けられていたようだ。

それも、運営していたのは「時衆」だと伝える。

これは、由々しき問題なので、後ほど詳述せねばなるまい。

横断歩道を渡ったところに、古い道標が立つ。

B14052602

「右ハ江戸ミち」「左ハ甲州ミち」と読めた。

左面に「元文五年十一月」(1740)

右面に「庚申供養」と刻まれる。

古道も、江戸期には、甲州道中の間道として、

使われたようだ。

このまま、山中湖、道志村、津久井方面へ抜け、

相模原市の橋本宿に至り、町田から来る、大山道と合流したのか。

富士登拝と大山詣りは、

屡々、セットで行う習いだったと云われるが、頷けるわけだ。

B14052603

古道を山中湖方向へ一寸進み、直ぐ右折して、

宿の裏道へ入って往く。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月26日 (月)

富士吉田口へ(9)

B14052501

御師・外川家の先祖は、元亀三年(1572)宿が立てられた際に、

「古吉田」から移ってきた、草分けの一人だ。

その時のメンバーを「本御師」と呼ぶ。

彼らの屋敷は「龍道」を備え「富士道」の奥に構えられた。

その後「御師株」を手に入れ、御師を開業した者は、

「町御師」と呼ばれ、「富士道」に面して屋敷を構えた。

明確な「格」があったのである。

夫々の家には屋号があり、「受領名」を名乗って、代々襲名した。

外川家の場合、屋号は「塩屋」(しおや)

「受領名」は「能登守」(のと)だった。

最盛期の幕末から明治にかけて、宿の御師屋敷は、

八十軒を越えたと云う。

B14052502

外川家の門を入ったところに、小さな滝が設えてある。

宿内を流れる用水から、引き入れたもので、

宿泊した講中の人々が「水垢離」を行い、

屋敷の生活用水にも使われた。

三本の用水が残り、富士湧水群が水源のようだ。

流路も確認しているので、後ほど詳述する。

B14052503

さて、外川家を出て、宿内の探索を続けよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月25日 (日)

富士吉田口へ(8)

B14052401

裏座敷の上段の間から、屋敷最奥部を覗く。

園池と竹林、屋敷神の稲荷社が祀られ、屋敷墓があった。

実に不思議な空間で、ある種、神聖さも漂う。

注連縄が張られた古木は、高野槙だ。

樹齢200年は越えると云うが、ひょっとしたら、

この宿が立てられた、元亀三年(1572)まで遡るかもしれない。

高野槙は水に強く、船材、桶材、橋梁材 棺材等に用いられたが、

御師・外川家の、先祖出自の記憶を留めているような気もする。

B14052402

宝珠と打出の小槌を象った、座敷の釘隠し。

講中の寄進によるものだ。

B14052403

食膳の什器類。

飯茶碗に、講中の印しがあしらわれる。

これらも、講中の寄進により、誂えられた。

食事は、専門の料理人が作り、

江戸期までは、精進料理が中心だったようだ。

B14052404

風呂場は、主屋の坪庭に面したところにあった。

近代に入って、タイル張りに改装されている。

昭和三十年代後半まで、現役だったのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月24日 (土)

富士吉田口へ(7)

B14052301

主屋と裏屋敷を結ぶ、渡り廊下の部分は括れており、

坪庭になっている。

その周りを、コの字状に廻る広縁は、長旅を経て、

到着した講中の人々が、足を洗うのに使われたそうだ。

B14052302

裏屋敷側の広縁から、主屋を観る。

B14052303

広縁は奥の、上段・下段の間へ導く。

床を一段上げ、床の間、付書院を備えた、VIP専用の客室だ。

B14052304

その手前に広間と、御師屋敷で一番、重要な場所、

富士の神霊を祀った「御神前」(ごしんぜん)があった。

講中の人々は、まず、御師の介添えで、祭壇の前に坐し、

一同、祝詞や御神歌を唱和したのだった。

左側に祀られる坐像は、富士講の開祖と云われた行者、

「食行身禄」(じきぎょうみろく)である。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月23日 (金)

富士吉田口へ(6)

B14052201

いよいよ、「御師・外川家住宅」の内部を観て往くのだが、

その前に、二点、誤りが見つかったので、訂正したい。

まず、投稿(3)でアップした地図上で、下方、浅間社前を、

東西に横断する国道138号線を、中世古道と重なるとしたが、

古道は、地図上方「金鳥居」前を東西に横断する、

国道137号線と、ほぼ重なるのが正しい。

次に、浅間社から真っ直ぐ北上する道を、本来の参道としたが、

この道は新しいもので、かつては存在しなかった。

御師宿を抜ける「富士道」は、浅間社前で、既述のように、

東側へ「筋替」し、直接、境内へ入っていたのである。

元の「御師宿」が在った「古吉田」の位置は変わらないが、

それは、吉田小学校辺りで、東西方向へ展開していたらしい。

「古吉田」は未調査で、不明な点も多いと云うことだ。

いずれも、現地を探索しているので、後ほど詳述する。

さて「外川家住宅」へ戻ろう。

玄関左側の「中の口」(捨身上)は、普段の出入口だ。

式台玄関は、富士講の指導者「先達」や、

「御師」「宿名主」たちしか使えない決まりだった。

B14052202

玄関の間の天井。

此処から、明和五年(1768)銘の棟札が発見され、

主屋の建造年代が知れた。

御師宿では、現存最古級の御師屋敷であり、重文指定である。

B14052203

主屋の座敷から、玄関を観る。

玄関の間、中の間、座敷と三間続きだ。

B14052204

渡り廊下を通って、さらに奥の「裏座敷」へ向かう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月22日 (木)

富士吉田口へ(5)

B14052002

「御師・外川家住宅」の門前まで来た。

御師の屋敷は、門と玄関を構えることを許されていた。

これは、御岳山の場合と同じである。

ここで、御師宿の由緒に触れておこう。

宿が立てられたのは、元亀三年(1572)と云う。

この年は、年末に三方ヶ原の戦いがあり、

前年には、信長の比叡山焼き討ち、

翌年の元亀四年に、武田信玄が没している。

それ以前の御師宿は、前々回にアップした地図に拠れば、

やや東より、富士山―浅間社―御宿の軸線(本来の参道)上に、

展開していた。まさに富士を真正面に望んでいたわけである。

その場所を「古吉田」(ふるよしだ)と呼んでいる。

あるいは「新宿」に対する「元宿」と呼んだかもしれない。

移転の理由には、こんなことが伝わっている。

往古より、富士の裾野では、春先の雪解けによる、

土石流=「雪代」(ゆきしろ)が恐れられてきた。

「古吉田」は「雪代」が襲って来る沢筋に当たっていたからだと。

然りであろうが、背景もあったはずである。

戦国期では「新宿」を立てるに、領主の意向が強く反映された。

「関銭」(=通行税)を取る関所の存廃に関わるからだ。

当地は、武田家重臣の小山田氏領だが、武田家にとっても、

爆発的に増え始めた、甲相国境を越えて来る、

富士信仰の「道者」(登拝巡礼者)が落とす「関銭」を、

無視出来ず、積極的に後押しをしたのではないかと想われるのだ。

大規模な遠征が続き、何かと物入りが多かった武田家だ。

信玄も、有望な現金収入源として、直裁したのではないだろうか。

B14052003

門内へ入ろう。

現状、屋根は、鉄板覆葺になっているが、

元は、ベアトの古写真(前々回アップ)の様に、置石板葺きだった。

B14052101

格式の高い「式台玄関」だ。

上がって、表の「龍道」と「富士道」を振り返り、

屋敷内に進む。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月21日 (水)

富士吉田口へ(4)

B14052004

前回、紹介した「御師宿町割り図」に、補足説明が要る。

一番下「下宿」手前の鳥居が、宿の入り口で、

現在「金鳥居」(捨身上)と呼ばれているところだ。

其処が「結界」の始まりである。

一番上「上宿」の先、現状は、鎌倉道(国道138号)と、

T字状に交わると謂ったが、「町割り図」に拠ると、

大きく左にクランクしているのが見て取れる。

其処か、「結界」の終わりで、おそらく、その後、

「鎌倉道」と称される中世古道と合流していたのだろう。

まさに、恒例の「宿のお約束」通りの構成なのであった。

筆者は、宿の前後に設置されるクランクを、

「極楽寺坂」より、「筋替」(すじかえ)と呼ぶことにしていた。

意味するところも、単なる軍事施設と云うより、

宗教的な「結界」ではないか?と、してきたのだけれど、

今回も、その想いをさらに強めることになったわけだ。

さて、御師宿には、御師屋敷群が現存している。

「御師・旧外川家住宅」が公開中で、見学可能だ。

B14051904

このように、表の「富士みち」から、50mほど奥まったところに、

屋敷が構えられている。門に至るまでの小径を、

「龍道」(たつみち)と呼ぶ。当地の御師屋敷の特徴だ。

「外川家住宅」(捨身上)の場合、隣が空き地で、

一寸判りに難いので、別の屋敷の例を示す。

B14052001

「龍道」へ足を踏み入れてみよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月20日 (火)

富士吉田口へ(3)

B14051901

富士急・富士山駅から、今回の探索地、御師集落を経由して、

北口本宮富士浅間社へ至る地図を示す。

駅の右側、中央の真っ直ぐな道が、甲州道中の大月から、

分かれて、御師集落を抜ける参詣道=「富士みち」で、

下方で、国道138号線とT字に交わる。さらに右下、

その道に沿って、緑色に塗られたところが浅間社である。

現在の国道は、屡々、古道と重なることが多いが、

この場合、139号が相模国・橋本宿から来る中世古道と重なり、

最終的には、河口湖を経て、御坂峠を越え、

甲府盆地の石和御厨(笛吹市)に達する。

そんな訳で、当地、富士吉田は、複数の古道が交差する、

要地で、中世世界では、相当な都市的な場だったことが、

想定出来るのだ。

いや、一寸面白くなってきか。

B14051902

次に、御師集落の町割り再現図を示す。

「富士みち」の両側に御師屋敷が、町屋様の短冊地で、

配置されている。この町割り、まさに「宿」そのものなのだ。

実際、浅間社寄りの上方から「上宿」「中宿」「下宿」の地名が、

現存しているし、「結界」の設定も見て取れる。

B14051903

素晴らしい史料もあった。

幕末期の、例のベアトの古写真だ。

「御師宿」(以下、そう呼びたい)を「富士みち」上から、

浅間社方向へ、観上げたものだろう。

昨日アップした二番目の捨身と、ほぼ同じアングルと謂っていい。

非常に薄くて、判り難いが、此処でも、

背景に、やや左に軸が逸れた、富士のシルエットが窺える。

(捨身 Canon S110)

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2014年5月19日 (月)

富士吉田口へ(2)

B14051801

「富士山駅」に着いたのは、正午過ぎだった。

腹ごしらえに「吉田うどん」を食す。

コシの強い太麺、醤油と味噌をブレンドした付けつゆ、

評判通り、パンチの効いたうどんで、腹持ちがよさそうだ。

稲作に不向きな地勢で、小麦からうどんを製する土地柄は、

八王子の山沿いからはじまり、甲府盆地に達するものだ。

そのエリア内でも、麺の細太、コシ、付けつゆに、

差異があって、食べ比べてみるのも、一興だと想う。

B14051802

さて、探索を開始しよう。

駅近くから、「北口本宮富士浅間神社」へ向かう、

真っ直ぐな道が通じている。現在は国道138号線になっているが、

かつては「富士みち」と称する、参詣道だった。

とりあえず、この道を辿っていく。

正面に富士山を望むが、実は、軸がやや左へ外れている。

些細なことのようだが、意外な重大性を孕むので、

後ほど、触れねばならない。

B14051803

道の両側に広がる集落を、

「御師(おんし)宿坊の町並み」あるいは「御師町」と呼んでいる。

つまり、古道沿いに発達した「御師集落」である。

「御師集落」は、昨夏、御岳山上でも、探索したけれど、

当地は、大分性格が異なっており、興味が尽きないのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月18日 (日)

富士吉田口へ(1)

B14051701

中央線の各駅停車に乗って、新緑の小仏峠を越えた。

昨秋に探索した、駿河側、富士山本宮浅間社の、

締め括りとして、今度は甲州側、北口本宮富士浅間社を、

探索しようと想い立ったのだ。

同時に、甲州探索への、手始めでもある。

B14051702

大月で、富士急に乗り換える。

因みに、後方左の岩山は、戦国期の武田氏の山城址、岩殿城だ。

中央線の車窓から、よく観えるので、気になっていた。

機会があれば、探索してみるのも一興だろう。

B14051703

富士裾野の田圃は、既に水が入り、田植えが始まっていた。

一年で、最良の季節だろうな。

B14051704

最寄の富士吉田駅へ向かう。

否、今では「富士山駅」と云うのか。

一寸、戸惑ってしまったけれど、富士急に乗るのは、

学生時代のゼミ合宿以来だ。

夏休みと山開きで、車内立錐の余地が無かったと記憶する。

今日は席も空いて、快適だった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月17日 (土)

日々の写真 5/16

B14051602

2013年 六月上旬 八王子・鑓水にて

今年も、もうすぐ、谷戸田に水が入る季節だ。

(捨身 ライカCL Mロッコール40㎜F2 TRI-X) 

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2014年5月11日 (日)

極楽寺坂から長谷観音へ(40)

B14051001

今回の探索、いつの間にか、40回目の投稿を数える。

後から後からと、様々な課題出できて、斯様な仕儀となった。

とりあえず、一区切りとしよう。

B14051002

かつて、この浜では、宋元時代の青白磁や、

国内産の中世古陶の破片を拾うことが出来た。

今、見つけるのは至難である。

それでも、目に付いたものを拾ってみた。

青白磁と常滑の小片のようなのだが、

もとより、鑑定法を知っているわけでもなく、

頗る怪しげなものばかりだ。

少し気を入れて、中世陶磁を勉強せねばならぬな。

B14051003

波打ち際より、一寸入ると、小さな砂丘のような感じになる。

往時、この一帯が、ラグーン(潟湖)を呈していたと云うのも、

首肯出来るだろう。

由比ヶ浜は、山側の坂々(切通し)の「地獄」同様、

境界地であり、葬送地、処刑地でもあった。

実際、海岸沿いの砂地の発掘で、

数千人分の中世人骨が出土している。

ちょうど、極楽寺坂が、奈良坂に見立てられた如く、

京の三条河原がイメージされよう。

これからも、重要なテーマとなり得るので、

折に触れ、掘り下げていく。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月10日 (土)

極楽寺坂から長谷観音へ(39)

B14050901

「和賀江津」(和賀江嶋)が観えて来た。

B14050902

近づくと、こんな人頭大の丸石がごろごろとしている。

貞永元年(1232)勧進聖・往阿弥陀仏の指導で、

築港が始まった時、伊豆海岸や、相模川、酒匂川の河原から、

船で運ばれたのである。

清盛の福原の津のように、まず、大量の石が海中に沈められ、

それを基礎に、海岸から通路で結ばれた島状の桟橋が、

築かれたのであろうか。

吾妻鏡に拠れば、七月十五日から八月九日までの、

たった一ヶ月で、完成したようだから、

大変な突貫工事だったのだ。

B14050903

意外に広大で、丸石のせいで歩くのが大変だ。

石をひっくり返して、何か探している人たちがいる。

聞いてみたら、アサリだそうだ。そんなに獲れるのか。

B14050904

「和賀江津」跡を示す、石碑が立つ。

浜を彷徨って、改めて認識したけれど、中世都市鎌倉は、

海に向けて、常に大きく、間口を開いていたのだ。

もとより、山側の極楽寺坂や六浦道は重要だったが、

時に縁って、城砦となり、閉じられてしまうことがある。

由比ヶ浜は、この世とあの世の境界であると同時に、

海外へ繋がる道の起点でもあったわけだ。

東大寺大仏の再建に当った宋人技術者、陳和卿が、

将軍・実朝のために造った「唐船」は、ついに浮かばず、

この浜で朽ち果てたと云う。

今も、その遺跡が砂中深く、埋まっているのではと、

ふと、妄想してしまう。

B14050905

(捨身 Canon G1X/S110)

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2014年5月 9日 (金)

極楽寺坂から長谷観音へ(38)

B14050705

中世初期の由比ヶ浜は、かなり地形が異なっていた。

その再現地図を掲げる。

海岸線は、現在より内陸にあった。

二つの河口には、ラグーン(潟湖)が形成され、船入りが出来た。

位置がちょうど、長谷と若宮大路・一の鳥居の前辺りなのが、

興味深い。鎌倉の人口が増えるにつれて、

次第に、堆積物で河口と潟湖が埋まり、

船の着岸が困難になっていったようだ。

貞永元年(1232)北条氏や勧進聖らによって、

伊豆より運んだ石材で、桟橋になる人工島が造られた。

これが「和賀江津」である。

この湊は、近世まで使われ、明治期以降は解体されて、

現状は、引き潮時に現れる浅瀬になっている。

長谷の浜から観ると、湾の向こう岸だが、

まず、其処まで往ってみることにした。

B14050802

湾のほぼ中央、滑川河口(右側)を越えて、

長谷・極楽寺坂方向を振り返る。

B14050803

これから向かう、小坪・逗子方向。

「和賀江津」は、岬の一寸手前だ。

B14050801

もう、初夏の海岸の風情哉…

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月 8日 (木)

極楽寺坂から長谷観音へ(37)

B14050701

鎌倉の海辺へ出るのは、何年ぶりか。

いや、はっきりとした記憶が無いから、遠い幼少期の何時かだろう。

B14050702

頬を撫でる海風と、潮の香りは変わることがない。

長谷の浜から始めよう。

B14050703

極楽寺坂、稲村ヶ崎、江ノ島方向を望む。

ちょうど引き潮である。

浜歩きには、お誂え向きの時間だ。

B14050704

極楽寺坂の、稲村ヶ崎へ突き出した尾根は「霊仙山」と云う。

極楽寺絵図に拠れば、この山も極楽寺の結界の内で、

頂上付近に平場が穿たれ、

堂舎と石塔・板碑が林立していたらしい。

坂に面した側は、防備施設が築かれ、元弘三年(1333)の、

鎌倉攻めの際には、激戦が繰り広げられたはずだ。

もとより、眺望の良さを生かして、

鎌倉の浜に造られた湊「和賀江津」(わかえのつ)へ入港する、

「唐船」(からふね)の見張りが行われていたであろう。

極楽寺は、由比ヶ浜の「殺生禁断権」および、

「和賀江津」の「津料」(入港税)徴収権と管理権を、

中世を通じて保持していた。

鎌倉が賑わっていた室町中期、享徳の乱前後までは、

「唐船」の入港は頻繁であったろうから、莫大な利権である。

鎌倉の浜(前浜と呼ばれた)は、極楽寺の完全なテリトリーだった。

極楽寺の僧と、配下の非人たちが、浜を絶えず見回り、

闊歩していたと想う。もし「殺生禁断」を破る密漁者を見つけたら、

容赦なき、私刑を担当するも、非人たちなのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月 7日 (水)

極楽寺坂から長谷観音へ(36)

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浄光明寺後背、三段目の平場を見下ろす。

かつて、地蔵堂が在った場所だ。

祀られていた地蔵菩薩立像は、現存していて、

足利直義の念持仏だったと云う。

創建時、この寺は西大寺律宗の影響下にあり、

(現在は真言宗で、禅・浄土・華厳・律宗の兼学)

北条一族・赤橋家の菩提寺だった。

最後の執権・赤橋守時は、足利尊氏の妻・登子(とうこ)の実兄、

その縁で、鎌倉滅亡後も、足利家の厚い庇護を受けていたようだ。

後に尊氏が、後醍醐天皇に反旗を翻すかどうかで、

逡巡、引き籠った寺でもある。

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上掲の如く、眺望の良さから、「勝地」なのは疑いなく、

一角の人物が墓所を設けるに、相応しい場所だ。

斜面に穿たれたやぐらには、多数の五輪塔が残る。

もとより、今となっては、主も判らない。

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頂上に辿り着いた。

二番目の墓参り先、冷泉為相(れいぜいためすけ)墓所だ。

阿仏尼の次男にして、定家の孫、歌道家・冷泉家の祖である。

母、阿仏尼の死後、訴訟を受け継ぐために鎌倉に下向、

以後、京鎌倉を往復しながら、当寺近くの藤ヶ谷に棲み、

嘉暦二年(1328)鎌倉で没したようだ。

立派な宝きょう印塔で、ほぼ同時代、南北朝期の様式を示す。

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彼の墓所から、鎌倉の町と海を臨む。

羨ましいくらいの立地だ。

そうだ、中世都市・鎌倉にとっての此岸、

由比ヶ浜へ往ってみたくなった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月 6日 (火)

極楽寺坂から長谷観音へ(35)

B14050501

鎌倉に寺多しと雖も、建長寺や円覚寺のような大寺でなく、

谷戸奥に、ひっそりと隠れるように佇む小寺がよい。

地味だけれど、いい中世仏と古堂(近世建立でも可)を持ち、

後背の山に、中世のやぐらと、石塔群を囲い込んで居れば、

尚、理想的である。

そんな寺は、結構ありそうでいて、実は希少なのだ。

筆者でも、これはと謂える寺は、片手の数もない。

扇ヶ谷奥、泉ヶ谷の浄光明寺は、その一つだろう。

常時参観は出来ないが(木・週末・祝日のみ。八月休)

参拝者も多くないから、落ち着いた風情だ。

谷戸奥に雛壇状の平場を設け、伽藍を配置する、

典型的な、鎌倉の中世寺院の様式がよく残っている。

だんだんと登って往けば、目眩く異界へ誘われるようで愉しい。

まず一段上がり、後背の山へ続く小径に取り付いた。

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途中、二段目上の、阿弥陀堂と観音堂を振り返る。

此処の阿弥陀三尊像(重文 鎌倉後期)は一見の価値がある。

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三段目の平場は、地蔵堂跡と云う。

大きなやぐらが口を開け、正和二年(1313)銘を持つ、

地蔵菩薩像が祀られていた。

今の鎌倉で、ホンモノの中世石仏に出会えるのは、

一寸珍しいかもしれない。

箱根石仏を想い出した。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月 5日 (月)

極楽寺坂から長谷観音へ(34)

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鎌倉市街に戻って、まず立ち寄ったのは、

阿仏尼の墓所と伝わる「やぐら」である。

鎌倉駅から、北鎌倉方向へ800mほど歩行し、

寿福寺、英勝寺の並び、横須賀線の線路沿いにある。

電車からも、観える場所だ。

弘安二年(1279)土地訴訟のため、鎌倉へ下向した彼女は、

初めは、極楽寺の月影ヶ谷に棲み、後に、この辺り、

扇ヶ谷(亀ヶ谷)に転居したらしい。

弘安六年四月八日に、鎌倉で客死したとする説が、

有力で、墓所は京都(大通寺)にも残る。

「やぐら」は、山裾の崖を穿って造営された、

東国・鎌倉に多い中世墓だ。

現在、安置されている層塔は、近世のもので、

それ以前にも、何らかの石塔が立っていたようだ。

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隣りに「やぐら」を利用したと想われる稲荷小社があった。

「隠里稲荷」と呼ばれるが、由緒は判らない。

そう云えば、谷戸は「かくれざと」のようでもあり、

どこか、魅かれる名前ではある。

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さらに、扇ヶ谷の奥、泉ヶ谷・浄光明寺に至る。

二番目の墓参り先が此処だ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月 4日 (日)

極楽寺坂から長谷観音へ(33)

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再び、極楽寺坂の古道(古東海道)を辿って、鎌倉市街へ戻ろう。

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探索を終える前に、墓参りをしたくなった。

もとより、この物語の関係者である。

二ヶ所ほど立ち寄ってから、ゴールへ向かうことにする。

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五月は文句無く、鎌倉のベストシーズンだろう。

古道を往き交う人々も増えてきた。

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懐かしき、昭和の家を過ぎ、

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廃屋のガラス戸に映り込む、

怪しげな人影を見留めて、寸捨(=一寸撮ること)哉…

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月 3日 (土)

極楽寺坂から長谷観音へ(32)

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既に、極楽寺坂の古道(古東海道)を「針磨橋」まで往ったが、

その一寸先、江ノ電稲村ヶ崎駅まで、探索を続けよう。

駅の手前で、海を臨み、江ノ島方向へ右折する。

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反対側のコーナーに、近世の庚申塔が残っており、

片面の道標を「かまくらみち」と読めた。

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少し極楽寺よりの道沿いに、石碑と石塔群が観える。

「十一人塚」と呼ぶ。

元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、極楽寺坂は、

主要な進撃ルートだった。しかし、最初の攻撃は失敗し、

新田方の大将、大館宗氏以下十一人が討ち死にする。

切り通し両側の尾根上と、極楽寺に、北条方が、

鉄壁の守りを固めていたからである。

おそらく、極楽寺の広大な伽藍が、坂道(古東海道)を、

取り込むように配置され、いざとなれば、一朝にして、

堅固な城砦となるべく、周到に準備されていたのだと想う。

石塔群は、宗氏ら十一人を弔った十一面観音堂の跡と伝わる。

この後、義貞は軍勢を立て直し、稲村ヶ崎海沿いからの、

攻撃に切り替え、成功したのは周知の通りだ。

義貞の稲村ヶ崎突破は、五月二十一日夜、

翌二十二日、葛西ヶ谷・東勝寺で北条一族滅亡と云う。

今年も、もう直ぐその日を迎える。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月 2日 (金)

極楽寺坂から長谷観音へ(31)

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今回の探索、何だ彼だ謂って、投稿30回を越えてしまった。

最近は、どうも長くなる傾向があるのだけれど、

疾うに、記録を更新して居る。

でも、まだ一寸プロットが残っているので、それをこなしてから、

目出度く、大団円と往きたいわけなのだ。

今暫し、お付き合いの程を、伏して乞う次第哉…

さて、大仏裏の「大仏坂」を覘いてみようと想った。

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藤沢方向へ抜ける車道になっており、トンネルがある。

トンネル上の尾根の、何処かを古道が通っていて、

切り通しの遺構も残っているらしいが、入り口が判らなかった。

崩落して、危険なので、通行を止めているようなのだ。

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とりあえず、ハイキングコースの登山口に取り付き、

トンネルの尾根上に登った。

道なりに、尾根の向こう側へ降りると、

其処は、極楽寺後背の谷戸奥なのであった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年5月 1日 (木)

極楽寺坂から長谷観音へ(30)

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阿仏尼邸址のことで、触れた「月影ヶ谷」(つきかげがやつ)は、

極楽寺の、一つ西隣の谷戸だ。一寸探索してみようか。

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江ノ電の踏み切りから観ると、さ程とは想えないけれど、

やはり、意外に深い谷戸だ。

阿仏尼邸とは別に、興味深い伝承がある。

この谷戸に、暦を作る者が住んだと云うのだ。

おそらく、陰陽師のことだろう。

例の「弾左衛門由緒書」で引用された「頼朝の御証文」に、

かつて、弾左衛門の先祖が、極楽寺坂の非人宿で、

支配を許されていた道々の輩の中に、陰陽師があった。

陰陽師も、非人の職能の一つに数えられていたようだ。

但し「御証文」が「偽文書」と謂われる理由も其処にある。

非人の携わる職能は、時代によって変動した。

「御証文」のそれは、頼朝の時代より、かなり増えており、

中世後期に該当する。ちょうど「七十一番職人歌合」の時代で、

列挙された職能も符合するわけだ。

ついでながら、京、奈良では「坂の者」と呼ぶことが多い。

非人宿が奈良坂や清水坂に在ったからだが、

極楽寺坂でも、当初は「坂の者」だった。

しかし、当地は谷戸地形で、宿も谷戸に散在する。

「谷戸の者」あるいは、鎌倉近辺の謂い方で、

「谷の者」(やつのもの)と呼んだかもしれぬ。

江戸期、浅草の「弾左衛門」手下の獄吏を、

「谷の者」(やのもの)と呼んだ。

「や」とは、谷戸の江戸近辺の謂い方である。

「弾左衛門」は「矢野」(やの)の名字も名乗っていた。

彼らの先祖は、極楽寺時代に縄張りであった、

由比ヶ浜に因み「由比の弾左衛門」を名乗ったと云う。

先祖が谷戸に棲んだ記憶を受け継いだのか、

「矢野」も「谷の」が起源のような気がするのだ。

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「月影ヶ谷」の最深部は、こんな感じだった。

潮騒を聞きながらの生活だったと、阿仏尼は「十六夜日記」に記す。

(捨身 Canon G1X)

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