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2014年6月11日 (水)

富士吉田口へ(24)

B14061001

今度は、拝殿の右側奥へ廻ってみよう。

B14061002

「東宮本殿」と、全く同形式の社が建っている。

「西宮本殿」(重文)と呼ぶ。

信玄の寄進に習い、やや後の、文禄三年(1594)に、

小山田氏に代わって、当地、郡内領主となった、

浅野氏が寄進したものだ。

B14061003

その「西宮本殿」脇より、元和元年(1615)建立の現・本殿を観る。

信玄時代から始まって、ほぼ五十年間、社殿がだんだんと、

大きくなっていった様子が、これら三つの社で、見て取れるわけだ。

甲斐と、相模・駿河・武蔵が国境を接する、郡内地方は、

複数の幹線道路も交差する要地だった。

戦国期には、北条氏や今川氏が度々侵攻して、

宿々田畑が荒廃、不安定極まりない様相を呈していた。

加えて、第一次富士信仰ブームで、諸国の道者の往来が、

爆発的に増え「限りなし」と「勝山記」にも記されている。

領主の小山田氏は、武田の重臣であると同時に、

独自に力を蓄え、北条や今川と誼を通じたりしたので、

信玄が目を離せなかったのだ。

漸く落ち着きをみせたのは、天文二十三年(1554)の、

所謂「甲相駿三国同盟」が結ばれた後であろう。

その頃を契機として、信玄は小山田氏領内への、

介入を強めて往ったと想われる。

「東宮本殿」の建立、関所の設置、御師宿の移転と、

同じ文脈で捉える必要がある。

(捨身 Canon G1X)

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