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2014年6月の記事

2014年6月29日 (日)

元八王子の宿跡を彷徨う(6)

B14062801

地蔵堂の外に、

何でもない住宅街の側溝が続いていた。

とりあえず、辿って往く。

B14062802

角を曲がり、さらに進むと…

B14062803

湧水が現れた。

八日市庭にとって、中御堂(薬師堂)と並んで、

核になるものだろう。

もとより湧水は、仏神が示す、目出度き験であると同時に、

街道を行き交う、旅人や牛馬の乾きを癒し、

市庭に集う人々に欠かせない、生活用水も供給する。

これで、市神=住吉明神、中御堂(薬師堂)、湧水と、

中世世界の都市的な場の、三大要素が出揃ったわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月28日 (土)

元八王子の宿跡を彷徨う(5)

B14062701

前回触れた「商人の巻物」に拠れば、市庭を立てる際に、

道に沿った、上宿と下宿の中間、

即ち、市庭の中心に祀られる阿弥陀堂、

もしくは、薬師堂を「中御堂」(なかみどう)と呼ぶとある。

八日市庭の薬師堂は、それにあたるのだろう。

往時、現在は門前を通る古道の真中に、立ち塞がるように、

薬師堂が建っていたと想っていい。

そのまま、古道を進むと、直ぐ地蔵堂が観えてくる。

B14062702

相即寺・地蔵堂だ。

三年前の、同じ六月二十三日に訪ねているが、

この間に、改修が行われたようだ。

由緒については、その時の投稿へ譲る。

B14062703

今日は堂内が開扉される。

一巡してみた。

B14062704

地蔵堂裏手、墓域との間に用水が流れていた。

例によって、宿に付き物の用水である。

一寸、流れを辿って往こう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月27日 (金)

元八王子の宿跡を彷徨う(4)

B14062601

天正十八年(1590)六月二十三日の、八王子城攻めで、

焼き払われた八日市庭であったが、市の核心部を為していた、

市神の住吉明神と薬師堂は、幸い現存するに至っている。

つまり、今でも、中世世界の、市庭の痕跡を、

具体的に、辿ることが出来るわけなのだ。

B14062602

境内の腐朽しかかった古木。四五百年はありそうだが、

これも大事な、市庭の生き証人と謂っていい。

もとより、人が植えたものだ。

B14062603

江戸期の写本に「商人の巻物」と呼ぶものがある。

中世に「連雀商人」を生業としていた商家に伝わった、

「由緒書」で、史料価値としては「偽文書」に近いのだが、

記されている、商人たちの仕来りが興味深く、無視出来ない。

その中に、「宿と市庭の立て方」と云うのが出て来る。

即ち、道に沿って、両側に店を配置し、上宿、下宿に分け、

中心(道の真中)に市神=住吉明神、

あるいは、阿弥陀仏か薬師如来を祀る。

前後には、鳥居(木戸)を立て、出入り口を設け、

注連縄を張って、結界を廻らす。

全ての事業計画は「蓮雀衆」(連雀商人の座)が取り仕切り、

一連の宗教儀礼は山伏が行う。

阿弥陀仏と薬師如来を祀るのは、店の軒数を、

上宿に四十八軒(阿弥陀仏の四十八願を意味する)

下宿に十二軒(薬師如来の十二大願を意味する)

都合、六十軒とする為である。

この他、事細かな作法が列挙されているのだが、

別の機会に譲る。

中世世界の、諸国の宿と市庭に、こういった計画性が、

窺えるのは、疑えないであろう。

とまれ、住吉社、阿弥陀堂、薬師堂が集まる地域は、

中世の宿か、市庭跡の可能性が高いと云うことだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月26日 (木)

元八王子の宿跡を彷徨う(3)

B14062501

八日市庭跡は、八王子城山麓に発する、城山川の下流、

城から観て、真東に位置する。

戦国末期の天正十年(1582)から、十六年(1588)頃にかけて、

築城が始まったと考えられる八王子城だが、

その構想に於いて、従来の東国の中世山城に、

基礎を置きながらも、信長の安土城の影響を強く受けていた。

初期の城下町も設定され、それが、この八日市庭辺りなのだ。

謂わば、八王子城のお膝元だったのだが、

天正十八年(1590)の落城の際には、

市と宿は、寄せ手の秀吉方によって、焼き払われてしまった。

唯、西蓮寺(当時は金谷寺)の薬師堂だけが残ったわけだ。

さて、薬師堂裏の路地を辿って往く。

B14062502

鳥居と杜が観えてきた。

航海と通商の神、住吉社である。

B14062503

八日市庭の市神とみて、ほぼ間違いないだろう。

此処も、秀吉勢によって、焼亡している。

八日市庭を拠点として、活動していた、

僧、山伏、時衆、職人、商人たちは、北条方に動員されて、

八王子城へ籠り、多くの犠牲者を出したと云われる。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月25日 (水)

元八王子の宿跡を彷徨う(2)

B14062401

今回の探索地は、中世以前の八王子、

(当時、この地名は無かった)の中心地、

船木田荘・由井郷の古道沿いにある。

「八日市場」の字名が残る市跡だ。

まず、西蓮寺と云う、真言宗・智山派の寺へ足を踏み入れる。

この寺は、門前の市庭を管理し、

関銭、棟別銭(=むなべちせん 家戸ごとに課した税)

を徴収する権利を、小田原北条氏から附与されていた。

此処の僧や山伏が、八王子城に籠城したと云う記録があるから、

山伏が立ち寄る、基地の役割も、果たしていたのだろう。

境内の薬師堂は、室町末期(戦国期)の建立で、

八王子市、現存最古にして、唯一の中世建築である。

今回、初めて、観ることが出来た。

B14062402

今も、「目の薬師」と呼ばれ、眼病に霊験ありと、

信仰を集めているようだ。

由緒は判らないが、市庭に在ったわけだから、

修験とか、目薬売りとの係わりも、想い浮かぶ。

B14062403

現状、屋根は銅覆葺きだが、もとは萱葺きだった。

所謂、宝形造り、方三間(正方形)の堂である。

典型的な、鄙びた仏堂で、好ましい風情だ。

B14062404

天正十八年(1590)秀吉の八王子城攻め際に、

寄せ手の前田利家の軍勢が野営し、

兵糧炊き出しで焦がした痕が、堂内に残っているそうだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月24日 (火)

元八王子の宿跡を彷徨う(1)

B14062301

六月二十三日(天正十八年=1590)は、八王子城落城の日。

今年も、由緒の地を歩いてみようと想った。

元八王子地区の、陣場街道(案下道)に沿った、

中世の宿と市跡である。

当地に越してきた年の同じ日に、一度探索したのだが、

今にしてみれば、不十分なところも多々あったわけで、

どうしても、再びということになったのだ。

この辺りは、高尾山と八王子城(城山)から流れ出る、

いくつかの川に挟まれた、扇状地を形成している。

その一つ「城山川」は、八王子城内の「御主殿の滝」が源流で、

落城の日、朱に染まったと云われる川だ。

B14062302

盆地状の河川流域だから、平坦地が広がっている。

場所によっては、水害に悩まされた集落もあったはずだ。

梅雨空の下、路線バスを降り、探索を開始した。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月16日 (月)

富士吉田口へ(28)

B14061401

元亀三年(1572)の宿移転と前後して、

富士道者の往来が激減した。理由はよく判らない。

かねてより、関銭が高いことに不満はあったようだ。

また、駿相武に接する国境の常で、隣国との関係が悪化すると、

街道の通行を遮断する「道止め」(道留め)が頻発したのも確かだ。

御師衆を直接支配していた、領主の小山田氏は、

窮余の一策で、関銭の半額免除「半関」(はんぜき)を申し付ける。

B14061402

「半関」には、関銭の他に、富士道者たちから徴収する「役銭」も、

含まれていた。昨今で云う「入山料」にあたるものだろう。

道者が御師や浅間社に捧げる「初穂」(賽銭)は別会計である。

もとより、ちゃんと「関銭」や「役銭」を納める道者、旅人に対し、

領内通行の安全を保証し、余分な銭を巻き上げることを禁止した。

このような措置は、効果を上げたのであろうか。

この時に定めた金額が、先例となり、爾来守られていく。

因みに、改正前の「役銭」は道者一人につき二百二十二文、

それが、百二十二文になったと云う。

今のいくらになるか難しいが、決して安いわけではなかったのだ。

B14061403

中世世界の富士吉田の風景は、現在と全く異なり、

青々とした水田や畑は無く、度重なる「雪代」もあって、

荒地が広がっていた。米、大豆、小豆、麦などの食料は、

銭で買うしかない。富士道者、旅人が落とす「銭」が、

収入の全てだった。

実に、都市的な場と呼ぶに相応しい、

もっぱら貨幣経済に支えられた地域だったのである。

さて、この辺で、今回の探索を一先ず終える。

暫時休息を頂き、次回に備えるとしよう。ご容赦を…

(捨身 Canon GX1) 

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2014年6月14日 (土)

富士吉田口へ(27)

B14061301

「吉田口」の入り口から、境内を振り返って観る。

右側は「西宮本殿」だ。

B14061302

「諏訪の杜」の巨樹は、樹齢四百年から六百年といったところか。

どうも、もっと昔(平安初期の貞観の大噴火に因るか?)は、

この辺りは、火山灰や溶岩に覆われた荒地だったらしい。

古代以来の、富士祭祀の場が在ったことは、想像に難くない。

中世に入って(鎌倉後期か?)まず、諏訪社が建てられ、

社叢林が造られたのか。

もとより、人の手になる杜である。

「北口本宮富士浅間社」と称するのは、あくまでも、現代の話で、

中世末の戦国期では、「諏訪浅間社」と呼んだほうが、

通りがよかったはずだ。

B14061303

御師宿への道を戻りながら、

再び、元亀三年(1572)の宿移転のことに想いを廻らしてみる。

「大評定」を取り仕切ったのは「二十人衆」と云われた、

「長」(おとな)たちだった。この中には、御師衆だけでなく、

職人、商人、芸能者たちも入っていたであろう。

あるいは、同時代の自治的な都市、

堺の「会合衆」(えごうしゅう)をイメージして、いいかもしれない。

「勝山記」にも、古吉田の宿は、

「千軒の在所」と記されるほどだった。

しかし、この時期、どういうわけか、富士登拝の道者の往来が、

激減して、大問題になっていた。

かねがね、関銭が高いので、旅人たちの間で、

頗る評判が悪かったのである。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月13日 (金)

富士吉田口へ(26)

B14061201

そろそろ、この探索も大団円に近づいている。

「西宮本殿」の右脇へ入ると、いよいよ、富士の北口登拝道、

「吉田口」の起点が現れる。石段と鳥居が観えるところだ。

B14061202

鳥居をくぐって、祖霊社を過ぎると、

鬱蒼とした「諏訪の杜」に包まれる。

B14061203

この先、富士道は一合目に至り、本格的な登山が始まるわけだ。

さて、一寸話を諏訪社へ戻す。

もとより、諏訪社には、別当寺が存在した。

北口本宮浅間社前の国道138号線を挟み、御師宿の筋替に建つ、

時宗の西念寺だ。

両者は、ほぼ同時期の、鎌倉後期に成立したのであろう。

そもそも、諏訪社は、西念寺の鎮守ではなかったか。

これと似たケースとして、藤沢の遊行寺(清浄光寺)を挙げたい。

遊行寺も、鎮守として、諏訪社を持っていたのである。

しかも、門前を通る、東海道を挟んでと謂うか、

むしろ、取り込むような位置関係を採っていた。

その意味で、振り返ってみれば、社前を通る中世古道が、

遊行寺前の東海道と、重なって観えてくるのは否めない。

もう一度、洗い直してみるか。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月12日 (木)

富士吉田口へ(25)

B14061101

拝殿前に戻る。

左手の大杉は「太郎杉」と呼ぶ。

右手に観える小社の方へ向かおう。

「諏訪の杜」の謂われのもとになった諏訪社(下)である。

B14061004

実は、信玄の「東宮本殿」建立以前の、

北口本宮富士浅間社に関わる記録は、はっきりせず、

信頼が置けるのは、この諏訪社のものだけなのだ。

信玄が訪れ、まず、参拝したのは諏訪社であったろう。

既に、それなりの本殿が建っていたと想う。

「孫子の旗」と並ぶ、信玄の軍旗、「諏訪明神旗」や、

愛用の「諏訪法性兜」(すわほっしょうのかぶと)でも、

知られるように、彼の諏訪信仰は半端なものではなかった。

あくまでも、諏訪明神に対する、立派な摂社として、

富士信仰の「東宮本殿」を寄進したわけである。

でも、後半生に入り、信濃攻略が一段落すると、

海への出る湊を得ることが、焦眉の急となった。

越後は謙信に阻まれた。相模の北条は相変わらず手強い。

幸い、桶狭間のせいで、駿河の今川が著しく弱体化した。

駿河の海なら、手に届きそうだ。

まさに当地は、甲斐より駿河への出口、

しかも、国境を自由に往来出来る、御師たちが居る。

この際、彼らを抱き込むに如かずだったはずだ。

B14061102

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月11日 (水)

富士吉田口へ(24)

B14061001

今度は、拝殿の右側奥へ廻ってみよう。

B14061002

「東宮本殿」と、全く同形式の社が建っている。

「西宮本殿」(重文)と呼ぶ。

信玄の寄進に習い、やや後の、文禄三年(1594)に、

小山田氏に代わって、当地、郡内領主となった、

浅野氏が寄進したものだ。

B14061003

その「西宮本殿」脇より、元和元年(1615)建立の現・本殿を観る。

信玄時代から始まって、ほぼ五十年間、社殿がだんだんと、

大きくなっていった様子が、これら三つの社で、見て取れるわけだ。

甲斐と、相模・駿河・武蔵が国境を接する、郡内地方は、

複数の幹線道路も交差する要地だった。

戦国期には、北条氏や今川氏が度々侵攻して、

宿々田畑が荒廃、不安定極まりない様相を呈していた。

加えて、第一次富士信仰ブームで、諸国の道者の往来が、

爆発的に増え「限りなし」と「勝山記」にも記されている。

領主の小山田氏は、武田の重臣であると同時に、

独自に力を蓄え、北条や今川と誼を通じたりしたので、

信玄が目を離せなかったのだ。

漸く落ち着きをみせたのは、天文二十三年(1554)の、

所謂「甲相駿三国同盟」が結ばれた後であろう。

その頃を契機として、信玄は小山田氏領内への、

介入を強めて往ったと想われる。

「東宮本殿」の建立、関所の設置、御師宿の移転と、

同じ文脈で捉える必要がある。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月10日 (火)

富士吉田口へ(23)

B14060901

信玄の「東宮本殿」建立前に、社殿が在った確証は無いと、

謂ったが、社伝では、延暦七年(788)に造営があったとする。

しかし、明治の神仏分離以降の、こういった由緒書きには、

各地の神社でも、そうだけれど、大分割引きが必要である。

やはり、本殿のような、大きな社殿は無かったと想う。

ただし、富士を遥拝出来る「勝地」であることには変わりなく、

ごくごく小さな祠、あるいは、石造物が在った可能性がある。

永禄四年(1561)川中島合戦を前にして、

信玄は当地を訪れ、戦勝を祈願して、勝利のあかつきには、

荒れ果てていた祠を、再建すると誓ったのではなかったか。

この社は、大きな神社の摂末社ぐらいの規模に過ぎないが、

春日大社内の摂末社と同程度か、それ以上だろう)

もともとが祠だったのだから、立派な寄進とみるべきだ。

B14060902

既述の如く、永禄四年(1561)九月十日の川中島合戦は、

激戦で、武田方の勝利とは云い難かった。

よく謂って引き分け、厳しく云えば「敗北」かもしれい。

でも、信玄は、家臣領民の手前、

強気の「勝利宣言」をせねばならず、領内各地の寺社で、

目に見える形で「パーフォーマンス」が必要だったのだ。

B14060903

優美で、流れるような桧皮葺屋根、細工の見事さ、

当時としては、最新の構造形式を取り入れている。

B14060904

「東宮本宮」が、意外にこぢんまりとしているのは、

別して、大きな理由もあった。

此処、北口本宮富士浅間社の、本来の祭神のことである。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月 9日 (月)

富士吉田口へ(22)

B14060801

北口本宮富士浅間社の、より「古層」を求めて、探索してみよう。

拝殿の左側から、裏手へ廻る。

B14060802

拝殿と本殿の繋ぎ目、幣殿脇に聳える杉の巨木。

本殿(重文)は、やや古い、桃山様式で、

元和元年(1615)家康によって、郡内地方に封ぜられた、

谷村藩の寄進で建立されたとある。

B14060803

本殿左手奥に観える小社を「東宮本殿」(重文)と呼ぶ。

北口本宮社に現存する、唯一の中世建築で、重要である。

永禄四年(1561)九月十日の川中島合戦(第四次)の後、

武田信玄が戦勝祈願のために建立したことが判っている。

信玄の弟、信繁はじめ、山本勘助ら多数の家臣が討死した、

最も激烈だったと云われる戦いだ。

この戦いの前後、信玄は、領内の彼方此方の寺社へ、

真剣に祈願した様子が窺える。

だから、彼にとっての「東宮本宮」建立は、

ゆめ疎かに出来ない理由があったとも想われるのだ。

B14060804

こぢんまりとした社だけれど、入念な造りで、優美さが感じられる。

実は、これ以前に、

当地に、富士を祀った社が存在した確証が無い。

その辺りに、北口本宮社の、由緒の秘密がありそうなのだが、

次回詳述せねばなるまい。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月 8日 (日)

富士吉田口へ(21)

B14060701

随身門、神楽殿、拝殿は、享保十八年(1788)江戸小伝馬町の、

富士講指導者、村上光清が寄進したものだ。

B14060702

現存の社殿の殆どが、その時に整備された。

江戸後期の富士講ブームでは、

当地、富士吉田口が主な舞台になったが、

その背景には、彼の存在が大きかったわけだ。

御師たちも、北口浅間社に所属したと云うよりは、

独自に、京都の吉田家や白川家から、神職の裁許を得て、

活動していたようだ。

B14060703

神楽殿より、拝殿を観る。

B14060704

拝殿より、神楽殿、随身門を振り返ったところ。

世界遺産のお陰で、参拝者は増えたことだろう。

でも、一方で、一寸微妙な空気も感じられる。

富士の周りに、浅間社を名乗る社は多いが、

相互の由緒、地位、本末、呼称を巡って、主張がまちまちで、

それに、明治維新以来続く、神仏分離に因る断絶も加わる。

その重層を、一枚一枚、捲っては剥ぎ、

富士信仰の正体へ近づくのは、至難の業なのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月 7日 (土)

富士吉田口へ(20)

B14060601

大鳥居の前に小河川が流れ、石橋が架かる。

神域によく観られる、結界を示す川であろう。

地図で確認すると、宿の東側に流れる「間堀川」から、

引かれているようだ。

富士宮の富士山本宮浅間社では、湧玉池を源泉とする、

神田川だったが、規模や水量は比べようもない。

B14060602

神田川には、何か畏怖すべきものを感じたけれど、

こちらは、こぢんまりとした感じだ。

B14060603

水垢離場のような、石段が設えてある。

富士山本宮浅間社は、平安初期の貞観大噴火が契機となって、

権力の介入を受けつつ、堂塔を整えていった。

此処、北口本宮浅間社の場合、時代はかなり下がり、

富士信仰が入ったのは、戦国期以降である。

もとより、成立の由来も、全く異なる。

この辺りの経緯は、おいおい語るとして、

とりあえず、随身門をくぐるとしよう。

B14060604

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月 6日 (金)

富士吉田口へ(19)

B14060501

北口本宮富士浅間社の探索を始めよう。

表の国道138号線から、150mほど参道が続く。

上は、一寸進んで、振り返ったところ。

B14060502

杉や檜の巨木が杜をなしている。

「諏訪の森」と呼ぶが、その由緒については、後で詳述する。

各地の富士講の人々が寄進した、

石灯籠が立ち並び、その数凡そ130基と云う。

B14060503

大鳥居と随身門が観えてきた。

参道を歩きながら、もう少し、さっき探索した、

時宗・西念寺と御師宿の関係に、想いを廻らしてみる。

今でも、宿の殆ど人々が、西念寺の檀家さんだそうだ。

当麻宿と無量光寺のケースに似ているかもしれない。

藤沢の遊行寺では、地元との縁が比較的薄く、

檀徒は各地に広がっていた。

謂い換えれば、当地の御師たちは、中世世界から、

時衆との関わりが深かったということだ。

元亀三年(1572)の新宿立ち上げに際して、

発起人と云うべき、メンバーであった「本御師」たち、

彼らの先祖を遡れば、

もとより、遍歴の宗教者で、時衆と昵懇だった、

熊野修験や熊野御師へ繋がるのではないか。

西念寺の鎮守は、熊野権現だったし、元々、古吉田宿には、

熊野関係者が集住していた可能性もあるだろう。

B14060504

さて、大鳥居をくぐる。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月 4日 (水)

富士吉田口へ(18)

B14060301

河口湖畔に、妙法寺と云う、日蓮宗の寺がある。

東国の戦国史研究では、外せない第一級史料、

「妙法寺記」(=勝山記)を伝えている。

その勝山記に拠れば、元亀三年(1572)宿移転以前の、

30年間に、凡そ四度の「雪代」(ゆきしろ)の被害を数え得る。

中でも、天文四年(1545)と、永禄二年(1559)には、

古吉田の宿は、ほぼ壊滅状態になったようだ。

宿の移転には、やはり、相当な紆余屈折があったと想う。

終に、最大の山場、関係者全員が参加する「大評定」に於て、

宿の移転と、新宿を立てる決定がなされたのだった。

一同の主だった人々が「一味神水」して、

「一揆契状」を認める光景が、目に浮かぶようだ。

衆議を纏め、この一大事業計画の指導的、象徴的な、

役割を果たしたのが、西念寺だった。

最終的には、西念寺の僧と、宿の頭立つ衆が、

領主の武田家へ(事の重大性から、直接の領主小山田家ではなく)

申し出て、しかも、ひょっとしたら、

信玄の前で、直裁を仰いだのではなかったか。

裁許は得られ、直ぐに事業は動き出したであろう。

何しろ、武田領を取り巻く状況は、風雲急を告げているのである。

もとより、西念寺は、宿の管理責任、諸役免除と、

関銭徴収権を安堵され、爾今変わり無しとされたはずだ。

まぁ、一編の小説か、映画になりそうな話ではあるな。

B14060302

「中宿」の道祖神。

宿を通る「富士道」の、ほぼ中間点に祀られている。

B14060303

西側の御師屋敷と「龍道」(たつみち)

B14060304

さて、北口本宮富士浅間社頭までやって来た。

足を踏み入れよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月 3日 (火)

富士吉田口へ(17)

B14060201

富士宮市の富士山本宮浅間社が所蔵している、

「富士参詣曼荼羅図」(室町後期)にずっと魅かれてきた。

昨年秋、静岡県美で、やっと観ること出来たわけだが、

画中、蟻の如く、列を為して登る、白装束の道者たちに混じって、

黒衣の時衆と思しき集団が居るのが、とても気になっていた。

今回の探索で、その答えの一端が得られたのかもしれない。

此処、西念寺は、「富士道場」を標榜し、

時宗の、富士信仰の拠点とも考えられるのだ。

永仁六年(1298)時宗二世・他阿真教は、信濃・甲斐を遊行、

東国を辿って、相模・当麻宿・無量光寺へ還る途上、

「古吉田宿」に立ち寄り、

一寺を、時宗道場に改めたのが始まりと伝える。

現在は、藤沢の遊行寺(清浄光寺)の末寺で、

時宗寺の定番、宗祖・一遍像と熊野権現の鎮守(下)も揃う。

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信濃・甲斐・相模を結ぶ、中世の幹線道路沿いの、

「古吉田宿」は殷賑を極めたと想われる。

時宗は、道中の主だった宿に、間断なく道場を配置した。

中でも西念寺は、富士信仰が第一次ブームを迎えた、

室町後期、時衆の富士登拝基地として、

重要度を増していったのではないだろうか。

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例の元亀三年(1572) 新宿を立てるに際して、当地へ移転、

その時、西念寺は、指導的な役割を果たしたようだ。

これについては、秘話があったらしく、次回に触れよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月 2日 (月)

富士吉田口へ(16)

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再び「富士道」戻り、連なる御師屋敷群を覗きながら、

北口本宮富士浅間社方向へ、歩を進めよう。

江戸後期から、明治にかけて、あれほどの隆盛を誇った、

御師宿だが、現在、御師を生業とする家は無く、

二軒ほどが、旅館業を営んでいるだけと聞いた。

外川家も、最後の御師が没した、昭和三十七年(1962)をもって、

廃業したのだった。

地元の多くの方が語るには、やはり、昭和三十九年(1964)の、

富士スバルラインの開通が画期だったと云うことだ。

謂い換えれば、それまでは、御師宿と一合目の浅間社を経て、

山頂へ向かう「富士道」は、生きて居り、

宿の機能も、維持されていたわけである。

その辺りが、宿の遺構がよく残っている理由ではないだろうか。

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宿南端の結界、「筋替」(すじかえ)のところまでやって来た。

「西念寺」と云う、時宗寺の入り口を示す、石柱が角に立つ。

左折して「筋替」へ入る。

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筆者、探索の習い、

時宗寺を見つけたら、はずしてはならぬことになっている。

山門が観えてきた。

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今までの経験に照らすと、

宿の出入り口(とりわけ、筋替上)に建つ寺は、

その宿にとって、極めて重要な存在であることが多い。

藤沢の遊行寺や、当麻宿の無量光寺を想起させる、

立派なの冠木門だ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年6月 1日 (日)

富士吉田口へ(15)

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「間堀川」から取水する、御師宿の東側を流れる用水である。

外川家では、門内へ引き込まれ、水垢離場が設えられていた。

「富士道」を挟み、東側の各戸は、皆、この用水を使ったのだ。

西側にも、用水があるので、観てみよう。

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宿のほぼ真ん中を横断するわけだが、

途中、食行身禄を祀った「身禄堂」の前を通る。

堂守の方が常駐されているようで、手入れが行き届いていた。

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西側の用水だ。

御師宿には、三本の用水があり、三本目は、

「富士道」の中央を流れていた。

幕末期のベアトの写真に観える石組みであろう。

今では、車道下の暗渠になっていると聞く。

いずれの用水も、元亀三年(1572)宿が立てられた際に、

周到な計画に基づいて、引かれたと考えていい。

河川、湧水、用水などの水道(みずみち)は、

古道と共に、中世の都市的な場を探索する時には、

重要な手掛りとなる。たとえ、現状が側溝であっても、

元は古いものである可能性が高いから、見落としは禁物なのだ。

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西側の用水は「神田堀川」より取水されている。

この川も、富士北麓の沢筋を源流とし、

宿、西側の外堀の役割を果たしていたと想われる。

「間堀川」と「神田堀川」は、この後、宮川に合流、

最終的には、相模川へ注いで往く。

(捨身 Canon G1X)

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