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2014年7月30日 (水)

雨降山考(17)

B14072901

大山講のことを、話しそびれたようだ。

江戸後期、富士講とともに、南関東一円で流行る。

各集落では、両講中が並立し、講元(リーダー)は二人だが、

講員は同じということが多かった。

「富士へ参れば、必ず大山にも参るべし」と云う習わしが守られ、

別して健脚であれば、富士登拝を終えたその足で、

大山へ登った(勿論、回を改めてもよい)

あるいは、さらに足を伸ばして、江ノ島、藤沢(遊行寺)

鎌倉(八幡宮)と巡礼することもあった。

こういった巡礼地は、江戸から手形無しで、

往ける範囲だったのである。

最期に、武州・金沢八景に立ち寄り、絶景を愛でれば、

「完璧なツアー」になったはずだ。

大山道、甲州道中、東海道を連絡する道筋は、

よく整備され、しかも、行程の宿々では、

「精進落とし」が出来る遊里にも、事欠かなかった。

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講中の人々を迎え、宿、登拝、もろもろの世話をしたのは、

大山の御師たちだった。

彼らは、近世初頭、大山寺から里へ下った山伏を先祖とする。

やはり、麓の参道沿いに、御師集落を形成した。

明治の神仏分離以後は、阿夫利神社より、

「先導師」と改められ、神職を務める傍ら、旅館を営み、

今も、かつての講中の人々を受け入れているわけだ。

B14072903

さて、いよいよ雲往きが妖しくなってきたな。

(捨身 Canon S110)

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コメント

古今亭志ん生の大山詣りを聞き返したくなりました。近世の町人が観光ツアーみたいなことができたというのはある意味豊かだったんでしょうかね。大山詣り、富士講は武家、農民は無関係なんですか?

投稿: 振り子 | 2014年7月30日 (水) 05時24分

そうそう、ありました。大山講は文化文政年間が最盛期だったようです。まぁ、観光ブームの走りと謂えますね。やはり、富士も大山も、専ら庶民、殊に大山は、農民の雨乞い、収穫祈願でしょうか。

投稿: kansuke | 2014年7月30日 (水) 22時16分

いせはら文化財のサイトに、浮世絵に見る相模大山というのがあるのですが、それを見ると、振子さんの禁制観光ツアーというのがぴったりでした。そして富士山とセットで、江戸時代も終わりごろになるとずいぶん洗練された感じですね。庶民の楽しみだったことがわかります。

投稿: tae | 2014年8月 2日 (土) 00時35分

taeさま
そうですね。今日からみても、良く出来たツアーだと想いますよ。実は、この巡礼地の中で、未探索地が一つだけ残っていました。やはり、当方も完成させないと…

投稿: kansuke | 2014年8月 2日 (土) 22時32分

未探索地、どこでしょう。楽しみに。実は昨日「江戸時代の良好と立山の観光地化」という講演会を聞いてきました。滋賀大の青柳修一(観光地域史研究家)。専門が富士山なので、富士山の登山口と信仰登山集落の話が多かったのですが、非常にシステマティックで、よく考えられた一大産業だったことがわかりました。

投稿: tae | 2014年8月 3日 (日) 14時35分

taeさま
現在の観光業の起源が、少なくとも中世後期に遡り、近世後期には、ほぼ完成の域に達していたということは、ある意味、驚くべきことだと想いますね。それも、全ては宗教がはじまりだったことも…今でも、世代を超越して、寺社参りの人気が衰えないわけです。

投稿: kansuke | 2014年8月 3日 (日) 22時07分

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