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2014年7月の記事

2014年7月31日 (木)

雨降山考(18)

B14073001

参道の谷筋をやや降ってきた。

この辺りは、伊勢原市の大山町になるが、

かつては「坂本」と呼ばれた。

西側の尾根一つ隔てた、秦野市の蓑毛町も「坂本」と呼び、

東と西の「坂本」として、ともに御師集落を形成していた。

此方の「東坂本」は、主に江戸、関東の講中を受け入れ、

「西坂本」は、東海地方の講中を受け持っていたようだ。

目前の大山川を、愛宕の清滝川に、見立てたのと同様、

比叡山東麓の近江「坂本」に、見立てていたのかもしれぬ。

大分、日が翳ってきたようだ。

B14073002

駅へ向かう路線バスで、こんな停留所を見つけた。

室町中期、当地には、扇谷上杉氏の根拠地「粕谷の館」が在った。

文明八年(1486)太田道灌が、主君、上杉定正によって、

無念の騙し討ちにされた、故地なのである。

首と胴の、二つの「道灌塚」が伝わっているそうだ。

伊勢原市も、なかなかの中世史スポットなのだ。

B14073003

帰りの小田急線車中から観た大山。

この後、沿線は、激しい雷雨に見舞われた。

夕刻の天気予報では、午後、伊勢原市付近に雷雲が発生し、

多摩地区、および首都圏西部を襲った様子を、

レーダー解析場面で、時間を追って解説して居た。

「雨降山」の霊験は、今以て、健在なのであった。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月30日 (水)

雨降山考(17)

B14072901

大山講のことを、話しそびれたようだ。

江戸後期、富士講とともに、南関東一円で流行る。

各集落では、両講中が並立し、講元(リーダー)は二人だが、

講員は同じということが多かった。

「富士へ参れば、必ず大山にも参るべし」と云う習わしが守られ、

別して健脚であれば、富士登拝を終えたその足で、

大山へ登った(勿論、回を改めてもよい)

あるいは、さらに足を伸ばして、江ノ島、藤沢(遊行寺)

鎌倉(八幡宮)と巡礼することもあった。

こういった巡礼地は、江戸から手形無しで、

往ける範囲だったのである。

最期に、武州・金沢八景に立ち寄り、絶景を愛でれば、

「完璧なツアー」になったはずだ。

大山道、甲州道中、東海道を連絡する道筋は、

よく整備され、しかも、行程の宿々では、

「精進落とし」が出来る遊里にも、事欠かなかった。

B14072902

講中の人々を迎え、宿、登拝、もろもろの世話をしたのは、

大山の御師たちだった。

彼らは、近世初頭、大山寺から里へ下った山伏を先祖とする。

やはり、麓の参道沿いに、御師集落を形成した。

明治の神仏分離以後は、阿夫利神社より、

「先導師」と改められ、神職を務める傍ら、旅館を営み、

今も、かつての講中の人々を受け入れているわけだ。

B14072903

さて、いよいよ雲往きが妖しくなってきたな。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月29日 (火)

雨降山考(16)

B14072801

麓の「こま参道」のところまで降りて来た。

往き掛けに、目星を付けて置いた店を覘いてみよう。

B14072802

当地の土産として知られる「大山こま」の工房だ。

参詣客のために、近代に入ってから、作られるようになったのだが、

技術の伝統は古く、木地師の片手間仕事が始まりだった。

今でも、木地師の後裔の方々が営んで居られる。

そのお一人に伺った。

B14072803

現在、「大山こま」を作れる木地師は、三軒だけだそうだ。

もとより、平安初期の、文徳天皇の第一皇子、

惟喬(これたか)親王を嚢祖に仰ぐ「由緒」を守る、

代々の木地師である。

かつて、この参道が通る谷筋に、

二十軒を数える木地師集落が在った。

山中に、材料の木材が豊富であったことと、

大山寺が、そういった「道々の輩」を「寄人」「供御人」として、

支配下に置き、保護していた可能性もあると想う。

出来上がった半製品に、漆を塗る「塗師」(ぬし)も、

常に、一緒に行動する仲間たちだった。

「木地師とは、専ら轆轤を使い、椀、盆など、

 挽き物を作る者だ。

 指物、組物、曲げ物を作る衆は、木地師とは呼ばぬ」

そんな、矜持と小気味好い言葉が心に残った。

筆者の幼少期、横浜・金沢の駄菓子屋でも、

安価で売られていた「大山こま」だったけれど、

後継者難で、貴重品になりつつある。

作者の木地師の手から、直接求めた「大山こま」に、

ずっしりと重みを感じたのは、謂うまでもない。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月28日 (月)

雨降山考(15)

B14072601

不動明王の尊容を続ける。

尊面は、所謂、憤怒の相である。

持物は、右手に「降魔の剣」 左手は「けん索」だ。

この両者を合体させたものを、

剣に巻きついた黒竜が剣を呑む姿に表し、

「倶利伽羅剣」と云う。密教及び、修験道では、

剣に巻きつく黒竜を「倶利伽羅竜王」と呼び、

不動明王の変化身の一つと捉え、龍神(竜王)とするのだ。

因って、不動明王を修することは、龍神を修することになり、

即ち「雨乞い」の祈祷となる。

やっと「雨降山」に繋がったわけだ。

B14072602

山頂に湧き上がる、妖しげな雲を気にしながら、

今回はひとまず、下山するとしよう。

B14072603

山内の彼方此方に、龍神を祀った祠が目立つ。

そう謂えば、大山寺で最古の小堂も「倶利伽羅堂」であった。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月26日 (土)

雨降山考(14)

B14072501

やはり、怪しげな雲は、山頂部辺りから、湧いて居るようだな。

それはそうと、この山の信仰の正体について、話を続ける。

頂上の磐座(いわくら)を「石尊」と呼んだ。

おそらく、有史以前へ遡る信仰形態であろう。

中世世界に於いては、山伏たちが修行に入り、

不動明王と結びつける。否、不動明王そのものとした。

不動の尊容は、火炎を光背にし、「岩座」(いわざ)に座す。

些か、こじつけめいてくるが、山頂の磐座=「石尊」が、

その「岩座」に見立てられたのではないか。

因って、「石尊」=不動明王となり、本地垂迹説に則って、

「本地」と看做されたわけだ。

B14072502

現在、山頂には、阿夫利神社本宮がある。

登拝道の入り口。此処からは「登山」だ。

今回は、時間の持合わせが無いし、

南関東の山々にとって、当節は暑さも盛り、

もう一寸涼しくなってから、試みるとしようか。

B14072503

さて、後は「雨降山」信仰との繋がりである。

これも、不動明王の尊容と関わる。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月25日 (金)

「船鉾」復活のこと

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暑くなってきたので、一寸閑話休題。

ニュースを視て、祇園祭の「船鉾」復活の由を知る。

「後祭」も49年ぶり、「船鉾」は幕末の蛤御門の変で、

焼失以来と云うから、150年ぶりか。

もっとも、筆者は「上杉本・洛中洛外図屏風」で、

五百年前、戦国期の「船鉾」の様子を観ており、

ずっと気になっていた。

まずは、祝着である。

室町後期、遅くとも、応仁文明の乱頃までには、

現在の祇園祭(祇園御霊会)の形は、

ほぼ出来上がっていたと考えていい。

この祭りには、中世世界の都市的な場の、

あらゆる信仰形態のエッセンスが詰まって居る。

もし、これをテーマに探索仕出したら、

何回生きても、足りやしないだろうな。

昨夕のNスペは、山鉾を飾る、

タピストリーとカーペットの謎を追っていたが、

久しぶりに面白かった。

そう、謎は、まだ解き始められたばかりなのだ。

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(捨身 Canon S110)

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2014年7月24日 (木)

雨降山考(13)

B14072301

積乱雲は、ますます発達しているように観える。

気になるけど、とりあえず先へ進もう。

B14072302

阿夫利神社本殿。もとより新しいもので、現在の形になったのは、

明治の廃仏毀釈、神仏分離以後のことだ。

それまでは、既述のように、大山寺の不動堂が在った。

往時の、大山の中心は、この不動堂で、

謂うまでもなく、本尊は不動明王である。

何故、不動明王なのか。そして、何故、阿夫利神社になったのか。

B14072303

神仏分離以降、祭神は、大山祇神ほか、三神とされた。

近代になって、記紀神話、風土記、延喜式などを元に、

現地の伝承を加味して、それらしく、付会されたもので、

あまり参考にならない。

名称も、既に延喜式の神名帳に載っていた「阿夫利社」から、

あらためて、採られたようだ。

ついでながら、このような「復古調」は、

各地の神社に観られるので、注意する必要がある。

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中世世界では、修験者たちの手によって、

山内に、多数の摂社が建立されたが、

「阿夫利社」の神体だけは、山頂の磐座に由来すると云われ、

「石尊権現」と呼んだ。

まさに「石神信仰」の古態を示して居たわけだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月23日 (水)

雨降山考(12)

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やれやれ、例によって、遥か連なる石段であることよ。

午後の日差しも強し…

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真新しい、立派な石段だ。

寄進した、各地の大山講の石柱と石灯籠が林立する。

一段昇って、頂上のほうを観上げると、

何時の間にか、もくもくと、積乱雲が湧いて居る。

もしやと、胸を過るのは、

この雨降山(大山)の霊験のことであろうか。

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振り返って、眺望を確かめる。

既に、息が切れとるわい。

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ズームアップして、江ノ島を捜す。

夏の靄で判り難いが、やや上方中程、相模湾上に認め得る。

もとより、江ノ島も、龍神の在す霊験所、

当地、雨降山との関わりが、浅かろうとは想われない。

紅白二頭の龍の、頭と尾で繋がると云う、

伊豆山と箱根権現との関係にも似る。

一寸、雨降山信仰を読み解いてみようか。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月22日 (火)

雨降山考(11)

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ケーブルの終点、阿夫利神社駅。

標高700m、大山(1252m)のほぼ中腹だ。

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改札を出ると、さすがに涼風が頬を撫でる。

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「異界」に足を踏み入れたことを、実感させる標識ではある。

同様なものを、何処かで観たような…(御岳山だったか?)

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やや進んで、参道の入り口に至り、駅を振り返ってみる。

さて、神社へ向かおうか。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月21日 (月)

雨降山考(10)

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大山寺、かつての葬送地=「来迎院」が在った山腹は、

沢筋で、深い山襞の底、つまり「谷」になっている。

山内では、彼の世と此の世の境目に、

最も相応しい場所と観られたのではなかったか。

暗く、じめじめとした「谷」は、往時も変わらなったと想う。

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さて、ケーブル駅へ戻る。

ホームで、札所廻りの人と往き遇う。

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登りのケーブルがやって来た。

おっと、向こう側のホームだ。

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慌てて、保線橋を昇って戻り、飛び乗った。

終点の阿夫利神社駅へ向かおう。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月20日 (日)

雨降山考(9)

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現在の大山寺の伽藍は、廃仏毀釈後の、

明治十八年に、再建されたものだ。

その前に、当所に在った「来迎院」の痕跡は、

境内に散らばる、石像物から、偲ぶしかないが、

もう一つ下の平場に、古い堂舎群も残っていた。

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廃仏毀釈の間、使われていた「前不動堂」(右)と、

「倶利伽羅堂」(左)である。

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後者は「龍神堂」あるいは「八大堂」とも呼ぶ。

大山の、「雨降山」たる由縁、龍神を祀った、重要な堂だ。

山内では、現存唯一、最古の建造物で、寛永十八年(1641)

家光寄進だそうだ。

でも、些か荒れ果てて居るのは否めない。

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かつては、周囲の緑に映えたであろう、丹塗りも剥げ落ち、

無常の様を晒すのみか…

(捨身 Canon S110)

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2014年7月19日 (土)

雨降山考(8)

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他の霊山と同様、この山は死者の霊が集まる場所だった。

麓の相模川中流域に、こんな風習が伝わっている。

「百ヶ日供養」あるいは「茶湯供養」と呼ぶ。

即ち、死後、百日か百一日目に、遺族が大山の来迎院へ登り、

読経、供物を捧げ、茶葉を浮かべた湯を供える。

死者には、死後百日の間は、水のみを供え、百ヶ日が明けると、

初めて、茶を供えられるからである。

B14071802

死者は、四十九日まで、その家の棟木の下に留まり、

五十日になると、冥界へ旅立つ。

旅の間、四十九日法要で供えられる、四十九個の餅を弁当にし、

朝夕仏壇に供えられた水を飲む。

そして、百日ヶ目に、極楽の門に辿り着くと云う。

大山々中の来迎院が、極楽の入り口に見立てられたわけだ。

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明治の廃仏毀釈で、来迎院での「百ヶ日供養」は途絶えてしまう。

しかし、こま参道脇の、浄土宗寺院「茶湯寺」に受け継がれ、

今日に至っているそうだ。

心優しい伝承があった。

この供養に赴く途中、死者と生き写しの人に、

往き逢えると云うのだ。その為に、生前の好物を用意して置き、

死者と似た人に手渡すとも。

そう謂えば、筆者も、幼少の頃、横浜・金沢の村墓地で、

往き逢った母娘に、同じ事を言われ、

両手に一杯の菓子をもらったのを想い出した。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月18日 (金)

雨降山考(7)

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実は、明治維新以前、今の場所に不動堂は無く、

やや上の、阿夫利神社下社の辺りに在った。

しかし、廃仏毀釈で徹底的に破壊されてしまう。

明治中期になって、移転、再興されたものなのだ。

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では、その前は、何が建っていたのだろうか。

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「来迎院」と云う、塔頭が在ったらしい。

おそらく、阿弥陀仏を安置した、「三昧堂」や「無常堂」のような、

山内の、葬送に関わる施設ではなかったか。

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其処彼処に、石像物が目立つのは、そんな理由かもしれない。

比較的新しい、近世の五輪塔が多いようだ。

興味深い宗教儀礼が伝わっているので、

次回にでも、紹介しよう。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月17日 (木)

雨降山考(6)

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周囲から一際目立つ、ピラミダルな山容と、

雨雲を呼ぶ、特異な「ミクロクリマ」(微小性気候)のせいで、

この山が、古代より霊地であったことは、疑えないだろう。

中世以前に、山林修行者が入り、山頂の磐座(いわくら)で、

何らかの祭祀が行われていたと想う。

中世世界では、専ら、山岳修験の道場として、

諸国の山伏が、参集したはずである。

B14071602

大山寺は、天平勝宝四年(752)東大寺初代別当の、

良弁僧正(689~774)が開創したと伝わる。

彼が、相模の出身(近江説もあり)であったことに、

関わるとも云うが、確かめようがない。

遅くとも、中世末までには、不動堂を中心とした堂舎が、

山内に立ち並ぶようになったと考えられる。

B14071603

もとより、神仏習合であったので、

熊野社、白山社、諏訪社、浅間社などの摂社も、

完備していたであろう。

B14071604

本尊は、不動明王となっているが、

やはり、気候=雨=水との繋がりで、

観音、龍神、雷神を想起するのが、自然である。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月16日 (水)

雨降山考(5)

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ケーブル大山寺駅の保線橋上からの眺め。

急斜面なので、高度感十分だ。

橋を降りた向こう側、ホーム裏手に参道入り口がある。

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林間を往く道だ。

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五、六分歩くと、古い石塔群と石垣が現れた。

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この石段を登れば、大山寺本堂、不動堂である。

もう、お判りだろうが、大山は本来、修験道場であり、

山全体が典型的な神仏習合の理に法って、設定されているのだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月15日 (火)

雨降山考(4)

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ケーブルの始発駅に着いた。

20分間隔で運行しているようだ。

B14071402

終点の阿夫利(あふり)神社までは、六分少々か。

B14071403

ぐんぐんと登って往くが、振り返って望む眺望で、

さっきから、気になったことがあった。

ちょうど視界の真中辺りに、江ノ島が観えるのだ。

と謂うのも、今まで探索した、いくつかの霊験地では、

勝地=眺望の良さが、重要な条件であり、

其処から観える光景にも、深い意味が与えられていたからだ。

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ケーブルの中間駅、大山寺(おおやまでら)で降りることにしよう。

大山(雨降山)信仰を知るには、神社より前に、まず此処である。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月14日 (月)

雨降山考(3)

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こういったプロムナードを歩くのは、わくわくする感じだ。

次に、何が現れるのか。

意表をつくものだったりすると、実に愉しい。

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アーケードの切れ間に芋畑。

御師宿の自家用か。魅かれるな。

当所に棲まうも、一興哉…

でも、傍らの石垣に、危険な急傾斜地を示す看板あり。

B14071303

土産物店に設けられた桟敷の直ぐ下は、渓流(大山川)だ。

京、愛宕山の清滝川へ想いを馳せて?

涼味を満喫するも宜し。

B14071304

ふと振り返れば、もう、こんなに登ってきたのだ。

眼下に、相模の平野と海を望む。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月13日 (日)

雨降山考(2)

B14071201

話は、一寸戻るが、バスが登って来たのは、大山参詣道の、

最終ステージの部分である。

大山中に発する、清流(大山川)に沿った沢の、

急坂を上り詰めて往く。

その道行を、恰も、京都の愛宕山、清滝川に見立てて、

いくつかの聖地が用意されている。

まず「愛宕滝」、そして、上の「良弁滝」(ろうべんのたき)だ。

由緒は後述するとして、とりあえず、先へ進もう。

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バス停から、やや登ると、石段を連ねた、参道へ導かれる。

「こま参道」と呼ばれる、プロムナードだ。

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土産物店や、茶店のアーケードが続き、

何ともレトロな、昭和の雰囲気が愉しめる。

B14071204

かと想えば、こういった御師(大山では先導師と云う)の、

宿坊が現れたりする。

この参道を辿りながら、少しづつ、しかも確実に、

我々は、過去=異界へ誘われて往くわけだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月12日 (土)

雨降山考(1)

B14071101

寓居の在る多摩丘陵の、南西方向に、

ちょうど富士を遮るように起ち塞がるのが、大山(おおやま)である。

ピラミダルな姿で、よく目立つので、予々気になっていた。

一寸、往ってみようと想い立つ。

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麓近くの伊勢原から望むと、よりピラミダルな山容になる。

「雨降山」(あふりやま)とも呼ばれ、

この山の上に雲が湧くと、必ず雨が降ると云う。

そうい云えば、何だか怪しげな雲が見えなくもないか…

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伊勢原より路線バスに乗り、終点の大山ケーブル駅で降りた。

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既に、深山幽谷の気配が漂う。

さて、登り始めよう。

(捨身 Canon S110)

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2014年7月 8日 (火)

元八王子の宿跡を彷徨う(13)

B14070701

大久保長安は、初期徳川政権の財政を一手に握り、

辣腕を振う。石見銀山、佐渡金山の経営を改善し、

生産を飛躍的に増大させたのも、彼の功績と云われる。

本領の八王子宿の陣屋の他に、各地に屋敷を構え、

一族の羽振りのよさは、大したものだったらしい。

例えば、佐渡への巡視には、多数の猿楽者、

道々の輩を同道するなど、豪奢な道中を「演出」した。

現在、佐渡島内で村落能が伝わるのも、

大久保長安の足跡とする説がある。

しかし、慶長十八年(1613)彼が死去すると、

突如、家康の命により、家名は断絶、

子息全員の処刑という、苛烈な粛清に遭う。

墓も暴かれ、晒される程、異常に徹底した処分だった。

原因は諸説あるのだが、未だはっきりしない。

彼の出自や仲間たちに、関わるのであろうか。

以後、江戸幕藩体制では、河原者、穢多、非人身分の差別が、

法制化し、牢固としたものになって往く。

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八日市庭の、河原者の宿は、近代まで残った。

東国で、百軒を超えると云う規模は尋常でなく、

どうして、そうなっていったのか、よく判らない。

明治維新後も差別は続き、それを憂いた地元の先覚者が、

カトリックの教会堂を建てた。

司祭は常駐でないが、信徒は世代を重ね、

今も、確かに守られている。

B14070703

かつての「河原」の景観は一変しただろう。

戦後、分譲住宅が誘致され、町名を変える。

市営、公団の集合住宅も、続々と建った。

住民の八割以上は、当地の、深い深い歴史など、

知る由も無い外来者ばかりだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年7月 7日 (月)

神保町で「元祖冷やし中華」を食す

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久しぶりの晴れ間に誘われて、都心へ出た。

想い立って、御茶ノ水で降りる。

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懐かしの、神保町すずらん通りである。

所謂「元祖冷やし中華」を食べたくなり、

とある老舗中華料理店を目指したのだ。

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なるほど、こんな味か。

もとより、クラシックなスタイルを墨守して居る。

この店で最初に供されたのが、昭和八年と伝わっているから、

爾来、冷やし中華八十有余年の歴史と云うこと哉…

………………………

元八王子のほう、締めに入ります。もう一寸お付き合いの程を…

(捨身 Canon S110)

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2014年7月 6日 (日)

元八王子の宿跡を彷徨う(12)

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小田原北条氏の治世下、繁栄を謳歌した八日市庭と宿だったが、

既述の如く、天正十八年(1590)六月二十三日の秀吉方による、

八王子城攻めで、焼亡するに至る。

でも、おそらく、河原者の宿のほうは、焼け残ったのではないか。

同年八月一日、家康の関東入府を迎える。

北条氏が造り上げた領国体制は、優れたものだったので、

ほぼ、その枠組みは、受け継がれたようだ。

江戸、川越、小田原など、旧北条氏の諸城が、引き続き、

拠点として使われ、城下の宿、市庭も存続していた。

その中で、江戸城下の宿に居たらしい、後の弾左衛門の先祖が、

家康に取り立てられ、関八州の穢多、河原者、非人頭として、

頭角を現して往くことになる。

八王子城は廃城となったが、南西側に甲州道中が整備され、

新たに、現在の八王子宿が立てられた。

計画の全てを立案したのは、家康の寵臣、大久保長安である。

彼は、奈良春日社に属する、大和猿楽の金春流、大蔵氏の、

猿楽師の出ながら、武田信玄に財務能力で重用され、

武田家滅亡後は、家康にも見出されたわけだ。

戦国期、猿楽各座は、パトロンを求めて、諸国を流浪していた。

大蔵家も、旅の途上、武田家に寄宿し、拾われたのだろう。

そんなキャリアのせいで、彼は、様々な芸能者、道々の輩と、

昵懇だったらしく、もとより河原者も、仲間内に入ったから、

河原の宿々を、篤く保護したと想われるのだ。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年7月 5日 (土)

元八王子の宿跡を彷徨う(11)

B14070401

つい、筆を滑らせ「宿」と「市庭」を混同して、書いてしまっているが、

もともと、中世世界の両者は、ほぼ重なっており、

併設されるのが常だからだ。∴≒って感じか。

しかも、其処に「河原」が加わってくる。

三者が、いかに構造的に繋がっていたか、こんな文書がある。

駿河の今川義元は、天文十三年(1544)領内の市庭を往来する、

連雀商人に対し、「河原者」が生産した、薫皮(ふすべがわ=

 鹿皮をなめし、燻して防水性と強度を高めたもの。

 武具・甲冑・馬具の重要な材料)各種毛皮、滑皮(なめしがわ)

を他国へ持ち出し、商ってはならないと命じた。

…蓮雀衆が皮革類を他国へ商っていると云う風聞がある。

 彼らの荷物を、随時改め、立ち廻り先も捜索し、

 皮製品を商っていないか尋問せよ。

 もし、禁制を破って、所持している者が見つかったならば、

 身柄と荷物を差し押さえ、当家の奉行へ報告せよ。

 また、京の貴族や寺社に仕える商人(神人、供御人)だから、

 免税だと称して、当国の市庭で商う者に課している「役銭」を、

 納めない者がいたら、厳しく取り立てよ。

 但し、この件を口実にして、蓮雀商人が扱っているところの、

 小間物、薬品、反物等、商品を差し押さえるなど、

 彼らの通常の商売を妨害してはならない…

「皮止め」(かわどめ)と呼ぶ、軍需物資を対象とした、

一種の経済制裁だ。おそらく、当時、関係が悪化していた、

甲斐・武田氏を苦しめるためであろう。

有名な塩の禁輸=「塩止め」(しおどめ)と同様の措置である。

特に興味深いのは、宿と市庭に集う連雀衆が、

行商の他に、河原者から仕入れた皮革を商っていたことだ。

「宿―市庭―河原」を結ぶ、キーパースンが連雀商人であり、

河原者たちとの密接な付き合いと、今の総合商社のような、

役割を果たしていたのも窺え、面白い。

連雀商人たちは、顧客から頼まれれば、

どんなものでも(女性でも!)調達したと云うのは、

やはり、確かなようだ。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年7月 4日 (金)

元八王子の宿跡を彷徨う(10)

B14070301

筆者は、中世世界の宿と市庭、そして「河原」は、

そもそも、セットで捉えねばならぬと、睨んでいる。

三者の密接不可分とも云える関係を知るには、

やはり「商人の巻物」に拠る。

「新宿」(市庭)を立てる際に、行われる一連の儀礼である。

連雀衆の頭目は、まず、当該地域の領主たる、地頭のもとへ、

本邦開闢以来、最初の市庭の商品と云われる「櫛」と「針」

さらに商人の象徴=「秤」を添えて持って往く。

地頭からは、市神の住吉明神の前に、

兜、太刀、刀が奉納される。

さらに、北の方(地頭の奥方か?頭目の女房か?)が、

白木の弓七張、布十二反、代(銭)十貫を奉納する。

蓮雀衆の頭目は、御幣を捧げ、地面を一文字に、

反ばい(へんばい)を踏み、市神へ祝詞をあげる。

周囲には幔幕を張り、山伏が大般若経を読む…

様々な儀礼が滞りなく済むと、最後にクライマックスがやって来る。

馬二疋の鞍に壷を掛け、100~200本の針を入れて、

馬上から、四方へばら撒くのである。

透かさず「河原者」が登場して、この針を拾い取る。

それを合図として、「新宿」での取引が始まったのだ。

「河原者」と「針」の繋がりは既にふれたが、

此処でも、キーワードとなったわけだ。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年7月 3日 (木)

元八王子の宿跡を彷徨う(9)

B14070201

今、当地のことを、どう書き出したらよいか迷っている。

残念だけれど、今日に至るまで、難しい問題の儘だからだ。

でも、出来るだけ、中世史を学ぶ者の、

端くれとして、立場を外さずに、始めるしかない。

戦国期、小田原北条氏の領国では、本城=小田原を始め、

後の「近世城下町の萌芽」と考えられる、

(敢えて、筆者は城下町と云う用語は使わない)

都市的な場を、核となる各支城の膝元に発達させた。

伊豆・韮山、武州・小机、鉢形、川越、江戸…

そして、八王子である。

必ず、重要な街道と、水運(河川か内湾)に沿わせて、

市庭と宿(これも、近世の宿とは区別する)が置かれた。

もう一寸前の時代なら、既に在った都市的な場に、

吸い寄せられるが如く、領主たちが居館を建てたと想う。

戦国期に入ると、今度は、領主側が主体的、積極的に、

計画開発して、居館近くに誘致するようになったのだ。

八王子城にとっての、ここ八日市庭も、

そんな経緯を経て、生まれたと謂っていい。

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多くの商人、職人、宗教者、芸能者たち、

=「道々の輩」が集められた。

まず、諸国を自由に廻る、山伏、御師、時衆、猿楽能たちは、

諜報活動に持って来いだった。

武具甲冑、刀剣、馬具製造に関わる衆(軍需産業だ)は、

とりわけ重視されたであろう。

主な原材料となる、牛馬鹿革の加工技術を持つ、

「皮多」(かわた)と云われた「河原者」も、

直接支配されたことを示す、文書が残っている。

彼らは、宿、市庭最寄の「河原」に集住させられた。

中世も後期に入ると、京の「鴨の河原」の先例に習って、

「河原者」に対する卑賤視の風も、

固まり、強まってきたのは否めない。

当時の「河原」とは、決まって水害に遭う悪所、全般を呼んだ。

水が全ての「穢れ」を流してくれると云うわけだ。

既述のように、八日市庭は扇状地で、大小の河川が流れ、

常に水害に見舞われる「河原」には事欠か無かった。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年7月 2日 (水)

元八王子の宿跡を彷徨う(8)

B14070104

湧水の水際を走る古道を辿る。

くねくねと住宅街を抜け、陣場街道の現都道と交わる直前、

宿跡の、東端の結界と想われるところへ出た。

B14070101

摩滅して、殆ど正体が判らない石造物が祀られる。

「賽の神」と云うことだが、二体とも「蓮華座」を伴うし、

微かに残る両手の仕草などから、地蔵のようだ。

いずれも何故か、首から上が欠損しているのに、

意図的なものを感じざるを得ない。

何か、隠された由緒を持って居るのだろうか。

ちゃんと花と水が供えられ、前掛けを誂えてあるので、

確かに、支える人々が健在なわけである。

自然と手を合わせたくなった。

B14070102

さらに、宿跡の奥部へ入って往く。

此処から先は、一寸困難な問題も含まれるので、

細かな住所標示は控えさせて頂こう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年7月 1日 (火)

元八王子の宿跡を彷徨う(7)

B14062902

住宅地の中に、忽然と現れた泉。

往時は、どうだったのだろうか。

おそらく、水際を古道が通っていたはずだ。

もとより、直ぐ近くに市庭がある。

中世の旅人たちが、背負った荷物を下ろし、

暫し憩いを愉しんでいたのか。

笈を置く山伏。杖と笠を横たえる時衆。

千駄櫃に凭れる連雀商人…

実は、皆見知った仲である。

この前、往き会ったのは、相州当麻宿か、武州六浦津だったか。

近頃は、富士へ参る道者の多いことよ。

吉田宿の賑わいは大したものじゃわい。

でも、あの関銭の高さは頂けぬ。

わしらは、関銭を免れるが、道者衆の嘆きはのう。

水を汲む女たちの笑い声、水を跳ねる童を嗜める声…

ふと、そんな光景を想ってしまう。

B14062903

水は、樹齢四五百年の「大榎」の根元から、

今も変わらず、湧き出でる。

源は、八王子城山麓より降る、扇状地の伏流水であろう。

B14062901

とりわけ、日照りの夏は、有難さが身に沁みたに違いない。

「うれしや水、鳴るは滝の水、日照るとも絶えず…」

(捨身 Canon G1X)

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