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2014年8月の記事

2014年8月31日 (日)

夏の終わり(1)

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多摩丘陵の、谷戸入り口に在る熊野社。

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今宵、八月終わりの週末が祭礼である。

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この辺りには、相模・橋本宿を経由し、大山道を辿って、

熊野山伏や、御師が通ってきた足跡が残っているようだ。

熊野社の他に、鈴木姓を名乗る家もそうだろう。

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一方、海路、太平洋岸から、江戸湾へ達し、

品川湊を経て、多摩川を遡上するルートも考えられる。

その線上の、武蔵府中はじめ、

常滑産大壷が、点々と出土しているからだ。

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いずれにしても、中世世界の、熊野の人々の行動力には、

驚かされるばかりだ。

…江の島語り、閑話休題して、今少し続けます…

(捨身 Canon S110)

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2014年8月30日 (土)

江の島に至る(17)

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江の島の南側は、所謂「海食台」地形で知られる。

テラス状の岩場は、関東大震災で隆起したものだ。

地震で隆起と沈降を繰り返し、波で侵食されて、

今の形に至ったわけだが、一年の侵食進度を大よそ見積もると、

中世世界の江の島の大きさは、現在の1.5倍以上になると云う。

確かに、鎌倉後期の一遍聖絵断簡を観ると、そんな感じだ。

さて、これから、海食洞の「岩屋」へ入ってみる。

その前に、島内の石造物を概観して措こう。

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「岩屋」へ下る石段の前に在った石鳥居の銘。

嘉永四年(1851)辛亥と読める。

ついでながら、ペリーの浦賀来航は、嘉永六年(1853)だった。

全体に蛇文の浮き彫りが施された、優美な石鳥居だ。

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下って、参道入り口の、青銅鳥居の銘だ。

文化四年(1821)の再建で、ベアトの古写真にも写っている。

上から、右へ「願主」と読め、寄進者の名が並ぶ。

江戸の大店の、檀那たちだろう。

「江之島屋」「伊勢屋」「熊野炭問屋中」「熊野屋」「駿河屋」

屋号が皆、太平洋岸に因むのが、興味深い。

江の島と熊野の結びつきか。こっちも想像を掻き立てるな。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月29日 (金)

江の島に至る(16)

B14082801

間宮一族とは、近江源氏、佐々木氏の一流と云われ、

伊豆国間宮荘(静岡県函南町)へ移り住んだ人々である。

室町中期頃までには、関東公方および関東管領上杉氏に、

仕えていたが、伊勢宗瑞(北条早雲)の伊相進出に際して、

いち早く臣従したようだ。

相模東部(湘南)から、武蔵南部(横浜市磯子区)辺りを領し、

かなり威勢を張っている。

舟運に秀で、小田原北条氏の水軍を擁する立場にあった。

宝徳二年(1450)江の島に逃げ込んだ関東公方足利成氏は、

どうも、島内の船着場に遊弋する、彼らの水軍を当てにして、

海路、房総へ高飛びする算段だったらしい。

岩本坊別当職を得た間宮一族は、江の島の水陸の利を、

最大限活用し、恰も「海の城」如く仕立てていたのはないか。

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実は、この間宮一族のように、最寄の有力霊験所へ、

一族の子弟を送り込んで、掌握した例は、結構ある。

伊勢宗瑞入部以前の、小田原城主だった大森氏は、

箱根権現別当職を得ていた。

後に小田原北条氏も、宗瑞の四男、幻庵・宗哲を同職に据える。

また、同じく北条氏重臣、金沢六浦荘・釜利谷領主の伊丹氏は、

江戸湾の水運を押さえ、浅草・浅草寺の別当職を得たと云う。

もとより霊験所は、宗教のみならず、軍事経済交通でも、

外せない要地なのである。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月28日 (木)

江の島に至る(15)

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茶店の窓側桟敷席、海側から観るとこうなって居る。

平場が希少な江の島特有の、絶壁に支柱を渡す造りで、

昔から、こんな風ではなかったか。

やはり、かなりのゾクゾク感は否めないな。

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岬を一寸廻り込んで、やや引いたアングルで。

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その店内の様子。

ちょうど昼時で、賑やかだ。

さてと、中世世界の「江の島三坊」のことを続けよう。

鎌倉後期、江の島の「大檀那」は北条一門だった。

彼らが滅亡すると、関東公方足利家がそれに変わったようだ。

江の島明神が、鎌倉の守護神であることは揺るがない。

後に享徳の乱(1454)で、鎌倉を放棄して、

古河へ移る足利成氏は、それに先立つ、宝徳二年(1450)

関東管領・上杉氏の家宰、太田資清=道真(道灌の父)

長尾景仲らに攻められ、江の島へ逃げ込んだ。

世に「江の島合戦」と呼ぶ。

成氏は、年来、江の島・岩本坊の別当、間宮一族と、

主従関係にあったらしく、そのつてを頼ったのだろう。

江の島は、武装した僧たちに守られ、

恰も、城の如くだったに違いない。

間宮一族とは、どんな人々だったのだろうか。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月27日 (水)

江の島に至る(14)

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南側の海岸に下りてきた。

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この荒涼感は、

此の世と彼の世の境界=「河原」と通じるものがあるな。

箱根山中の「地獄」とか「賽の河原」を想い出した。

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中世世界の「江の島・三坊」の話を続ける。

実は、鎌倉期に「三坊」が在ったと云う記録はない。

鶴岡八幡宮寺の供僧が兼務した、一人の、

金亀山与願寺(江之島寺)「別当」がトップだった。

もとより、れっきとした密教僧で、官僧だったはずだ。

それが、室町前期に「三坊」に分かれたらしい。

それぞれの坊に、別当(計三人)が置かれ、

岩本坊の別当が「惣別当」を称して、

江の島を管領(統括)するようになっていった。

江の島のような「神宮寺」の僧たちには、山伏や、

商人、職人、芸能者、道々の輩を生業にする者が多く、

もう「僧」とは呼べぬ生活を送る集団であったろう。

肉食妻帯OKで、場合によっては世襲もあり得た。

彼らは武装していたので、江の島は「城」の如くなり、

「巡礼者の落とす初穂や津料関銭もバカにならぬ」と、

周辺の領主より、目を付けられ始める。

領主たちは、一族の子弟から「別当候補者」を送り込もうと、

算段を廻らすようになった。

謂わば、「江の島乗っ取り」である。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月26日 (火)

江の島に至る(13)

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石鳥居をくぐって、一寸振り返る。

「しらす丼」を売る店。「江の島丼」と云うのもある。

吾妻鑑に、頼朝が本坊へ鳥居を寄進したと云うが、

もとより現存していない。

この石鳥居は、幕末嘉永年間に講中の人々が寄進したものだ。

江戸後期、江の島にも、各地に「講」が存在した。

その痕跡は、島内各所の石造物で確認出来る。

「講」が組織されたのだから、御師もいたはずである。

それについては、説が分かれるようだが、筆者は、

「江の島御師」は居たと想う。そうでないと、江戸期通じての、

あれほどのプロモーション活動(歌舞伎まで動員した!)が、

説明し難いのだ。

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狭い急傾斜の石段を下って往く。

石段に沿って、ひな壇のように、茶店が連なる。

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店内、窓側の桟敷は、眺望が売りのようだ。

その下は、おそらく絶壁か。後で観上げてみよう。

こういった店は、筆者の幼少期から、

あまり変わっていないのだろう。

この齢になると、郷愁だけは、そそられるものだが。

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そろそろ、石段の終わりが観えてきた。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月25日 (月)

江の島に至る(12)

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三つ目の坊「中之宮(坊)」(現・奥津宮)だ。

江の島の本宮(坊)と位置づけられる。

本来、この下の海食洞「岩屋」がそうなのだが、

災害や荒天で、難渋することがあったので、

当所、西端の山上に、神体を移す「御旅所」と拝殿を設けたのだ。

「岩屋本坊」であるから、「岩本坊」とも呼び習わす。

近世初頭に、京都仁和寺より、院号を得て「岩本院」となった。

因みに、歌舞伎の「白波五人男」の一人、「弁天小僧」は、

「岩本院の稚児あがり」と云うことで有名だ。

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では、中世世界の江の島・三坊の様子はどうだったのか。

鶴岡八幡宮寺支配下の僧房であったことは、既に述べた通りだ。

端的に謂えば、僧侶が住する仏教寺院である。

八幡宮寺がそうであったように、彼らは密教僧だった。

否、より実態に即して謂えば、修験者、山伏の集団に他ならない。

古代、江の島は立ち入りを忌む、神座す島であったろう。

唯、山林修行者が渡るのみで、南側の海食洞がその場所だった。

役行者や、弘法大師伝説が残るのも、宣なる哉なのだ。

吾妻鑑に云う、最初に、岩屋へ弁財天を勧請した文覚も、

同じ文脈上にあるわけだ。

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さて、「岩本坊」を過ぎて、海食洞「岩屋」を目指そう。

この石鳥居をくぐると、直ぐ急勾配の石段が待っている。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月24日 (日)

江の島に至る(11)

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稜線の参道を、アップダウンしながら進むと、

江の島の二つの山が連結する、鞍部を通過する。

この辺りを「山ふたつ」と呼んでいる。

括れたように狭隘な地形で、南北両側の海が望める。

高所が苦手な人(もとより筆者も含む)には、

一寸、ゾクッとくるポイントだ。

どうして、こんな地形になったのかと云うに、二つの説がある。

南北両側の海食と断層である。

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南側の海を覗いたところ。

手前へ深く切れ込んだ絶壁で、その方面の専門家によると、

崖面に断層が走っているのが観察出来るそうだ。

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北側(陸側)の海も、直ぐ観通せる。

こうやって、江の島の地形を辿ると、かつての地殻変動が、

かなり激しいものだったことが想い遣られる。

「江ノ島縁起」に、五頭竜が暴れたと云うのも、

地震、津波、山塊崩壊、土石流、等々…諸々の天変地異の、

象徴だったのかと、合点が往くわけだ。

それにしても、「二万年の記憶」とは、縄文を軽く突き抜け、

石器時代に遡るのか。

歴史の範疇を超えちまうな。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月23日 (土)

江の島に至る(10)

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「上之宮(坊)」(現・中津宮)を右手に観て、尾根道の参道を進む。

この社殿は、元禄二年(1689)の再建と云うから、

江の島では、現存最古の建造物だろうか。

手前の石灯籠や、境内の石造物群は

江戸の歌舞伎はじめ、芸能者たちが奉納したものだ。

島内には、その他にも、石造物が見出されるが、

多くは近世のもののようだ。後述しよう。

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稜線の起伏に沿って、石段を上下する。

参道の両側には、茶店や民宿が建ち並ぶ。

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江の島の地形を、大まかに謂えば、

二つの丘を繫げたような形になっている。

これから、参道がやや下りになって往くのは、

その連結部分、稜線の鞍部へ向かっているからなのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月22日 (金)

江の島に至る(9)

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「下之宮(坊)」より、さらに上へ向かう。

途中の展望台からの眺め。

島の東側だが、手前のヨットハーバーは、

東京オリンピックに際して、埋め立てられたものだ。

海を挟んで、陸側左手の山塊は、

稲村ヶ崎、極楽寺坂、腰越、瀧口山である。

約二万年前、江の島は、その辺りと陸続きの半島だったようだ。

その後の、地殻変動、温暖化による海進(縄文期)

海食などで、現在のような島になったのだと云う。

古代、中世以降は、地震による隆起や沈降を繰り返して、

砂洲を歩いて渡れた時もあったらしい。

一遍聖絵では、片瀬の浜で、渡し船に乗る人々が、

描かれているので、鎌倉後期は陸続きではなかったみたいだ。

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山頂部の、明治期に英人貿易商が造ったという庭園跡で、

見つかった縄文遺跡が、江の島最古の人跡であろう。

さて、二段に分かれた石段を登れば、稜線に取り付く。

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「上之宮(坊)」(神仏分離以後は「中津宮」と呼ぶ)に着いた。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月21日 (木)

江の島に至る(8)

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江の島明神と、箱根権現、伊豆山権現、鶴岡八幡宮寺、そして、

北条氏との繋がりを考えている。

太平記が記す、江の島明神の託宣と北条家繁栄の由来譚は、

何処かで、似たような物語を読んだことがあるなと、

想い巡らしていたら、そう、平家物語だった。

平家物語・巻第三・第二十四句「大塔修理」「厳島託宣の事」

…そもそも、平家が厳島を信仰するようになったのは、

  鳥羽院の頃、清盛が安芸守であった時、

  高野山の大塔の修理を命じられたことに始まる。

  修理が完成し、清盛が高野山奥院へ参拝した折に、

  何処からとも知れぬ、眉白く、鹿杖をついた老僧が現れ、

  「この高野山は、密教を保持して、今も衰退していないが、

  その垂迹である、厳島が荒れ果てているのが残念である。

  既に大塔の修理は成った。さらに、厳島の修理も行えば、

  そなたの官位昇進は、世に比べる者もないほどになろう」

  と物語り、かき消すが如く見えなくなった。

  清盛は鳥羽院に奏聞し、厳島の修理に取り掛かった。

  その修理も無事終わり、清盛が厳島に参篭すると、

  夢に、みづらを結った童子が現れ、

  「我は(厳島)大明神の使いである。お前はこの剣を持って、

   天下を平定し、朝廷の守りとなれ」と、銀蛭巻の長刀を渡した。

  夢が覚めてみると、枕元に、その長刀が在った。

  果たして、大明神の託宣も、

  「お前は忘れたのか。高野山で弘法大師の口を借りて、

  言わせたことを。但し、悪行あれば、一門の繁昌も、

  子孫までは、とても及ぶまいぞ」

  と云うのもので、まことに目出度いことなのであった…

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「三大弁才天」と云うのがある。

いずれも「島」で、安芸の厳島、近江の竹生島、相模の江の島が、

挙げられており、中世の中頃までには、広く認知されていただろう。

どうも、江の島は、東国の厳島、竹生島に、

見立てられていたのではないか。

様々な難題が惹起した鎌倉後期、平姓を名乗る北条氏は、

かつての平家一門を自覚するところが強まり、

(実は、北条氏=平氏説は、現在まで実証されていない)

平家物語の、清盛厳島託宣譚に見立てた「神話」を、

江の島明神に託したような気が、しないではないのだ。

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(捨身 Canon G1X)   

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2014年8月20日 (水)

江の島に至る(7)

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おっと、行列のようだ。

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茅輪をくぐって、拝殿まで続いている。

向こうに観える八角堂は、弁天堂だ。

本来は本尊なのに、その座を譲って、摂社になっているのだ。

今の祭神は、明治の神仏分離であらたに設定された、

「宗像三女神」で、かつての三坊(下、上、中の各坊、または宮)に、

それぞれ分祀している。

そのことについては触れない。

関心は専ら、中世以前の姿である。

中世世界の江の島を描いた絵画史料は一遍聖絵だけだろう。

「鎌倉入り」を、北条氏に阻まれた形になった一遍は、

江の島を臨む片瀬の浜で、踊念仏を挙行する。

この時、一遍は、江の島へ渡ったと云う伝承が島内にある。

果たして、どうなのだろうか。

一遍聖絵では、一遍が訪れた霊験所は、

ほぼ例外なく、参拝の様子が描かれた。

赴かなった霊験所は、遥拝はするが、遠景のみの描写だ。

例えば富士山、江の島もそうではなかったか。

太平記の挿話のように、当時(鎌倉後期)江の島は、

北条氏の守護神として(殆ど氏神と云ってもいい)流布していた。

鎌倉・山内の木戸口で、執権・北条時宗と対峙した一遍だ。

敢えて、避けたのかもしれない。

それを暗示する意味で、聖絵に、愛弟子たちが江の島の遠景を、

描き込んだとしたら、かなり意味深だと想うのだが。

B14081903

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月19日 (火)

江の島に至る(6)

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実は、参詣者の便を図って、有料のエスカレーターが、

各所に設置されているだが、敢えて、その助けは得なかった。

今まで探索した、霊験所を例を守ったまでである。

尤も、諸国の名のある霊験所には、既に御案内の通り、

もっと、もっと、キツイ石段が、いくらでも存在する。

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さらに上へ。

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最初の社殿が現れた。

今は「江ノ島神社・辺津宮」と呼ぶが、明治の神仏分離以前は、

「金亀山与願寺・下之宮」と云った。

前回、江の島明神、箱根権現、北条氏の深い関係に触れたが、

中世世界の江の島には、上之坊、中之坊、下之坊の、

三坊が在り、鶴岡八幡宮寺の支配下で、別当も兼ねていた。

ひょっとしたら、江の島、箱根、鶴岡八幡宮寺、

加えて、熱海の伊豆山権現は、一体だったと謂えるかもしれない。

言い換えれば、これらの霊験所のネットワークは、

鎌倉、あるいは関東の守護神、そのものではなかったか。

北条一門が、自らのアイデンティティーを、江の島明神に求め、

ことさらに、太平記に記されるような「神話」を掲げるのも、

首肯出来るわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月18日 (月)

江の島に至る(5)

B14081701

より、具体的且つ、政治的な?伝承もある。

北条一門の繁栄と、三つ鱗紋の由来を、

江の島明神の利生に求めたものだ。

太平記、巻の第五、「弁財天影向(ようごう)の事」に曰く。

…そもそも、この一門が九代に及んで、天下を保ったのは、

 故あってのことである。

 鎌倉草創の砌、嚢租北条四郎時政は、江の島に参篭して、

 子孫繁昌を祈願することがあった。その二十一日目の夜、

 明け方頃、緋袴に柳(薄い青色)裏の衣を纏った、

 美しい女房が現れ、このように託宣した。

 「お前の前世は、箱根権現に仕える僧であった。

 彼は法華経六十六部を書写し、

 諸国六十六の霊験所へ納めた。

 その功徳によって、お前は再び、

 この国に生まれることを得たのだ。

 やがて、子孫は日本の主となって、栄華を誇るであろう。

 但し、その振る舞いが、人の道に背くことあれば、

 七代を超えることはないであろう。

 もし我が云うところを疑うならば、諸国の霊験所を調べてみよ」

 立ち去る女房の後姿を観ると、

 臥丈二十丈(60m)に及ぶ大蛇であった。

 時政は「所願成就しぬ」と喜び、

 大蛇が落としていった鱗三枚を採って家紋としたのである。

 後に、人を遣わして、諸国の霊験所を調べると、

 果たしてその通り、法華経が奉納されており、

 今の俗名と同じ「大法師時政(じせい)と記されてあったのは、

 まことに不思議なことであった…

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この物語は、おそらく太平記の時代、即ち、鎌倉後期から、

南北朝期にかけて、広く流布していたのでないか。

もとより、ネタ元は臭いのだが、出てくる個々の事柄には、

興味が尽きない。

例えば、時政の前世が箱根権現の僧だったと云うが、

その辺りからは、江の島、箱根権現、北条一門の、

確固した繋がりが、窺えるわけだ、

さて、石段を登り続けよう。

一寸振り返って、参道と重なり合う家々の屋根に興を覚え、

さらに向こうの海岸を望見する。

B14081703

ズームアップしてみたら、大変な人出だった。

でも、まるで、別世界の出来事のようだ。

異界から観た、この世とは、こんな感じなのかもしれないな。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月17日 (日)

江の島に至る(4)

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「江之島縁起」に曰く。

…昔、五頭竜が暴れ、人々を苦しめていた。

 欽明天皇の頃(6世紀前半)俄に天地鳴動し、

 天の黒雲より天女が、海中より島が出現する。

 五頭竜は、天女の美しさに惹かれ求婚した。

 天女は、人々を苦しめるのを止めることを条件に、

 五頭竜の望みを受け入れた。

 この二柱の夫婦神こそが、江の島明神となり、

 其の本地は弁財天なのである…

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とまぁ、この手の神話に彩られているのは、

今まで探索した、殆どの霊験地と相似形を成すのだけれど、

確かな史実となると、意外な程少ないのも共通する。

でも、相模湾の白砂青松の浜に、忽然と立ち上がる孤島は、

太古以来、人々に強い畏怖心を抱かせる存在で、

あり続けたのは、疑いようがないだろう。

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養和二年(1182)に至って、漸く検討に値する史実と往き逢う。

吾妻鏡は、頼朝に平氏追討祈願を命じられた文覚が、

江の島の海食洞=「岩屋」に、弁財天を勧請したと記す。

まず、是をもって、江の島の歴史が始まった云えるわけだ。

さて、例によって石段だ。やれやれ…

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月16日 (土)

江の島に至る(3)

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二の鳥居をくぐる前に、参道の路地裏を覗いてみよう。

「江の島」と雖も「島」であるから、生活が垣間見えるわけだ。

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一瞬、鎌倉の谷戸奥へ迷い込んだのではないかと疑ってしまう。

やはり、「湘南の香り」と云うものはあるのだな。

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海岸から直ぐ、急斜面が立ち上がっているので、

狭い路地裏では、彼方此方で、石垣が立ち塞がる。

こんな風情は、観光地とは別もので、悪くない。

さて、この島の歴史を、どこから解き始めようか。

一寸、やっかいなのだが。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月15日 (金)

江の島に至る(2)

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江の島に上陸した。

参道の入り口である。

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ここで再び、幕末期のベアトの古写真を掲げてみる。

彼は、江の島を何枚か撮っている。

同じ参道の入り口だが、

宿が密集して、立ち並んでいる様子や、

道幅(既に石畳だ)も、ほぼ変わっていないようだ。

違いと謂えば、建物の基礎が石積みで底上げされ、

鳥居から直ぐが、海岸だったらしいことか。

B14081403

さて、雑踏を掻き分け、参道を進もう。

原宿の竹下通りの如く、やや勾配がある。

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ますます混雑してきたな。

二の鳥居が観えてきた。

(捨身 Canon G1X/S110)

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2014年8月14日 (木)

江の島に至る(1)

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この季節に、当所を探索するのは、正直辛かった。

暑さも暑し、しかもハイシーズン、

そして、今も、観光地の王道を往く雑踏…

でも、初夏から、富士吉田・御師宿、雨降山・大山寺と、

霊験所を巡り、雨降山より、江の島を遠望するに至って、

どうしても、確かめてみたくなったのだ。

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それは、遠い幼少期、一度だけ訪れた時の記憶でもある。

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もとより、中世世界の因を、ほんの一寸でも、

拾うことが出来たらと、想っているわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年8月13日 (水)

中世世界の巡礼者のイメージ(6)

B14081002

洛中で、まず、観音三十三霊場と云えば、

十一面観音の御座す十六番札所、清水であろうか。

その参詣路に当たるのが、鴨川に架かる五条橋だ。

「上杉本・洛中洛外図屏風」では、木橋として描かれる。

戦国期は、中ノ島を挟んで、橋は二つに別れていたようだ。

定番スタイルの三人の巡礼が、とある小屋掛けを窺っている。

何かを商っているのか、あるいは「橋銭」を取る小屋なのか。

中ノ島は、増水時には水没してしまうから、「河原」である。

この程度の、小屋掛けしか建てられなかっただろう。

もとより「河原」は無主、無租のアジール、

河原者の宿か、市庭に使われることが多かった。

五条橋と云えば、「立君」が想い出される。

辺りが薄暗くなる、「誰そ彼」(たそがれ)時を待てば、

彼女たちに往き逢えるわけだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年8月12日 (火)

中世世界の巡礼者のイメージ(5)

B14081101

戦国期の巡礼者の姿を追って、

「上杉本・洛中洛外図屏風」の中の世界を彷徨っている。

六条、長講堂の門前で、鹿杖(かせづえ)を地面に突き刺し、

路上に筵を広げ、喜捨の投げ銭を受けている二人は、

「鉢叩き」(はちたたき)である。

平安中期の念仏者「空也上人」を始祖と仰ぐ集団だ。

十一月十三日の空也忌から大晦日まで、

洛中を瓢箪を叩き、念仏を唱えながら遊行して、喜捨を乞い、

シーズンオフは「茶筅」を売り歩く。

彼らは、巡礼者や旅人が往来する場所に立つことが多かった。

早速、女性の三人連れが関心を示している。

小袖、垂衣をさげた笠の外出姿は、寺社参詣だろうか。

そう謂えば、女性の巡礼者を観ていない。

それに該当するのかどうか。

でも、長旅のスタイルではなさそうだ。

今後の検討課題としよう。

さて、その背後から窺うのが、男一人旅の巡礼者だ。

「ほう、やって居るわい」と指差し、

腰に下げた合切袋から、銭を取り出そうというわけだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年8月11日 (月)

中世世界の巡礼者のイメージ(4)

B14081001

「巡礼者」という、一つのキイワードがあれば、

「上杉本・洛中洛外図屏風」の世界へ、

際限無く、入って往けそうになる。

前回の、一条小川の「革堂」(こうどう)を出て直ぐの路上で、

再び、二人連れの巡礼を見つけた。

ちょうど、供僧を従えた「聖」(ひじり)と往き逢ったところだ。

「聖」は錫杖を、年老いた僧形の男の頭上に翳し、

巡礼たちは手を合わせる。

 「聖さま。ようやくこの年で、素懐叶い、

  西国三十三所参りへ罷れましたわい。

  ほれ、この倅めが支えてくれまする」

 「ほう、それは奇特なこと。

  道中煩い無きよう、念じて進ぜよう。

  南無阿弥陀仏…別しては南無観世音菩薩…」

 「有り難や…有り難や…」

そんな会話が聞こえてきそうだ。

両人とも、白小袖に脚絆、背に筵を巻き、

年老いた巡礼は、定番の墨書した「笈摺」を羽織る。

もう、かなりの札所を巡ってきた様子で、

真っ黒に、日に焼けているのが判る。

(捨身 Canon S110)

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2014年8月10日 (日)

中世世界の巡礼者のイメージ(3)

B14080901

中世後期(戦国期)の巡礼者のイメージを追い続けている。

やはりと謂うべきか、

「上杉本・洛中洛外図屏風」の世界へ戻ってきた。

あの時代の、あらゆる人々の姿を見つけるに、

この絵画史料の右に出るものは無さそうである。

鳥居は祇園社のお旅所前(上)烏丸高辻と云う。

塗笠を被り、小袖脚絆、笈を背負い、杖を曳く、

二人連れの巡礼が通り過ぎる。

B14080902

洛中、一条小川の「革堂」(こうどう 下)は、

西国観音三十三所十九番札所、千手観音が御座す。

堂上の縁で、暫し休む巡礼たち。

左側の二人は、小袖の上に、袖無しの「笈摺」を羽織り、

背に筵を巻く、定番の巡礼スタイルだ。

手前、参拝を終え、階を降り、堂を後にする二人…

奥の敷居に腰掛け、天井を仰ぐ一人…

こうして観ていくと、当時の巡礼は何故か、

男の二人連れか、一人旅が目立つようだ。

江戸後期の、講中による大勢の団体ツアーとの違いが際立つ。

どんなわけなのか判らないが、

中世世界の巡礼のほうが、現代に通ずる何かがあるのだろうか。

(捨身 Canon S110)

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2014年8月 9日 (土)

中世世界の巡礼者のイメージ(2)

B14080602

手元の史料で、中世世界の巡礼者のイメージを追ってみる。

富士宮(駿河側)浅間大社蔵の「富士参詣曼荼羅図」(重文16C)

去年の秋、念願叶い、実物を観ることが出来た。

この手の、中世寺社参詣図では、出色の出来栄えなのだが、

その中の、戦国期の「富士道者」(どうじゃ=巡礼者)の姿を、

あらためて、確認してみよう。

浅間大社境内の「湧玉池」で、水垢離する「道者」たち(上)

彼らのいでたちは、例外なく、

足袋、脚絆、袴、小袖、笠、頭巾に至るまで、白ずくめである。

中世後期の、ごく一般的な「道者」の出身身分は、

おそらく、江戸後期より幅広く、農民、職能民はもとより、

領主、武士階級も、含まれていたと想う。

飽く迄も、筆者の仮説に過ぎないが、

そういった人々が「白装束」に身を包んでいたのだろうか。

B14080603

と謂うのは、図内のプロの宗教者たちの装束と、

明らかに違いがみられるからだ。

浅間大社の拝殿と本殿の光景(下)右下、石灯籠の両側に、

「柿色の衣」を羽織った男が二人居る。

彼らは、先達たる山伏のように観える。

また、拝殿左側の、黒衣、笠、白頭巾の二人連れは、

時衆と思しき、念仏僧のようだ。

中世世界の人々の表象は、身に着けた装束と持物に尽きる。

これは、極めて厳密な規範と謂っていい。

現代では、到底受け入れられないけれど、

その人の身分と生業は、一目瞭然の世界だったのだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年8月 8日 (金)

中世世界の巡礼者のイメージ(1)

B14080601

ここ一年で、諸方の霊験所と云われる、寺社を探索してきたが、

近世の巡礼者の姿は、史料も多いので、

イメージし易いの反し、中世世界は手掛りが極めて少なく、

難しいのが常であった。

でも、一寸注意して探せば、無いわけではない。

「三十二番職人歌合」に描かれた、戦国期の巡礼者を見つけた。

彼は、西国観音霊場三十三所を巡っているようだ。

藍摺り小紋の小袖に、脚絆、草鞋、

上に羽織る、袖無しの胴衣は「笈摺」(おいずり)と呼び、

巡礼者特有の衣装である。

背中の墨書が、三十三所の巡礼者であることを示し、

各霊場(札所)に納める、巡礼札を手にする。

傍らに置いた菅笠、杖、柄杓(喜捨を受けるのに使う)も、

必須アイテムだろう。

いざとなったら、門前の街道で、背に巻いた筵を広げて座り、

路往く旅人に、柄杓を差し出して、

「もの参りに候。施行ひかせ給えや」とやれば、

喜捨を施す(善根を積む)のが習いで、

路銀は、なんとかなったのではないか。

こうして観ると、中世後期には、巡礼者のスタイルは、

ほぼ完成しており、彼らをサポートする旅のシステムも、

整っていたような感じがする。

江戸後期の、あの爆発的なブームは、既に出来上がっていた、

インフラを、再びなぞるだけだったのかもしれぬ。

中世世界を侮ってはいけない。

(捨身 Canon S110)

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2014年8月 4日 (月)

雨降山考 つけたりとして(2)

B14080301

昨日の投稿で、最後の捨身に「赤い輪」が観えるが、

「あれは何ぞ」との、ご指摘を受けたので、この場を借りて、

お答えしようと存ずる。

これは、ごく最近になって、大山寺が始めた厄除け祈願で、

「土器(かわらけ)投げ」と呼ぶ。

関西では、既に結構、ポピュラーらしく、

神護寺や、竹生島が有名だそうだ。

まず、寺で、かわらけ二枚(組\300也)をもとめ、

指定された場所(上掲)で高所から谷間へ投げて、厄を落とす。

猶且つ、首尾よく、設けられた「赤い輪」を通せば、

所願成就疑いなしと云うものだ。

もとより「土器(かわらけ)」とは、素焼きの小皿のこと。

中世世界では、宴席の酒盃として用いられ、

原則一回のみ使い、打ち捨て、清浄を表す。

各種の呪い、神事、神饌を盛るには欠かせない。

巫女が「かわらけ」を割る場面が、絵巻物にも出てくる。

B14080303

大山寺の護符授与所は、不動堂を入って直ぐ右手だ。

手前、左手の小テーブルで「かわらけ」を拝受出来る。

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その深く意味するところは、疾うに失われたけれど、

こういった習俗の人気は、

現代世界でも、未だ衰えることが無いと謂うわけだ。

(捨身 Canon S110) 

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2014年8月 3日 (日)

雨降山考 つけたりとして(1)

B14080201

雨降山・大山寺にて、「牛王宝印」護符を拝受していたのを、

忘れて居った。

別して、アップして置こう。

今まで、金沢八景の瀬戸神社、

熱海の伊豆山権現と、三枚目だ。

もとより、熊野が有名で、各社の「牛王宝印」の体裁は、

それが元になっている。

大山(上掲)のものも同様で、

ヤタガラスや、宝珠を意匠化した文字が使われている。

「牛王」(ごおう)と称するのは、押された朱印の朱に、

漢方で、古来最も珍重された秘薬「牛王」=「牛黄」(ごおう)を、

混ぜたことに由来する。

その「劇的な」薬効が、仏神の霊験に見立てられたのである。

これからも、折に触れて、コレクションしていくつもり哉。

B14080203

(捨身 Canon S110)

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2014年8月 2日 (土)

日々の写真 8/1

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2014年 七月上旬 雨降山・大山寺 不動堂にて。

この春に新調した、カラースコパー35㎜F2.5 で撮影した一枚だ。

ちょうど右手から、法螺貝を手にした住持が、祈祷のために、

堂へ入って来たのを、舞台のようなイメージで、捉えようと想った。

ライツ・ミノルタCLには、35㎜のファインダー枠は付いていない。

昔、高校写真部で覚えた「35㎜広角枠の感覚」だけを頼りに、

咄嗟に「ちゃう」と、シャッターを切ったら、うまく往った。

なんだか、フィルムカメラのほうが、チャンスを逃さないみたいだ。

カラースコパーの描写は、やはり、現代的だけれど、

まずまずで、気に入った。

(捨身 ライツ・ミノルタCL VMカラースコパー35㎜F2.5 PRO400)

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2014年8月 1日 (金)

日々の写真 7/31

B14073101

2008年 10月下旬 鎌倉・極楽寺坂下にて。

初めて、極楽寺坂界隈を探索した頃に撮ったものだ。

今にして想えば、未だ探索の仕方が浅かったな。

長谷側、坂下の「力餅家」

江戸後期には、大山→江ノ島→鎌倉の巡礼路上に在り、

坂を超え、鎌倉に入って、一休みする客で、賑わったであろう。

おそらく、鎌倉現存最古の菓子店ではないのか。

小町通り辺りで、鎌倉土産に、流行の菓子をもとめるより、

古風な味わいの「力餅」のほうが、遥かに気が利いて居るわけだ。

店前左手に、近世の道標が立っているのが判る。

(捨身 ライツミノルタCL Mロッコール40㎜F2 CENTURIA400)

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