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2014年9月の記事

2014年9月29日 (月)

江島杉山社にて

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江の島明神の功徳により「管鍼」を感得したと云われ、

当道座、関東惣検校の地位へ上り詰めた杉山(和一)検校だが、

元禄六年(1693)将軍綱吉から「本所一つ目」に屋敷地を賜る。

併せて、綱吉は、江の島を殊の外、信仰する検校を慮り、

隣地に、江の島の弁財天を勧請し、祀る社地も与えた。

これが江島杉山社の始まりである。

小ぢんまりとはしているが、専用の参道と、

一の鳥居、二の鳥居を備え、一応の構えだ。

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傍らの楠は、往時に植えられたものか。

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神職は常駐と見受けた。

賽銭箱に、弁財天社紋の波頭が、三つ葉葵を囲む、

特異な紋様を標す。

将軍家に対する、どういう意思表示なのか判らないが、

一寸目を引く。

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社前へ奉納する「白蛇」もある。

隅田川対岸の、本所という場所は、

元禄期前後に、開発が始まった、新開地であり、

江戸の境界地と目されていた。

ほぼ同時期に、同所へ屋敷を移された「吉良上野」が、

不満を託ったとも伝わる、それなりの地であった。

水辺の低地だから、水害の恐れもあったろう。

弁天=龍神ということで、水難除けが付与されたかもしれぬ。

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社殿左側に、小さな神池と太鼓橋、江の島の岩屋に習った、

「岩屋」が鎌倉石で築かれている。

まぁ、富士塚のようなものだろうな。

此処でも、忠実な「見立て」が行われているわけだ。

奥には、宇賀神(人頭蛇尾)と宗像三女神が祀られていた。

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さて、どうやら、当地が、

江の島探索の上がりに相応しいようだ。

この辺りにして置こう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年9月25日 (木)

江の島 つけたりとして(8)

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杉山検校の、江の島への帰依ぶりは、相当なものだったらしい。

元禄五年(1692)まず、下之宮(現・辺津宮)境内に護摩堂を建立。

この堂からも、近世以前の江の島明神は、

密教寺院であったことがよく判る。

さらに、元禄七年(1694)同所に三重塔を建立した。

場所は、北斎の相州江の島図でも、窺えるように、

下之宮社殿、やや西寄りの中腹だったのだろう。

だが、現在、跡地は、諸説あるものの、確認に到っていない。

三重塔は、その後、明治の廃仏毀釈で破却されたと考えられる。

ちょうど、鶴岡八幡宮寺の「大塔」が破却されたのと同様だ。

仮に、どちらか一つの塔でも、現存していれば、

鎌倉の「世界遺産」は固かった?と想うのも一興か。

それにしても、当道座・関東惣検校の地位は、

かなりの収入をもたらしたようだ。

彼が江の島に寄進したもので、残っているのは、

東海道、藤沢宿の遊行寺門前に始まる「江の島道」に、

立てられた四十八本の道標(内十二基)と、

小大名並みの墓標のみである。

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「西の浦」の上より、片瀬の浜と境川河口を望む。

(捨身 Canon G1X) 

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2014年9月24日 (水)

江の島 つけたりとして(7)

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鎌倉国宝館、秋の特別展で観た、
もう一つの展示物「相州鎌倉江ノ島図」のことである。
鶴岡八幡宮の神宝の中で、最近注目されているものだ。
鎌倉を描いた絵図では、現存最古と考えられ、
江戸初期の慶安年間(1648~52)に、
徳川(水戸)光圀が作らせたと記す。
彼は、鎌倉を学問的に研究した、おそらく最初の人物だろう。
自らも現地を探索する一方、家臣を長期派遣して、
史料の渉猟、調査に当らせたと云われる。
その画中左下に、近世初頭の江の島が描かれていた。
確認出来る堂舎は、
「下之宮」「下之坊」「中之宮」「本宮」そして「岩本院」だ。
既に、参道と宿坊群、岩屋を巡る汀沿いの道も観える。
所謂「江の島三坊」のうち、「岩本院(坊)」と「下之坊」が、
存続していたのが窺えるが、一遍聖絵断簡に出てくる、
三重塔は、この時点では、失われていたようだ。
さて、三重塔のことだが、約五十年後の元禄年間に再建される。
その経緯については、稿を改めよう。
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(捨身 Canon G1X)

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2014年9月22日 (月)

江の島 つけたりとして(6)

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鶴岡八幡宮に現存する「弁財天在像」(鎌倉後期)は、
江の島神社に伝わる像より大きく、作風も優れ、重文指定だ。
像内銘から、鶴岡八幡宮寺に仕える、楽人・仲原某が、
自らの楽才向上を願って、奉納したことが判っている。
江の島の弁財天との、直接の関わりは無いようだ。
八幡宮寺には、既に弁財天が祀られていた。
源平池の中ノ島に、今も社が残っている(上掲)
江の島が八幡宮寺の傘下に入ったと、確認出来るのは、
室町期以降のことだと謂う。
(同時期に、足利のばん阿寺が傘下に入っているのも興味深い)
北条氏の滅亡後、関東公方足利氏が鎌倉の主になってから、
江の島との繋がりが、強調されるようになる。
もとより、足利は源氏、八幡宮寺が氏神だが、
大スポンサーの、北条氏を失った江の島にも、
十分に配慮したふしが窺えるのだ。
尊氏の正妻が、北条家の出てあったことも、関係するかもしれない。
(中世世界では、妻の出身家の影響力を無視出来なかった)
完膚無きまでに、滅ぼされてしまった一族だけれど、
彼らの遺伝子が、意外に多く、
足利に受け継がれていることに、今更の様に驚かされる。
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(捨身 Canon G1X)

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2014年9月21日 (日)

江の島 つけたりとして(5)

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鶴岡八幡宮境内、鎌倉国宝館で開催中の、
「国宝鶴岡八幡宮古神宝展」(9/12~10/13)へ往って来た。
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出品中の、
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併せて、学芸員によるミュージアムトークにも参加した。
いくつか収穫があったので、後ほど触れよう。
源平池、既に秋色あり。
(捨身 Canon G1X)

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2014年9月20日 (土)

江の島 つけたりとして(4)

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江の島に関する、纏まった通史のようなものは、稀少なのだが、
神社が編纂した年表があった。
コピーを入手して、中世のところをざっと観るに、吾妻鑑と太平記、
岩本院の小田原北条関係の文書類は、一応網羅されているようだ。
上記以外では、「後宇多院勅額」が目に留まる。
実物が現存すると云い(未見) 「江ノ島大明神」と大書され、
「建治元年(1275)九月廿二日」「蒙古来船退散御願」
とも記されているらしい。
蒙古襲来に際し、諸国の主な寺社で「異国調伏」の祈祷が、
行われたが、江の島も例に漏れず、上皇の勅額が奉納され、
併せて、北条時宗が「下之坊」の社殿を再興したと伝わっている。
その社殿とは、一遍聖絵断簡に描かれた、中腹の二宇の堂舎と、
時代的に符合すると想われる。
弘安四年(1281)二度目の来寇で、元軍は暴風に遭い、壊滅する。
もとより、暴風を起こすのは,龍神(=弁財天=観音)であるのが、
中世世界の「常識」であった。
龍神と弁財天を祀る、江の島の効験は、とりわけ高く、
評価されたはずで、天下に名声を広めたことであろう。
(何と云っても、北条家の氏神なのだ)
上掲は、金沢文庫所蔵の「日本図」(重文)だ。
最古級の日本図で、三河、尾張、信濃、飛騨、越中,能登以西、
畿内、中国、四国、九州の部分が残存し、大陸側の視点から描く。
注目すべきなのは、列島が、大蛇か龍のような、
鱗を持った生物に、ぐるっと取り巻かれていることだ。
この絵図は、蒙古襲来直後に作成された考えられている。
「龍が守る国」(或いは、龍に守られた北条家)と云う、
コスモロジーが取り入れられたのが、
極めて具体的に、確認出来るわけだ。
(捨身 Canon S110)

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2014年9月19日 (金)

江の島 つけたりとして(3)

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中世人は、世のあらゆる事象に対して、見立てと読み解き、
意味付けを行っていた。
ある事象には、必ず、見立てのもとになった、
もう一つの、相似形を成す、先例が存在した。
見立てとは、今日の見方では「忠実な模倣」と映るのだが、
彼らにしてみれば、先例=吉例を踏襲することに他ならず、
外せない儀礼であり、寿ぎなのだ。
各地の都市的な場が、「京」や「南都」に見立てられるのは、
通例だったし、主立った霊験所もそうである。
だから、もう一つの先例を見つけて(ある意味、謎を解くキィだ)
比較しながら、読み解けば、中世世界の言葉に残らなかった、
景観、賑わい、様々な人々の風俗、思い、生き様が、
浮かび上がってくると謂う、寸法になるわけだ。
江の島も、既に触れたように、見立てが行われていた。
同じ弁財天を祀る、厳島と竹生島だ。
両者が、江の島と異なるのは、我々のよすがとなり得る、
中世の絵画史料が多く現存しているところだろう。
厳島は一遍聖絵に、竹生島は参詣曼荼羅図に描かれた。
上掲は、戦国期の竹生島参詣図。
三重塔を含む、立派な伽藍と僧房が立ち並び、
湖上には、参詣者を運ぶ、大小の船が浮かぶ。
因みに、竹生島は周囲2キロ(江の島は4キロ)と云うから、
かなり狭い場所に詰め込まれていたことになる。
翻って、往時の江の島も、
こんな風に、繁華だったと想っていい。
(捨身 Canon S110)

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2014年9月18日 (木)

江の島 つけたりとして(2)

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再び「一遍聖絵断簡」(鎌倉後期)江の島の場面へ戻ってみよう。
ここでも、塔が出てきた。
二つの山が連なる、特徴的な地形は、そのままと想われるが、
描かれているのは、中腹より上のようだ。
右側(西側)やや上方に、二つの堂舎が観える。
大まかだが、現在の「下之坊(宮)」(現・辺津宮)の辺りか。
下方は、雲に覆われ、雲間より、鳥居と塔が顔を覗かせる。
鳥居は手前、片瀬の浜側に立ち、塔の位置は東側になる。
後に、杉山検校が造立した、元禄の塔は、西側に立っていたから、
ちょうど反対側だったわけだ。
当時の江の島は、侵食の進行を考慮すると、
少なくとも、現在の1.5倍の広さがあったと考えられる。
それに応じて、伽藍配置が異なっていたかもしれず、
景観の印象も、かなり違ったはずだ。
さて、この中世の塔は、誰が造立したのだろうか。
やはり、氏神として崇敬篤かった北条氏が相応しい。
実際、彼らは、彼方此方で塔を建てている。
参考のため、かつて、金沢・称名寺に在った三重塔、
(称名寺結界図部分 鎌倉末期・重文)を示す。
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(捨身 Canon S110)

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2014年9月17日 (水)

江の島 つけたりとして(1)

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本編のほうでは、江の島を描いた絵画史料について、
あまり触れられなかった。重要なので、補足せねばなるまい。
中世のもので現存するのは、おそらく「一遍聖絵断簡」だけだろう。
それは、後述するとして、まず、多数現存する近世のものを挙げる。
中でも代表的な、北斎の富嶽三十六景のうち、相州江の島の図だ。
天保年間(1831~45)頃の、江の島を描く。
現在の風景と、そう大きな違いが無さそうで、判り易いと想う。
引き潮時なのだろうか。参詣者が徒歩で渡っている。
ちゃんと描き分けているのは、江の島の「勝地」たる由縁を、
外していないわけだ。
「西の浦」沖に、帆を降ろして舫う廻船は、
船着場の存在を窺わせる。 
汀が迫る、参道入り口の位置は、今と変わらない。
石垣で基礎を立ち上げた宿坊群も、ベアトの古写真と通ずる。
だが、何故か既に立っていたはずの、
青銅の鳥居文政四年銘=1821)が見当たらず、
巨大な石灯籠が左右に立っている。
北斎は、何らかの意図を持って、鳥居を描くのを避けたのか。
狭い参道両側に屋根を重ねる家々、その上方、緑の中が、
「下之坊=宮」(現・辺津宮)の辺りで、地形の特徴を良く掴む。
さらに、右側へ目を移すと、「三重塔」のような堂舎が観える。
かの杉山検校が、元禄年間に造立したと云われるのだが、
謎が多い建造物なのだ。一寸、検証してみよう。
(捨身 Canon S110)

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2014年9月15日 (月)

江の島に至る(30)

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岩本院(坊)の小田原北条氏関係の文書には、
江の島内での、乱暴狼藉の停止、
さらには「公界」(くがい)=アジールたるべきこと、
敵方に備え、防備を怠るな、など下知状、制札が含まれる。
戦国期、江の島は、小田原北条氏の氏神として、
支配下に置かれていたことを示すものだろう。
境内の鳩を殺めるなと云うのもあり、島内は「殺生禁断」
であったと想われるが、一方で、漁村の存在が気になる。
その辺りの経緯は不明だが、聞くところに因ると、
漁村地区と門前町地区は、今も、あまり仲が良くないそうだ。
B14091401
ところで、江の島始め、各地の弁財天社では、
三つ鱗紋を用いるところが多い。。
実は、これは、例の太平記の説話に肖った、
北条氏への、後追いであることが判っている。
或いは、オマージュと謂ってもいいかもしれない。
弁財天と両北条氏(鎌倉と小田原)が、切っても切れぬ、
結びつきにあったことの、証左ではないだろうか。
既に滅んだ一族の、はっきりとした痕跡は、
弁財天社の社紋以外には、殆ど残っていないからだ。
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さて、意外に深かった、江の島探索を一旦終える。
もとより、探索し切れなった世界は、未だ漆黒の中だ。
次の機会へ譲ろう。
(捨身 Canon G1X)

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2014年9月13日 (土)

江の島に至る(29)

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江の島土産である。
江戸後期の参詣ブーム以来、いろいろと云われて居るが、
今回は「海苔羊羹」を選んでみた。
白餡羊羹に海苔を刻み入れたものだ。
未だ開けていないけど、磯の香りがするのかな。
店は「山ふたつ」の参道石段を下りたところにある。
ついでながら、撮影行の土産に、交換レンズ一本分の重さの、
羊羹を求めるのは、青森八甲田、奥日光以来の吉例だ。
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さて、戦国期の江の島について、一寸補足して置こう。
江の島惣別当を務めるようになった「岩本坊(院)」は、
現在、参道前の旅館を経営するが、中世文書も伝えている。
多くは、小田原北条氏関係のものだ。
鎌倉北条氏の例に習い、彼らも、江の島明神を氏神の如く、
篤く信仰していたようだ。
「小田原北条記」に曰く。
…大永二年(1522)九月のこと。
 北条氏綱の使者として、古河公方の御所へ赴いた、
 富永三郎左衛門という者が、帰路、浅草寺に参詣した。
 その日は観音の縁日で、賑わっていたが、
 不思議なことが起こった。境内の弁天堂の脇から、
 銭が湧き出したのだ。人々は銭を取り合い大騒ぎになった。
 富永は、小田原へ戻り、このことを氏綱はじめ、
 家臣たちに言上する。
 一同が不思議に思っていたところに、
 蓮上院(小田原市内)の法印という僧が、
 「浅草の本尊は聖観音であり、その変化身は八大竜王で、
 因って弁財天も、観音のご分身にあたります。
 弁財天が八本の腕(八臂弁財天)を備えているのは、
 「八大観音」を合わせた姿を示されているからです。
 今、観音は弁財天の姿を借りて、銭が湧き出すという形で、
 仏の広大慈悲、福徳の功徳を示されました。
 自今、ご領内の人々は富貴になるでありましょう。
 とりわけ弁才天は、北条家の守護神です。
 三つ鱗の御紋の用いるのも、その由縁と聞いております。
 ご当家に於いては、弁財天を恃むところ、格別なのです」
 と申し上げた。
 そこで、氏綱は江の島より、弁財天を勧請し、
 小田原城の総鎮守として、丁重に祀った。
 後に氏綱は、江戸城に在城したおり、
 焼失した浅草寺も立派に再建したと云うことだ…
小田原北条氏の、江の島と浅草観音への深い信仰と繋がり、
さらには、今も盛んな弁財天の「銭洗い」の起源も窺われて、
興味が広がって往くわけだ。
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(捨身 Canon G1X)

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2014年9月12日 (金)

江の島に至る(28)

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海沿いを戻る参道の途中に、
老夫婦二人で営む、小さな茶店がぽつんと立っていた。
大山に観とれていると、その店の親父さんが、
「ほれ、あれか箱根の二子山」と指差して教えてくれる。
ちょうど昼も過ぎたし、此処で、一寸休憩も宜しと暖簾をくぐった。
名物の丼物をと云うわけで、
「さざえ丼」をたのんでみた。
別の店では「江の島丼」と称するものだろうか。
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さざえの切り身を玉子と出し汁で綴じた、定番の丼だ。
微かに磯が香る、味わいが懐かしい。
ふと、幼少期を想ったりした。
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店を出て、再び大山を観遣るに、雲も大分流れてきた。
心地よい潮風が頬を撫でている。
さて、今回の探索、そろそろ、締めに入ろうか。
(捨身 Canon G1X)

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2014年9月11日 (木)

江の島に至る(27)

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雲が切れて、見覚えのある頂が姿を現した。
何と、あの「雨降山」=大山である。
今回の探索のきっかけになったのであった。
こっちからだと、こんな風に観えるのか。
視えないけれど、しっかりと強い線が引かれ、
繋がっているようにも感じられた。
B14091002
視線を左へずらすと、今度は富士の出番だ。
もう、説明は要らないだろう。
ついでながら、個人的には「夏姿」が好きだ。
B14091003
さらに視点を左へ。
箱根山だ。
二子山々頂まで視認出来た。
ここに至ると、「うーむ」と合点が往くことがある。
大山-富士-箱根(権現)
おそらく、熱海の伊豆山(権現)も視界に入っているだろうから、
締めて、四大霊験所が一望のもとなのだ(一度に遥拝も可能)
霊験所の必須条件に、眺望の良さは欠かせない。
つまり、霊験を高める「勝地」であるということだ。
江の島は、極め付きかもしれぬ。
(捨身 Canon G1X)

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2014年9月10日 (水)

江の島に至る(26)

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現在「岩屋」は、「第一」と「第二」に別れ、
前者は、前近代の遺跡として、近世の石仏群を展示する。
後者は「江の島縁起」の五頭龍伝説をモチーフにした、
アトラクションだ。
上掲は弘法大師像。やはり、密教系が目立つようだ。
当所にも、大師伝承があるが、実在の空海は、青年期、
土佐・室戸岬の海食洞で、体内に明星が入る、
神秘体験をして、悟りを得たと云われる。
江の島の「岩屋」も、後の修験者たちに、
同様な舞台と見立てられ、効験のある修行場とされたのだろう。
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第一岩屋」の奥は二股になり、
一つは富士山の風穴へ繋がると云う(上)
江戸初期、ある富士道者が通り抜けに成功したと喧伝したが、
どうも、富士吉田の御師と江の島三坊の「合作」の臭いがする。
相乗効果で、参詣者を集めたい、両者の思惑が一致しても、
おかしくない。
実際、江戸後期のブームでは、それが実現するわけだ。
B14090903 
こちらは二股のもう一つの奥。江の島明神発祥の場と伝える。
文覚が最初に、八臂弁財天を祀ったのも、この辺りだったか。
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蓮花を持つ菩薩像が、暗闇に浮かび上がる。
阿弥陀三尊に脇侍する、観音か、勢至だろうか。
B14090904 
外へ出たら、雨が上がっていた。
雲が吹き払われ、姿を現したのは何と…!
(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 9日 (火)

江の島に至る(25)

B14090801

いきなり、漆黒の闇の中へ。

海食洞「岩屋」(岩屋本宮)の内部に入ってみた。

現状は、遊歩道と照明が完備され、危険は感じない。

でも、近代に至るまで、此処は絶えず、荒波に洗われ、

荒天時は、参拝が難しかったようだ。

そのため、季節によって、神体を丘上の「御旅所」

(現・奥津宮)へ移し、便を図るようになったのだ。

唯、吾妻鑑に記す、文覚が最初に八臂弁財天を勧請し、

秘密の修法を行ったのは、この海食洞であったろう。

頼朝と供の屈強な武士たちは、文覚の背後に居並び、

手に手に、念珠を握り締めて「秀衡調伏」を祈ったのだ。

立派な堂舎のようなものは、まだ無かったはずで、

当時は、本来の「龍穴」であった。

(岩屋と呼ぶのは、室町期より後だろう)

程なく、波打ち際の狭い岩場に、小さな堂が設けられた。

太平記に云う、北条時政参籠の場は、その堂だったと想われる。

託宣を下した江の島明神が、大蛇の姿で、

直ぐ海へ入って往くのを、時政が見送ったとあるからだ。

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現在、洞内では、近世の石仏群が展示されている。

おそらく、中世後期は、人々の結縁のための石造物で、

溢れていたのではないか。

近世に、目ぼしい中世の石塔類が持ち去られ、

維新期の廃仏毀釈で、殆どの石造物が破却されたのだろう。

これらの石仏たちは、その中で、辛うじて残ったものかもしれぬ。

上は、琵琶を抱える、芸能神に変じた「妙音弁財天」 

下は、剣に巻きつき呑む龍神=「倶利伽羅竜」だ。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 8日 (月)

江の島に至る(24)

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漁村のメインストリートたる、路地である。

この先は、埋立地で、すぐ行き止まりになる。

左が海側で、ワンブロック後ろが、かつての海岸線のようだ。

その先は、ヨットハーバーの敷地だ。

立ち並ぶ家々は、民宿だったり、活魚卸店だったりで、

漁村の名残りが感じられる。

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現在、江の島には、二つの仏教寺院がある。

もとより、両方とも、極めて新しい(戦後)ものだ。

その一つが漁村内にあり、「来迎寺」と謂う。

案内板に、昭和三十年代初頭に起きた、土砂災害の、

犠牲者慰霊のために、建立されたと記され、

岸壁を穿った内部は、納骨所らしい。

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小さな苑池と、真新しい石仏が並ぶ。

おそらく無住で、管理は近所の人々がやっているのだろう。

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脇に、古い(近世)の石造物も並んでいた。

放置されていたり、土中から出てきたのを、集め祀ったのか。

島内を本格的に調査すれば、もっと見つかるかもしれないな。

(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 7日 (日)

江の島に至る(23)

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東側の漁港へ廻る前に「上之坊(宮)」(現・中津宮)境内の、

歌舞伎関係者が寄進した石造物を、ざっと観て置こう。

概して、立派な石灯籠たちである。

まず石段前、参道を挟んで二基、中村座だ。

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やや奥に市村座。

丸みを帯びたフォルムが面白い。

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これは、歌舞伎関係ではないが、

明らかに「講中」の存在を窺わせるものだ。

「両国、御蔵前」とある。

江の島明神が、芸能、福徳賦与の弁財天として、

盲目の芸能民や、歌舞伎、音曲を生業とする人々、

或いは、商工、道々の輩の信仰を集めるようになったのは、

中世後半になってからだと想う。

吾妻鑑に出てくる、文覚が最初に勧請した、本来の弁才天は、

密教で修するところの「八臂弁財天」であり、

多くの武者が恃む、武勇の神であった。

頼朝が文覚に命じた「秘密の修法」とは、

奥州の「秀衡調伏」であったと云うのは頷ける。

源家嚢祖、頼義、義家以来の、積年の拘り、蟠り…

平家と後白河法王の策謀によって、秀衡が「鎮守府将軍」に、

任じられたと聞いたばかりの、頼朝の焦りと怒りの深さが、

実によく、理解出来るわけだ。

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さて、一の鳥居、参道裏手に出た。

正面に観えるのは、老舗旅館「恵比寿屋」の朱塗り銅葺きの蔵だ。

この路地を進めば、かつての漁村へ入り込む。

(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 6日 (土)

江の島に至る(22)

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僧侶の墓塔は、独特の形状で「卵塔」或いは「無縫塔」とも呼ぶ。

種字の下に「権大僧都法印何某 元文五年(1740)」と読める。

江戸中期の、江之島寺・岩本院(坊)の別当何某の墓なのか。

頭が濡れているのは、どういうわけか、今まで晴れていた空が、

俄かに掻き曇り、雨が降り始めたからだ。

江の島の上空でも「ゴロゴロ」と鳴り出した。

「すわ五頭竜なるべし」と、想わず身を竦めて、空を見上げる。

でも、雨に濡れた石造物が、フォトジェニックなのは、

論を待たない。探索続行だ。

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傘付塔婆型の石塔は、小さな大名クラスの格式だろう。

傍らの石仏は、如意輪観音のようだ。

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眼下に望む「西の浦」は、小さな砂浜の入り江を成し、

船を漕ぎ寄せるのに好適である。

江の島には、東側にもう一つ、船溜まりに向いた海岸があり、

近世から、漁村になっていた。

今は、ヨットハーバーで埋め立てられているので、

かつての面影は無いが、町並みに名残りが観られる。

そちらも廻ってみよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 5日 (金)

江の島に至る(21)

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江の島に、こんな場所があるとは想い描けなった。

墓域より「西の浦」の汀を望む。

葬送地まで完備した、「小宇宙」だったわけだ。

同様な、弁財天の聖地として知られる、厳島では、

葬送を忌むと聞いたことがある。

この差異は、どこから来るのか知らない。

西国と東国の違いとでも、謂えるのだろうか。

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杉山検校の墓所だ。

周りに立ち並ぶのは、近世の歴代別当の墓石だろう。

無縫塔(卵塔)と呼ぶ、僧侶の墓塔が混じる。

左右の石灯籠は、桂昌院の寄進と云う。

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やはり、小大名家クラスの立派な石塔である。

*お断り PC不調のため、暫時、更新が滞る可能性があります。

      ご了承下さい。

(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 4日 (木)

江の島に至る(20)

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「下之宮(坊)」参道石段脇に立つ、

元禄年間の「えのしまみち」を示す道標。

これを寄進した人は、杉山検校(和一 1610~94)と云う。

江戸初期に、江戸で活躍した鍼灸師で、

琵琶法師、管弦、鍼灸按摩を生業とする盲人たちが組織した、

「当道(座)」を束ねる「関東惣検校」の立場にあった。

後ろの「福石」とは、彼が江の島へ参詣した際に、

躓いて転び、気を失ったが、弁財天の功徳で、

夢中に新療法を感得したとする、目出度い石なのだそうだ。

もとより、こういった伝承が創られた背景には、

中世世界より、盲目の諸芸に携わる人々(ごぜも含めて)の、

江の島明神に対する、深い信仰があったのではないか。

弁財天信仰の、庶民への広がりも窺え、興味が尽きない。

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実は、島内に杉山検校の墓所もある(墨田区の弥勒寺にも存在)

参道の石段手前、二の鳥居右横の朱塗り橋を渡って、

一寸下った所なのだが、目立たず、訪れる人も殆ど無いので、

まず、見落としてしまいそうだ。

勿論、足を踏み入れてみた。

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江の島に、このような墓域が隠れていようとは、意表を突かれる。

目前に「西の浦」(この字名も意味深だ)の海を臨み、

まさに、異界の雰囲気満点なのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 3日 (水)

江の島に至る(19)

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江戸後期、寺社参詣がブームになると、各地の村々に、

多数の御師が現れて、問題が生じていたようだ。

幕府は法度によって、寺社への統制を強めていた。

本山の一本化、檀家制度などである。

その中で、寛永八年(1631)以降に建立された寺院は、

一律、檀家を持つこと禁じられたり、

中世世界で保持していた広大な領地や、領主の庇護を、

一挙に失う寺社が続出するなど、存立基盤を脅かされるに至る。

勢い、派手なプロモーション活動で、諸国の参詣者を集め、

活路を見出すほかなくなったのだ。

関東の村々だけでも、伊勢御師(おんし)はもとより、

榛名山、三峰山、鹿島、武州御岳山、相州大山、

江の島、富士山、尾張津島、近江多賀等々…

様々な「御師たち」(御師のような者と記す。偽御師か!)が、

足繁く立ち廻り、競争が激化していた。

迷惑極まるので、伊勢と津島の御師以外は、

締め出す措置を願い出た村もあったくらいだ。

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江の島にも、そんな時代の残滓が残っている。

茶店の周りに立つ柵の石柱に、寄進者の名が並ぶ。

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こういった茶店や旅館には、かつての御師が経営していた、

宿坊を起源に持つものもあるのだろう。

参詣者の落とす、初穂、賽銭、宿泊料、土産物などの利権は、

バカにならなかったはずで、小大名の一年分の収入を、

超えることもしばしばだった。

惣別当の岩本院(坊)主、間宮家が、幕府に認められた朱印地は、

対岸の片瀬浜に僅か(十八石とも)だったにも拘らず、

大名家から養子をとるほどの「格」を得ていたらしい。

(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 2日 (火)

江の島に至る(18)

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島内で、見受けられる石造物は、殆ど近世のものばかりである。

歴史的に観れば、中世のものが在っても、おかしくないのだが、

何故か見当たらない。案ずるに、明治の廃仏毀釈で、

徹底的に破壊、遺棄されたのであろうか。可能性は高いと想う。

「下之坊(宮)」(現・辺津宮)参道の石柱は元禄年間の銘だった。

ついでながら、「下之坊」の別当は、平氏姓を名乗り、

北条一門を称していたと云う。鎌倉のほうなのか、

小田原のほうなのか判らないが、両氏とも、江の島明神を、

守護神として、頼むところ氏神の如く、非常に篤かった。

真偽は別として、北条氏が、江の島の別当職へ、

一族の子弟を送り込むのは、箱根権現の例などと、

整合性がとれるわけだ。

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二つの丘を繋ぐ鞍部「山ふたつ」に到る、一寸手前に立つ、

「一遍上人成就水道」の碑。

一遍が江の島に渡り、掘り当てたと伝える井戸の跡だ。

もとより、一遍の渡島は疑わしいが、

最寄りの藤沢・遊行寺の影響で、中世後期には、

江の島へ参詣する時衆も、多かったのであろう。

宗祖と結びつける伝承が創られても、不思議ではない。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年9月 1日 (月)

夏の終わり(2)

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宵祭りの余韻を、もう一寸愉しむ。

神職不在の社だけど、

晴れの日には、社務所がステージになる仕掛けなのか。

余興のカラオケ大会の準備が整う。

この頃じゃ、都鄙問わず、何処でもやって居るな。

もとより、当方は関与しないが。

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十五分ほど撮影したが、常に視界に、

浴衣の裾を引き摺った幼女が独り、

遊び廻る子供たちの後ろに佇んでいた。

後で、全てのショットを確認したのだが、全く写ってない。

黄昏(誰そ彼れ)時には、妙なことに出遭うものだ。

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漆黒の夜空に、はためく祭幟。

既に秋風が吹き抜ける。

地灯りだけで撮ったので、これがやっとだった。

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参道脇の畑地に、行灯が掲げられていた。

何かの意味があるのだろうが、判らない。

当地に詳しい故老と知合ったので、今度会ったら、聞いて見よう。

因みに、向こう側の明かりは、街道沿いのSCだ。

まぁ、無粋の極みだな。

狸たちが怒るわけだ。

(捨身 Canon S110)

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