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2014年10月の記事

2014年10月31日 (金)

日向薬師宝城坊へ(6)

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表参道を只管登って往く。

路床に固い岩盤が露出している。

地面をU字型に掘り込んで拓いた「掘り底道」のようで、

中世古道によくある形式だ。

自然の岩盤を階段状に刻んだ跡や、側溝らしきものも認められる。

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仁王門の方を振り返る。

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さらに上へ。

杉の古木が目立つが、この辺りの植生と異なるので、

人が植えたものだろう。

いい感じの古道になってきた。

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首都圏では、一押しの「古参詣道」ではないのか。

蓋し、穴場だと想う。

(捨身 Canon G1X)

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2014年10月30日 (木)

日向薬師宝城坊へ(5)

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表参道を真っ直ぐ進み、急傾斜の石段に突き当たる。

石段下は「衣装場」(いしば)と呼ばれ、

吾妻鑑に記される如く、頼朝が参詣した際に、

装束を整えた場所と伝わっているそうだ。

中世には、貴人の参拝用に、

何らかの施設が在ったかもしれない。

(春日大社の社頭にも、同様な建物が験記絵巻に描かれる)

今の石段の取り付きは、コンクリートで、何の風情も無いのだが、

まぁ、何処の霊験所でも、

参道の、長い長い、急階段は、お約束ごとであるから、

まずは、登らねばなるまい。やれやれと…

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一寸登って、山門が観えて来た。

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比較的新しい仁王門のようだ。天保四年(1833)再建とある。

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門をくぐると、一転、古色を帯びた参道が現れた。

結界を実感した一瞬だった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年10月29日 (水)

日向薬師宝城坊へ(4)

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日向山霊山寺が在った谷筋には、清流が流れ、

参詣道に沿って、幾つかの橋が架かる。

林間の彼方此方に、平場が認められるが、

かつて、何らかの堂舎か、僧坊が建っていた跡かもしれない。

霊山寺の縁起に伝えるところでは、霊亀二年(716)僧行基が、

薬師如来の託宣に因り、大山=雨降山東方の山麓で、

白髭明神と熊野権現の導きを得て、霊木に薬師像を刻み、

一堂に安置したのが始まりと云う。

とりわけ、白髭、熊野の二神の役割が注目されるだろう。

渡来系の人々と、熊野山伏の存在が、見え隠れするわけだ。

もとより、行基も渡来系の出自と謂われる。

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こんな感じの屋敷墓をよく観かけた。

石塔の中に、僧侶の無縫塔の残欠が混じっていたりする。

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さて、南北朝期に、寺内で祀られていた「七所権現」とは、

…熊野、箱根、蔵王、石尊(大山=雨降山の神体)

 山王(日吉社)、白山、伊豆山…とされる。

いずれも、東国をはじめとする、代表的な、修験道の霊験所だ。

山伏たちのネットワークを表したとも考えられよう。

熊野は上記の通りとして、白髭社のほうは、より古い、

渡来系コネクションの残滓と解すべきなのか。

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日向薬師宝城坊の表参道入り口に戻る。

(捨身 Canon G1X)

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2014年10月28日 (火)

日向薬師宝城坊へ(3)

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中世世界より、大山=雨降山を目指すに、三つの登り口があった。

まず、伊勢原の大山(坂本)次に秦野の蓑毛(西坂本)

そして、此処、日向である。

其々、西の蓑毛に大日堂(大日如来)中央の大山寺に不動明王、

東の日向には、霊山寺(薬師如来)が配される。

何れも、深い谷筋に沿って、多数の僧坊、堂塔伽藍を擁し、

修験道の基地を呈していた。

つまり、大勢の山伏たちが闊歩する、谷々だったのだ。

でも、殆どが、明治維新の廃仏毀釈で失われ、

今では、ほんの僅かな痕跡しか残さない。

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さて、路線バスの終点から一寸登ると、

右手に、日向薬師宝城坊の鎮守「白髭社」が観えて来る。

祭神は半島の渡来人「高麗王若光」(白髭明神)と云われ、

期せずして、前日探索した、高麗川の高麗神社と重なる。

武蔵、相模の霊験地に、渡来系の影を見出すことは実に多い。

探索の重要なヒントだろう。

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明治以前には、熊野社も並んで祀られていたらしいが、

合祀で廃絶したようだ。

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南北朝期、日向山霊山寺には、鎮守の「七所権現あり」と云う。

その一つなのだろうか。明晩へ続けよう。

来たりし方を振り返って観る。

(捨身 Canon G1X)

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2014年10月27日 (月)

日向薬師宝城坊へ(2)

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この秋、金沢文庫で開催されるはずだった、

「特別展 日向薬師 秘蔵鉈彫本尊開帳」(10/3~12/7)が、

例のカビ発生騒動で、無期限延期になったのである。

当方としては、かなり期待して居たのだが、

斯様な仕儀に至ったので、

この際、現地を訪ねてみようと想ったわけだ。

相模国、日向薬師宝城坊とは、いかなる中世史スポットなのか。

まず、その入り口の谷戸に魅了された。

境内へ登る前に、一寸探索してみる。

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石塔類は、結構観かけた。

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谷戸田の中の墓地。屋敷墓が殆どのようだ。

この辺りは「坊中」と呼ばれ、

かつて、多数の僧坊を擁した「日向山霊山寺」(りょうせんじ)の、

結界の内で、寺域を守る役僧が集住していたようだ。

その現存唯一の「別当坊」が、日向薬師宝城坊なのだ。

歴史については、道々触れることにして、

さらに谷戸奥へ進む。

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(捨身 Canon G1X)

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2014年10月26日 (日)

日向薬師宝城坊へ(1)

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さて、再び、大山・雨降山の麓へ向かう。

秋晴れにも拘らず、今日の山頂は厚い雲が掛かり、

天候が下り坂であることを暗示していた。

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路線バスは、大山阿夫利神社の東側、尾根一つ隔てた、

谷間を登ってく。

結界を示す、沢筋に架かる幾つかの橋を超えた。

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鄙びた茶店が路線バスの終点だ。

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店の裏側には、一寸した棚田が広がる。

中世世界へ誘う、入り口に相応しい。

それはそうと、今回、当地を目指した理由とは…

(捨身 Canon G1X)

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2014年10月25日 (土)

武州高麗郷逍遥(1)

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武蔵国は大国である。

寓居は東京の最西部であるから、探索で東西に動き廻れば、

直ぐ、三つの都県へ亘るわけだ。

よく晴れた秋日の午後、JR八高線に乗って都境を超え、

高麗川(埼玉県日高市)で降りてみた。

古代、渡来人が入植した地、高麗郷だ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年10月24日 (金)

按摩

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シーボルトの江戸人物画帳に描かれた「按摩」である。

小笛を吹き、杖を頼りに、町中を流して歩く姿を観かけたのは、

昭和三十年代半ば頃までだったと云われる。

あの笛の音、時代劇では、よく聞く効果音だった。

その後は、マッサージ業とかに、業態を変えて、

今日に至っているのであろうか。

琵琶、筝曲、鍼灸など、盲人が組織する「当道座」の支配を、

受けた人々だが、例の「弾左衛門由緒書」(享保四年 1719)に、

「座頭」「辻目暗」と記された職種が該当するのだろう。

幕末期の記録に拠ると、料金は江戸市中で、

「上下」(かみしも=全身揉み解し)四十八文が相場だったようだ。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月23日 (木)

鯨取り

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シーボルトは日本の捕鯨についても、大きな関心を寄せたようだ。

長崎、鳴滝塾の門人、高野長英らに調査させ、

自らも、熱心に絵図や資料を収集していた。

その成果を、町絵師・川原慶賀に描かせたのが、上図であろうか。

シーボルトのメモに拠ると「ハダシ」とあるが、

「羽差」(はざし)ではないかと謂われる。

捕鯨の中で、海へ飛び込み、鯨に取り付いて、

銛で止めを刺す、役目を持った人々のことである。

一目で、異形なのは、細長く伸びた髷だろう。

長崎に程近い、平戸島の北西に在る「生月島」(いきつき)では、

実際、このような習俗があったらしい。

一説に、海中で意識を失ったときに、髷を掴んで、

船上へ引き上げ易いようにとも云うが、

シーボルトは、漁師が海難に遭った際に、仏神に加護を願い、

無事に戻れると、髷を切り、絵馬と供に神社に奉納したと記す。

どうも、後者のほうに、信憑性があるような気がする。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月22日 (水)

服喪の女

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シーボルトの江戸人物画帳に収録された、

百九態の人々の姿は、シーボルト自らが選び、指示して、

長崎の町絵師・川原慶賀に描かせたものだ。

様々な職種が登場するが、

中には、ポーズを取らせたり、演出をしたこともあったようだ。

上掲の「服喪の女」はそれらしい。

喪の色が「白」だったのは、明治中頃以前であろうか。

裕福な町人や武家では、女性は白無垢、

男性は白装束、麻裃が基本だった。

「黒」が主流になったのは、全く近代の所産なのだ。

「白」は中世世界の浄衣に通じる。その辺りが起源なのか。

画中の女性は、右手に線香、左手に樒の枝を持ち、

頭を「綿ぼうし」で覆う、長崎の風俗を示す。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月21日 (火)

鳥刺し

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シーボルトの江戸人物画帳に出てくる「鳥刺し」だ。

「鳥刺し竿」の先に、鳥糯(とりもち)を塗り付け、

小鳥を捕って売る人々のことである。

鷹匠の配下で、鷹の餌を捕るとも云う。

鷹は生餌しか食べないとされたから、

生餌=「餌鳥」(えとり)が必要であった。

そこから、想起されるのは、

中世世界の「餌取り」(えとり)であろうか。

「穢多」(えた)の語源になったと云われるが、

現状、説は分かれ、定説に到っていない。

例の「天狗草紙」に描かれた、河原で鳶を捕らえる、

「穢多童」(えたわらわ)の姿が唯一の絵画史料で、

関連性は、十分に窺えるのではないか。

「弾左衛門由緒書き」に引用される「頼朝御証文」では、

列挙されない職種だが、「長吏」の中に含まれる可能性がある。

江戸近郊に設けられた、各鷹狩り場には「餌取り」に当る、

「鳥刺し」が配置され、狩り場の番人も務めたようだ。

いずれにせよ、未だ実態が明らかになっていない人々であり、

シーボルトの眼にも、如何にも、エキゾチシズムを誘う、

存在と映ったのかもしれない。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月18日 (土)

東博の国宝展を観る

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さて、この秋の東博の特別展である。

会期が前期(10/15~11/9)後期(11/11~12/7)

に分かれるので、注意を要する。

保存の関係で、展示期間が限られるものがあるのだ。

筆者が関心を寄せる、中世絵画、絵巻、文書類は、

紙絹本だから、上記に該当するわけだ。

まず、「信貴山縁起」(尼公の巻)が外せないだろう。

これは展示が短い(~10/26)丸石道祖神の場面がある。

東博と奈良博に分かれて所蔵される「地獄草紙」は、

両巻(奈良博=前期 東博=後期)観られる。

東博の「餓鬼草紙」「一遍聖絵」(ともに前期)も押えよう。

法然上人絵伝」(巻を変えて前後期)「寝覚物語」(前期)

「当麻曼荼羅縁起絵巻」(上巻=前期 下巻=後期)もいい。

文書は「東寺百合文書」が出る(前後期で展示入れ替えあり)

仏像では、三千院の阿弥陀三尊来迎像から、観音、勢至両像、

前のめりに正座するあれだ。

奈良坂の般若寺と並ぶ、南都の境界寺院、安倍文殊院から、

文殊菩薩の眷属「善財童子」(上掲ポスター)が面白い。

その他、いろいろあるけれど、とりあえずはこんなところか。

絵巻物は、全て展開展示しており、近年、適切な修復が、

なされたようで、とても、鑑賞し易くなっている。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月17日 (金)

神保町で「昭和のナポリタン」を食す

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東博の特別展「日本の国宝」(~12/7)を観に往ったのだが、

例によって、御茶ノ水で途中下車してしまった。

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こういう、他愛のないものが、無性に食べたくなるのだ。

典型的な、昭和の喫茶店の「ナポリタン」である。

「さぼうる」は、ウン十年振りだろうな。

相変わらず、盛りは凄いけど、値段は財布に優しいのが嬉しい。

まぁ、懐しの味に如かずと云ったところか。

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店内も、あの頃の儘だ。

「国宝展」のほうは、稿を改めよう。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月15日 (水)

糸操り人形遣い

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「傀儡」(くぐつ)呼ばれた人形遣いの歴史は古い。

古代から中世前期までは「傀儡子」と云い、室町期になると、

「手傀儡」(てくぐつ)が主流になる。

後者は、上杉本・洛中洛外図に歳末の風景として出てくる。

笠に覆面姿から、犬神人の範疇に入る人々ではないかと想われ、

胸に下げた盤上で、手人形を操っていた。

いずれにしても、謎が多い芸能者集団で、魅かれる存在だ。

シーボルトの江戸人物画帳では、

三番叟人形を操る人形遣いが描かれる。

藍染の小袖、脚絆草鞋、手拭いで頭を絡げ、

玩具の行商でもするのか、商品が入った袋を背負う。

おそらく、彼らも「手傀儡」の系譜に連なるのではないか。

弾左衛門由緒書きに引用された、

「頼朝御証文」(有名な偽文書だ)は、

「鉢叩き」「傾城屋」(遊女)等々、支配を認められた、

道々の輩の中に「傀儡師」も記す。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月14日 (火)

茶筅売り

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シーボルトの江戸人物画帳に「高野聖」とメモされた人物だ。

だが、一目で「茶筅売り」であることは、明らかであろう。

僧衣に脚絆草鞋、巡礼者が着る「笈摺」(おいずり)に似た、

袖無の胴衣と頭巾を被り、茶筅を挿した笹竹と袋を担ぐ。

その正体は、京堀川は空也堂、極楽院辺りに集住した、

十八家の有髪妻帯の念仏者である。

日頃は茶筅を製し、売り歩くが、厳寒期には、竹杖で瓢箪を叩き、

念仏を唱えながら、洛中の葬送地を巡り、喜捨を乞う。

「鉢叩き」と呼ばれた人々だ。

「空也念仏」とも呼ばれたから、シーボルトは「空也」と「高野」を、

混同したのだろうか。

上杉本・洛中洛外図に登場する姿も、既に紹介している。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月13日 (月)

願人坊、またある時は「チョンガレ語り」?

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願人坊については、二態挙げたが、

シーボルトの江戸人物画帳には、

もう一態、それと数えられるものが出てくる。

江戸では「チョボクレ語り」 上方では「チョンガレ語り」と呼ばれた、

芸能者で、その正体は願人坊だったと云うのだ。

願人坊が演じた芸能には、

「住吉踊り」「金比羅行人」「すたすた坊主」などがあったけれど、

「チョンガレ」とは、どんな芸なのか。

彼らの芸能は、殆どが大道か、門付けで演じられ、

その際に「祭文」(さいもん)も語られる。それが発展して、

世情を面白可笑しく、謡い囃す話芸となって、

江戸庶民に、大いに受けたわけだ。

画中では、既に「住吉踊り」のような僧形ではなく、

有髪の町人姿で、錫杖を鳴らしながら、

扇を操り(顔を隠す中世風の所作だ)語り歩く。

かつて宗教者であった名残りは、山伏と念仏者を想起させる、

錫杖と、首に掛けた「輪袈裟」だけである。

幕末になると、彼らは三味線弾きを伴い、

小屋掛けで演じるようになる。

現存の「浪花節」へ進化するまで、あと一寸であろうか。

(捨身 Canon S110)

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2014年10月 4日 (土)

寒垢離する山伏二態

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シーボルトが、長崎の町絵師・川原慶賀に描かせた、
江戸の人物画帳に集録する、寒行(かんぎょう)中の山伏二態だ。
「寒行」とは、寒中に行う修行のこと。「寒垢離」とも云う。
上方は裸形で水をかぶり(寒垢離) 下方は白衣のみはおって、
五鈷鈴を持ち、寒行中であることをアピールする、
布施箱を首から提げる。
彼らは、家々に門付け、門前で「寒行まかしょ」と、
声を掛けながら、寒垢離を演じ、布施を乞うて廻った。
「辛い寒行を代行する」と称してはいたが、
実態は、身体を張った乞食行為に他ならない。
こんな山伏のパーフォーマンスは受けたらしく、
願人坊も「すたすた坊主」と呼ばれた寒垢離をやり出す。
江戸期に入ると、山伏は数も増えたのか、
ある意味、零落していったようだ。
宗教者は名ばかりで、賎視された人々に混じって、
このような「芸能」で、糊口をしのぐこともあったわけだ。
(捨身 Canon S110)

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2014年10月 3日 (金)

願人坊二態(2)

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願人坊主が演じる「住吉踊り」は、四、五人が輪になって踊った。
その真ん中に立つ「音頭取り」の姿である。
茜色の布を垂らした大きな傘を突き立て、
青竹の傘の柄を割竹で叩いて、拍子を取る。
裸足に藍色の脚絆、墨染めの小袖、
僧形の頭を白布で絡げるのか、或いは鉢巻を締めるのか。
「住吉踊り」とは、住吉大社の「御田植」(おたうえ)で行われる、
「田楽踊り」を、願人坊主が取り入れたものだ。
本来は、田楽法師が演ずべき芸能なのだが、
願人坊主と田楽法師の関わりも窺えて、興味深い。
加えて、住吉明神は、市と宿の守り神だ。
中世世界の市庭は、遍歴する芸能者、道々の輩を育んだ、
謂わば、彼らの、神聖なホームグラウンドに他ならない。
願人坊主たちに、住吉明神を格別に恃む気持ちが、
受け継がれていたとしても、不思議ではないだろう。
(捨身 Canon S110)

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2014年10月 2日 (木)

願人坊二態(1)

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シーボルトが長崎の町絵師・川原慶賀に描かせた、
江戸の民衆、百九態の画帳だが、実に興味深いものなので、
一寸紹介を続けることにしよう。
「願人坊」あるいは「願人坊主」とも呼ぶ二態の画像だ。
江戸市中を徘徊した、何とも不思議な芸能集団である。
外見は僧形だが、もとより、正規の仏教僧ではない。
街往く人々に、護符を配ったり、仏神への願掛けや、
参拝の代行(代参)を請け負ったりして、勧進を勧める。
路上、集団で「住吉踊り」や「金比羅行人」を演じ、
家々に門付け、裸形で立ち、水垢離して、喜捨をせがむ。
所謂「乞食坊主」と変わらず、賤視された人々だった。
その出自は、京都、鞍馬寺の塔頭、
大蔵院と円光院に属した、遍歴の宗教者と云われ、
近世になって、大坂、駿府、江戸へと流入したようだ。
中世世界の鞍馬寺は、比叡山の支配下にあったから、
彼らの立場は、祇園社の犬神人と似ているかもしれない。
やはり、非人の系統に入るのではないか。
実際、寺社奉行の管轄だったと云うのも頷けるわけだ。
上掲は「住吉踊り」の踊り手。
茜色の布を垂らした菅笠を被り、藍染の小袖、
裸足に白脚絆、右手に団扇を持ち、軽快にステップを踏む。
二態目のほうは、明日にでも。
(捨身 Canon S110)

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2014年10月 1日 (水)

検校の姿

B14093002

文政九年(1826)長崎出島に滞在していた、
オランダ商館付医師シーボルトは、町絵師、川原慶賀を伴い、
商館長の江戸参府に同行する。
道中、彼は、目撃した様々な人々の姿態を慶賀に描かせた。
計一〇九態にのぼる、これらの人物画は、画帳に綴じられ、
シーボルト事件の際に、オランダへ持ち出されて、現存している。
さて、その中に、当道座の検校が集録されていた。
おそらく、杉山検校も、このような姿だったのであろう。
当道座の職階は、検校を筆頭に、
別当、勾当、座頭の四等官を基本とし、
江戸期に入ると、さらに十六階、七十三刻みに細分化された。
座に属する盲人が、検校の地位を得るには、
各々の職能の試験に合格し、「検校千両」とも云われる、
多額の献金を納めねばならなかった。
勾当以上になれば、紫の頭巾、緋色の衣の着用と「撞木杖」
(しゅもくづえ 頂部がT字形で、鉦叩きに似る)の所持が許された。
画中の検校は、菊紋様の藍色の頭巾に茶の衣、撞木杖を携える。
一説に、撞木杖の由来は、
念仏聖の「鹿杖」(かせづえ)であるとも云う。
(捨身 Canon S110)

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