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2014年11月の記事

2014年11月21日 (金)

武州高麗郷逍遥(12)

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平安末期、三井寺の僧の導きで、天台宗系の修験道(本山派)に、

改宗した高麗家だったが、鎌倉期に入ると、

源氏と縁戚関係(頼朝の異母弟、阿野全成の孫娘)を、

結ぶことによって、鎌倉御家人になる道を選ぶ。

高麗人以外では、初めての縁組だったと云われている。

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南北朝期では、高麗家は、屡、南朝方に与し、

所領を悉く失って、流浪する憂き目に遭う。

やっとのことで、足利方に赦され、本領を回復するが、

爾来、家訓により、参陣(参戦)を禁じ、

専ら、修験道を奉じて、別当職を務める家となった。

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さて、山門から、二段上がった中腹に本堂が立つ。

ちょうど、高麗郷全体が見渡せる「勝地」だった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月20日 (木)

武州高麗郷逍遥(11)

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続日本紀、霊亀二年(716)五月の条に拠ると、

駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野、七ヶ国に分住する、

高麗人1799人を武蔵国へ遷して、高麗郡が置かれた。

この集団を率いたのが、高麗王若光であったとするのは、

高麗神社伝わる「高麗氏系図」に記すところだ。

彼らは、高麗川流域で、焼畑と養蚕、窯業を中心とした、

生活を送っていたと考えられている。

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若光の死後、現在の社殿後背の「後山」(うしろやま)に、

霊廟が建立され、高麗明神、或いは、白髭明神と呼んだ。

おそらく、山上に墳墓が設けられたのだろう。

実際、山中の尾根上に、高麗一族墓所と、

半島式の土饅頭が二基、現存しているらしいが、

今回は時間切れで、探索出来なかった。

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若光より数えて、二十三代の純秀は、園城寺(三井寺)の僧、

行尊の勧めで、修験道に改宗、麗純と号した。

彼が吉野大峰へ修行に入ったのは、

時に、康治二年(1142)のことと云う。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月19日 (水)

武州高麗郷逍遥(10)

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山門をくぐると、直ぐ右手に少祠が観える。

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高麗王若光の墓所と伝える石塔だ。

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もとより、若光の時代のものではない。

かなり風化して、判り難いが、

おそらく、鎌倉期から南北朝期の「層塔」であろう。

今年の三月、鎌倉・極楽寺坂で出逢った、美品を掲げて置く

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此の様にして、先祖祭祀を続けることになった高麗一族であったが、

当初は、母国半島の形式を踏襲していたはずである。

それが、中世世界に入ると、

この列島、独特の信仰形態をとるようになって往くのだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月18日 (火)

武州高麗郷逍遥(9)

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山門をくぐる前に、一寸道草を。

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門前に、立派な石灯籠が一対、目に留まった。

よく観ると、銘文が刻まれている。解読してみよう。

まず、中央の紀年銘から、

宝暦十一年(1761)辛巳 六月十二日

左下の、寄進者名は、読み難いが、

越前国 丸岡城主 有馬外吉 藤原充純…か。

一番右に大書されるのは、寄進先だろう。

惇信院殿 尊前…と読めた。

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以上を読み解くとこうなろうか。

有馬(外吉=とのきち、或いは、ひろきち?)充純(まさずみ)とは、

越前・丸岡藩五万石、三代藩主(1747~72)のことである。

時に、僅か十四歳。五年前の宝暦七年(1757)に藩主の座に、

就いたばかりで、外吉は幼名だ。

ついでながら、彼は明和九年(1772)二十六歳で死去している。

次に、惇信院とは誰か。

調べてみたら、何と、九代将軍徳川家重であった。

家重は、宝暦十一年六月十二日(1761)薨去。墓所は増上寺だ。

そう、紀年銘は、家重の没年月日というわけだ。

本来ならば、増上寺の墓前に立てられるべき石灯籠なのに、

何故、此処にあるのか。

経緯は判らないが、流転を重ねてきたのは確かだろう。

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譜代の丸岡藩・有馬家は、幕末期に若年寄、老中を出す。

この石灯籠、将軍家重死去に際し、少年藩主を慮り、

家老たちが万事気を回して、寄進したのであろうな。

さて、来たりし方を振り返りつつ、探索を進める。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月17日 (月)

武州高麗郷逍遥(8)

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「聖天院」と呼ぶのは、歓喜天を本尊としているからで、

正式には「高麗山勝楽寺」と号する。

高麗神社に連なる南側尾根の麓が、その場所だ。

やはり、一寸長い参道を辿る。

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立派な山門が観えてきた。

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途中、白装束の巡礼者と往き違う。

札所の一つなのだろうか。

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歓喜天が祀られる経緯は、高麗王若光と供に渡来した、

高句麗僧、勝楽が歓喜天像を所持していたからと云う。

彼は、若光の持僧を務め、

若光の死後、菩提を弔う誓願を立てる。

しかし、果たせず寂し、若光の三男で僧籍に入っていた、

聖雲が受け継ぎ、当寺を建立した。

時に、天平勝宝三年(751)の事と伝える。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月15日 (土)

武州高麗郷逍遥(7)

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高麗神社から、やや南に下った、別当寺へ向かう。

何よりも、静かな秋日だ。

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とある民家の庭先で、挨拶を受け、

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畑中の農道を歩行する。

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向こうの山裾に観えて来たのが、目指す「高麗山聖天院」だ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月14日 (金)

武州高麗郷逍遥(6)

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「高麗家住宅」は、近世初期の建築と想われるが、

中世民家の雰囲気を残す、古風な造りである。

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内部に入ることは出来なかったが、柱と梁は、中世建築の如く、

手斧(ちょうな)痕を残し、表座敷には、床の間の祖形である、

「押板」(おしいた)を備えているようだ。

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高麗王若光の子孫は、代々、今日に至るまで祖霊祭祀に携わり、

六十代目を数えると云う。

明治期以降は宮司だが、それ以前は「僧形」で、

「別当職」を務めていたのだろう。

中世世界では、在地武士化していたらしいが、

手元の史料が揃わないので、詳しくは判らない。

もう一寸、調べてみたい。

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「別当職」であるから、当然、最寄りに「別当寺」に、

相当するものが現存する。

引き続き、其方の探索へ向かうとしよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月13日 (木)

武州高麗郷逍遥(5)

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天智天皇七年(668)半島では、唐、新羅の連合軍によって、

高句麗が滅亡する。前後して、多くの人々が列島に渡来した。

その主立った者の中に、高麗王若光がいたようだ。

二年前に来朝した、高句麗使節の一員だっとも云う。

大宝三年(703)叙階した若光は、王姓を賜与され、

高麗王(こまのこきし)を名乗る。

霊亀二年(716)続日本紀に拠れば、東国七カ国の高麗人、

1799人を武蔵国に移し、高麗郷が設置された。

集団を率いたのは、若光だったと云われる。

若光の死後、子息たちが祀ったと伝わるのが、

この社の始まりだ。

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さて、境内で現存最古の建造物がこれだ。

社殿裏の、高麗家住宅(江戸初期・重文指定)である。

おっと、此処も修復工事に入ったらしい。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月12日 (水)

武州高麗郷逍遥(4)

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二の鳥居前まで来た。

結構、参詣者で賑わっている。

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参道傍らの楠。

他の植樹もそうだが、献木されたのは、さほど古くなく、

明治期以降だ。

寄進者には、地元はじめ、政治家の名が目立つ。

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高麗神社を称したのも、明治の神仏分離以降のようだ。

近世以前は「高麗大明神」 あるいは「白髭大明神」と呼んだらしい。

謂うまでも無く、日向薬師宝城坊の鎮守も同じである。

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石段を上り、中門をくぐると、権現造りに似た、本殿が現れる。

境内、いずれの建造物も、近年造営されたものだろう。

近世以前の風情が失われているのが惜しまれる。

さて、祭神の「高麗王若光」ことだ。

拠り所になる記録は極めて少ないのだが、一寸追ってみよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月11日 (火)

武州高麗郷逍遥(3)

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高麗川に架かる橋を渡り、対岸をやや登る。

「橋」と云えば、多少こだわりがあるので、全景を一枚収める。

凡そ、異界への入り口には、欠かせない装置の一つだろう。

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再び、畑地を抜け、

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庚申塔と馬頭観音が立ち並ぶ角を曲がって、

古道と想しきに道と合流する。

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道なりに一寸進み、高麗神社の一の鳥居前に出た。

さて、境内の探索に掛かろう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月10日 (月)

武州高麗郷逍遥(2)

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秋の午後の日差しを浴びながら、

高麗川駅より高麗神社へ向けて、歩行する。

三十分程の、一寸した距離なのだが、結構愉しんだ。

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時折、往き当る草原は、休耕地か放牧地のようだ。

こんもりとした木立は、屋敷林の跡らしく、

決まって、その近くに、屋敷墓がある。

こういった景観は、埼玉、東京西部、多摩、相模原、伊勢原など、

かつての武蔵国と相模国に跨る、各地域に共通する。

歴史、民俗、宗教的にも、通低するものがあると、

考えるべきだろう。

もとより、古代に遡る、渡来人の遺跡も、それに含まれるわけだ。

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高麗川を渡った。

川らしい川と謂うのも変だが、

どこか、魅かれる雰囲気を持つ川である。

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下流方向を望む。

此岸から彼岸へ至る道程も、こんな感じなのかと、

想ってみたりした。

橋を渡って、河岸を登れば、高麗神社は直ぐだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月 9日 (日)

日向薬師宝城坊へ(13)

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修復工事中の薬師堂右手奥、タブノ木の洞に、

虚空蔵菩薩を祀った祠があった。

今日も、参拝者が絶えないようだ。

さて、そろそろ、日向薬師宝城坊の探索を終えるとしよう。

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下山途中、林道脇の薄原。

向こうに、伊勢原の街が垣間観えた。

その先は江の島か。

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今回は、大山(雨降山)から、伸ばした延長線上の、

東側を探索したわけだが、

次回、それを西側へ、箱根山まで伸ばし、

同一線上に発見した、意外な霊験所を訪ねる。

各地を結ぶ、興味深い繋がりが浮かび上がってきたのだ。

おっと、その前に、高麗神社のことも、触れねばなるまい。

一寸、お待ちを…

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月 6日 (木)

日向薬師宝城坊へ(12)

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表参道沿いに、何本もあった杉の古木だが、

極め付きは、薬師堂脇の二本杉だろう。

「幡(はた=ばん)かけの杉」と呼ばれ、

推定樹齢は八百年を超える。

南北朝期、初代鎌倉公方の足利基氏(1340~67)が奉納した、

幡(=仏前や法要の場を荘厳する旗。現物は金沢文庫の、

    特別展に出品予定だった)を掛けたと云う杉である。

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一寸、観上げてみた。

古木だけれど、すくっと立って居て、実に気持ちが良い。

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もとより、かなりの高さだから、首が痛い程だ。

既述のように、当地は岩盤が浅いので、深く根が張れない。

この二本杉もそうで、中世世界を通り抜け、

数多の人々の手間も経て、今日まで、命を繋いできたわけだ。

愛おしさも、さることながら、今後の長命を祈らずにいられない。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月 5日 (水)

日向薬師宝城坊へ(11)

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日向薬師宝城坊の本尊、鉈彫り薬師三尊像は、年何回かの、

開帳日にしか拝観出来ないが、いつもは、宝物殿の厨子の中に、

納まっている。その厨子も、大きく重厚で、室町期のものだ。

他に、丈六の薬師と阿弥陀坐像、四天王、十二神将などが並び、

殆どが重文指定になっており、観応えがある。

これらの仏たちは、室町期の作と考えられていたのだが、

修復後、一時代遡る鎌倉期と判ったそうだ。

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いずれも、撮影不可なので、宝城坊のサイトで、ご覧頂こう。

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こぢんまりとしているが、茶店やお土産店も出ていた。

それにしても、金沢文庫での特別展、無期限延期は悔やまれる。

上記の仏たち、実は、ご出張直前だったのだが、

未だ、宝物殿の中に、お留まりの儘なわけだ。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月 4日 (火)

日向薬師宝城坊へ(10)

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日向薬師宝城坊の本堂、薬師堂は、江戸前期の再建、

茅葺屋根の、鄙びた堂だったが、

2011年より、大規模修復工事に入っている。

完成予定は2016年で、工事は山場を超え、

中世以前の古い部材が見つかるなど、新発見もあったようだ。

この秋、金沢文庫で予定されていた「特別展」では、

本尊の薬師三尊像(重文)が拝観出来るはずであった。

横浜・弘明寺の十一面観音像と並ぶ、東国平安期の、

鉈彫り仏の代表作である。

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工事中の仮設屋の内部を一寸覗いてみた。

柱は、ほぼ立ち上がり、屋根組みに移っているのが判る。

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鐘楼堂(宝暦三年=1763)薬師堂以外では唯一の古建築だろう。

梵鐘(重文)には、暦応三年(1340)の銘文がある。

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さて、隣の宝物殿で、仏たちに逢うとしよう。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月 3日 (月)

日向薬師宝城坊へ(9)

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確かに、参道際の立ち並ぶ、杉古木たちには、

人が植えた気配が濃厚に残っていた。

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最後の石段へ掛かる。

このように、殆どの霊験所へ向かう参詣道は、

その最終段階に於いて、長々と屈曲しながら、高みに至ると云う、

形式を踏襲する。

凡そ、極楽浄土へ至る、冥界の道筋に「見立てた」と、

想っていいのではないか。

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再び、来たりし方を振り返り、

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「極楽浄土」を目前にする。

おっと、重文指定の「薬師堂」は、大規模修復工事中なのだった。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月 2日 (日)

日向薬師宝城坊へ(8)

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表参道の周りは、スダジイ、タブノキ、モミ、ケヤキなどの、

自然林と、杉の植林に覆われている。

参道沿いの杉の巨木も、人が植えたものだろう。

ただ、一寸興味深い話を聞いた。

この辺りは、直ぐ固い岩盤に当るので、

樹木が根を深く下ろすことが出来ない。

だから、上掲のような、根上がりの古木が目立つのだ。

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横へ根を張れる木はいいが、杉だと、根が浅くなり、

倒木が増える(もとより、水害の多発地帯だ)

現在、杉の植林地になっているところは、

若木ばかりで、たった半世紀前は、竹林だったと云う。

かつては、竹細工の職人が材を求めて、よく分け入っていたようだ。

表参道石段下の集落に、名残りらしき竹林を見付けた。

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つまり、往時と今日の景観が、根本的に異なっていたという、

可能性を、何時も念頭に置いて、探索する必要があるわけだ。

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さて、もう一つコーナーを廻れば、最後の石段が視界に入ってくる。

(捨身 Canon G1X)

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2014年11月 1日 (土)

日向薬師宝城坊へ(7)

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最初の登りを過ぎて、中腹の平場へ出た。

右手に石仏が祀られる。

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一見、三尊仏のようだが、中央は錫杖を持つ、地蔵の立像で、

左右は、形式が異なるが、馬頭観音だ。

いずれも新しく、明治年間の紀年銘が読み取れた。

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表参道は、この辺りで一度、右へ屈曲する。

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一寸、道を外れると、こんな山中に屋敷墓があったりする。

寺域なので、宝城坊の歴代住持の墓所だろうか。

(捨身 Canon G1X)

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