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2014年12月12日 (金)

鎌倉大町界隈 (6)

B14121101
比企ヶ谷(ひきがやつ)の故事について、一寸だけ触れる。
鎌倉幕府草創期の、一連の権力闘争のドロドロに因む。
頼朝と二人の息子たち、頼家、実朝の不慮の死。
そして、北条氏の権力奪取の端緒に於いて、
頼家と外戚関係にあった比企一族が、この谷戸で滅ぼされた。
比企一族の乱(建仁三年=1203 九月二日)である。
多くの人々が死んだが、その中に頼家の嫡男一幡がいた。
吾妻鏡に拠れば、舘の焼け跡から、
一片の焼け焦げた小袖が見つかったのみと云う。
一幡の小袖を埋めたと伝わる「袖塚」(上)が残る。
B14121102
比企一族の墓所もある。
例によって、完膚無きまでに滅亡してしまった一族なので、
不明な点が多いのはやむを得まい。
一説に、奥州藤原氏と同じ、秀郷流とも云われる。
もとより、武蔵国比企郡(現埼玉県)が本貫地だが、
頼朝の乳母を務めたと云われる「比企の尼」は、
当主能員(よしかず)の養母で、京都在住だったのだろう。
しかも、流人だった頼朝を、当初から一族挙げて、
陰日向より、援助し続けていたのだ。
同様に、頼朝の流刑先の伊豆から、政子の存在を介して、
支援に回った北条一族は、実は後発に過ぎず、
双方の微妙な関係は、いずれは、真っ向から、
ぶつかる必然性を内包していたわけだ。
B14121103
まぁ、乱の経緯は、吾妻鏡の本文に譲るとして、
所謂「北条陰謀説」についても、在り来たり過ぎて、
此処では深く追及しない。
とりあえず、大町界隈のほうへ戻るとしよう。

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