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2014年12月13日 (土)

鎌倉大町界隈 (7)

B14121201

妙本寺の参道のところまで戻ってきた。
手前の冠木門は、本堂と庫裏への入り口で、左の小径を往くと、
「蛇苦止明神社」(じゃくし)と呼ぶ小祠がある。
今は妙本寺の鎮守社だが、一寸面白い伝承が残る。
比企氏の乱(1203)以降、ここ比企ヶ谷は怨霊の地となったようだ。
五十年余り後の吾妻鏡、文応元年(1260)十一月の条に拠ると、
北条一族の重鎮、北条政村の娘が俄かに悩乱、
蛇体の様相を呈し、乱で死んだ比企一族の娘「讃岐局」
(頼家の嫡男一幡の母、若狭局とも)が蛇身に変じて、
祟りをなしているのだと口走った。
父親の政村は、時の鶴岡八幡宮寺別当隆弁に調伏を依頼する。
娘は平穏に戻り、比企一族の舘跡に、この社が建立されたと云う。
また、妙本寺を開いた比企一族の生き残りとは、
「讃岐局」の末弟、比企能本(よしもと)であり、
彼は僧籍に入って、日蓮に帰依、当地で法華堂を建立、
一族の亡魂を供養したのが始まりだ。
中世世界では、怨霊となった者の、直系子孫の祭祀を、
一番の効き目があるとする。
吾妻鏡の文応の一件によって、怨霊封じの寺となったわけだ。
B14121202
蛇身となった「讃岐局」の怨霊は、その後も猛威を振るう。
鎌倉後期より、人口が増えた鎌倉では、
薪炭に窮することがあった。
周囲の山々は禿山と化し、比企ヶ谷はもとより、
谷戸々では、土石流が頻発したのであろう。
いつしか、「讃岐局」の怨霊と重ね合わせられ、
「蛇苦止明神」には、人々の水害除けと雨乞いの願いが、
籠められるようになったのではないか。
B14121203
さて、再び「小町大路」を辿ろう。
この古道の風情、何処かとよく似ているような…
(捨身 Canon G1X)

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