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2014年12月の記事

2014年12月31日 (水)

鎌倉大町界隈 (25)

B14123001

再び、出発点の夷堂橋に戻る。
右手の看板に「八雲町」とあるが、もとより、その字名は新しい。
「八雲社」(大町祗園天王社)の名称が生まれたのは、
明治の神仏分離以降である。祗園社が在った辺りは、
中世世界では「大町八町」内で「町小路」と呼ばれていた。
B14123002
大町の境界を越え、小町大路を辿り「小町」に入る。
現在の幅員はご覧通りだが、既述の如く、往時はこの3~4倍、
20m超であったことが、沿道裏の発掘調査で確かめられている。
「小町」も大町同様、文永二年(1265)に幕府が認めた、
B14123003
暫く小町大路を北上する。道はほぼ真直ぐだ。
この一帯は、おそらく、大町側より、鶴岡八幡宮寺へ至るまで、
間断無くぎっしりと、町屋が建ち並んでいたことであろう。
B14123004
此処で小町大路は、鶴岡八幡宮寺方向(左)から来る「横大路」と、
合流し、「六浦道」(むつらみち)」になって、東方(右)へ、
大きくクランクする。文字通り、鎌倉府内最大の「筋替」だと想う。
武家の都、鎌倉の結界として、大きな意味を持ったはずだ。
同時代の京都や平泉にも、似たような「筋替」があったのではと、
想像が膨らんでいくのを抑えられないでいる。
さて、とりあえず、当地を今回の探索の終着点としよう。
「筋替」の問題は、今後も引き続き考えて往く。
(捨身 Canon G1X)
…………………………………………
*年末年始は、近刊の、
 ~現代思想 二月臨時増刊号 総特集 網野善彦  
                 無縁・悪党・「日本」への問い~
を熟読したく、暫時、投稿を休みます。
当ブログ、及びツイッターにて、
感想をお伝え出来ればと思って居ります。

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2014年12月30日 (火)

鎌倉大町界隈 (24)

B14122901

さて「祗園山・安養院」を出て、大町大路を大町四ツ角へ戻る。
途中、古道沿いの、昭和の町屋などを撮影しながら、
再び小町大路を北上、出発点の夷堂橋を目指そう。
B14122902
ところで、現在の鎌倉市の人口は、173000くらいと聞いた。
中世世界の鎌倉の人口は如何程であったか。
最盛期の鎌倉末期頃で、推定五万~十万と、
甚だ大まかな数字しか得られていない。
永仁元年(1293)四月の大地震では、谷戸々が崩れ、
寺社が倒壊、死者二万三千人にのぼったと云う記録があり、
それを信用すれば、十万人近かったのではないかとも想える。
町屋が密集「木密」と化していた様子も、かなりイメージ出来る。
正和四年(1315)三月には、和賀江(小町大路をさらに南下して、
和賀江津に臨む港湾地区。此処も町屋密集地だ。概念図参照
より出火、みるみるうちに延焼し、炎は鶴岡八幡宮寺を包み、
山内(現北鎌倉)の建長寺も類焼してしまったと云うのだ。
B14122903
大町会館前。裏手は八雲社(大町祗園天王社)辺りだ。
今となっては、この風情、好ましいものになっている。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月29日 (月)

鎌倉大町界隈 (23)

B14122801

大町の東端へ近づいている。
「祇園山・安養院」を観て、踵を返すとしよう。
日蓮宗、時宗と来て、浄土宗寺院である。
中世世界の大町は、絵に描いた京都の雛形のような、
都市的な場だったわけだ。
「安養院」とは、北条政子の法名を採ったと云う。
長谷に在った律宗寺院と、当地の浄土宗寺院が、
鎌倉末期に一緒になり、併せて、比企ヶ谷の観音堂の、
千手観音が祀られ、今の形になったようだ。
「浄土宗名越派」と刻した、大きな石柱が門前に立っている。
B14122802
境内に入ると、まず、姿のいい「槇」(高野槇)の古木へ目が往く。
樹齢七百年以上と云うから、もとより、中世人が植えたものだろう。
「槇」は、古代に於いては棺材、耐水性の強さもあって、
船材、桶材などに使われた。此処に植えられた意味合いも、
水との縁に由るのだろうか。富士吉田の御師屋敷でも逢ったな。
B14122803
門前より、小坪方向、名越の切通し辺りを望む。
よく晴れた初冬の空、切通し上の斎場の煙突に、
煙が棚引くのがよく観えた。
考えてみれば、名越は、鎌倉の東の境界、
中世以来続く、葬送地なのだった。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月28日 (日)

鎌倉大町界隈 (22)

B14122701

さらに大町小路を進み、二つ目の時宗寺を探すも、
通り過ぎてしまう。もしやと引き返し、目を凝らしてみれば、
普通の住宅のように観えていたのが、その寺なのだった。
「別願寺」(べつがんじ)と云う。
時宗寺に有り勝ちな、末枯れ方だろうか。
もとは真言寺院だったが、住僧が一遍の弟子になったのを機に、
弘安年間(1278~88)に時宗へ改宗したようだ。
室町期には、鎌倉公方の帰依を受け、鎌倉府内では、
屈指の時宗寺院に発展する。
B14122702
境内に入り、大町小路側を振り返ったところ。
路上からは判り難いのだが、左手に細長い墓域がある。
B14122703
永享の乱(1439)で憤死した、公方足利持氏の供養塔と伝わる、
石造多宝塔が残っている。高さ3mを超える、なかなかの石塔だが、
時代はやや古く、鎌倉後期へ遡る。
基壇の蓮華文様などは、極楽寺の忍性塔に類似しているので、
同じ石工集団の手になる可能性もあろう。
B14122704
例によって、片隅に集められた、多数の五輪塔、宝篋印塔、
層塔などの残欠へ魅かれる。多くは中世のものだろう。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月27日 (土)

鎌倉大町界隈 (21)

B14122601

「辻の薬師堂」前から、小町大路を「大町四ツ角」まで戻る。
昭和の町屋風建築が目に付くが、
いずれ、消え去る運命にあるのだろう。
歴史上、庶民の住宅が残る例は稀である。
先頃も、東京の本郷で明治期の三階建て下宿館が取り壊された。
もとより、権力者側の立派な城郭や御殿、寺社ばかりが、
「遺産」なのではない。
滅び去り、或いは故意に消し去られてしまった、
圧倒的大多数の、民衆の「遺産」を見落とさず、
ほんの僅かな痕跡からでも、拾い上げることが、
筆者の「探索」の理想とするところなのだ。
B14122602
「大町四ツ角」を右折、大町大路を名越方面へ進む。
「傘町」(からかさまち)の辺りか。
中世世界の町屋は、既述のように、疫病の巣だったわけだが、
所謂「木密」(木造住宅密集地域)でもあり、災害に脆弱だった。
吾妻鏡にも、度重なる鎌倉の大火の記述が出てくる。
発掘調査では、火災や地震の液状化の痕跡(津波も)ばかりか、
その度に、何度も建て直そうとした様子も確認出来るそうだ。
焼跡に、取る物も取り敢えず、
立ち上がる人々の姿を想い浮かべてみる。
B14122603
大町大路沿いの空き地。
裏庭の古井戸だけが残っていた。
実際、これとそっくりな感じで発掘された、
七百年前の町屋跡があったようだ。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月26日 (金)

鎌倉大町界隈 (20)

B14122501

「辻町」へ入ると、直ぐ右手に、この町のランドマークを観る。
「辻の薬師堂」と云う。
元は明治二十年代に、裏手を走る横須賀線の開設で、
廃寺となった、真言寺院、医王山・長善寺の境内だった。
本堂が取り壊され、薬師堂だけが残ったのだ。
B14122502
此処には、鎌倉では珍しい平安仏が伝わっている。
素朴な一木造りの、本尊・薬師如来立像だ。
脇侍の日光、月光の両菩薩、鎌倉期作の十二神将など、
現在は、全て「鎌倉国宝館」に収蔵され、常時拝観出来るので、
お薦めである。
そもそも、大町の外れ、海岸寄りの「辻町」に、
平安仏が残る由縁は何なのか。鎌倉に頼朝が入るかなり以前、
父親の義朝の舘が在った頃の話だろう。
横須賀線の線路を渡ったところには、嚢祖・頼義が、
勧請したと云う「元八幡社」[鶴岡由比若宮)もある。
当時は、最寄りの海岸線に古東海道が通っていたと想われるから、
既に、都市的な場の萌芽があったのかもしれない。
B14122503
堂横に並べられた石塔類。
中世の五輪塔も混じっているようだ。
横須賀線の踏切手前で踵を返し、小町大路を戻って、
次は、大町の東側を探索してみよう。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月25日 (木)

鎌倉大町界隈 (19)

B14122401

中世世界の、鎌倉の「町屋」の様子が具体的に判る、
絵画史料は殆ど残っていない。
やはり、頼りになるのは「一遍聖絵」だ。
山内路の木戸から、鎌倉入りを果たそうとする、
一遍一行の姿を描いた場面の背景(上掲)に、
大路沿いの、粗末な家並みが観える。
店舗や工房と、住居を兼ねた家屋のようだから、吾妻鏡に云う、
「町屋」とは、このような建造物を指すのではないか。
発掘調査では、多数の掘立柱痕と、地面を浅く掘り下げた、
床面を持つ建物跡が、何層も重なるように見つかっている。
「方形竪穴建築址」と呼ぶらしいが、「町屋」と捉えていいだろう。
「竪穴」といっても、低い床板が張られ、囲炉裏が切ってある。
壁板は地面に直接埋め込まれ、掘っ立て柱を補強する構造だ。
上掲の「一遍聖絵」でも、それっぽい壁面が見て取れよう。
各々の敷地は、道に面して間口5~6m、奥行きは15mと、
典型的な短冊形になっており、現存の近世町屋とよく似ている。
こんな感じの小さな「町屋」が、大路に挟まれた狭い場所に、
犇めく様に密集する光景が目に浮かぶ。ある意味、スラムであろう。
もとより、屋内にトイレはない。路上へ不法に(屡、禁令が出た)
せり出して設置したり、或いは、大路の片隅(餓鬼草紙に出てくる)
だったりである。疫病が流行ったら、ひとたまりもあるまい。
「大町祇園社」の祇園御霊会が、偏に恃まれた所以なのだ。
B14122402
さて、小町大路を進む。
信号が観えるところが「大町四ツ角」だ。
右の製麺店の看板に、旧住所表記で「大町辻」と読めるので、
「辻町」辺りに、やって来たわけだ。
B14122403
昭和の「町屋風」家屋と云った風情か。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月24日 (水)

鎌倉大町界隈 (18)

B14122301

「大町四ツ角」(米町辻)を右折し、小町大路を海側へ辿る。
前回、渋谷ハチ公前の交差点を引き合いに出したが、
実際の渋谷駅前の公道は、各々16~18m程度に過ぎず、
スクランブルの部分で、最大幅は対角線上の30m弱だそうだ。
と云うことは、中世世界の鎌倉「大町四ツ角」のほうが、
明らかに大きかったわけだ。
この狭い鎌倉府内でこの広さ、当時の土地利用の実態を、
考え直してみる必要があるだろう。稿を改め、後述しよう。
B14122302
直ぐ小さな橋を渡る。
滑川の支流「逆川」(さかさ)に架かる「魚町橋」だ。
「魚町」が在った辺りだろうか。
今は側溝のような、ほんのちょろちょろの流れだが、
侮ってはならない。
滑川も、夷堂橋の本覚寺裏まで、米穀を積む舟が遡り、
「米町」の物流の要になっていたのである。
同様に、この橋の際で、鎌倉の海岸で水揚げされた、
新鮮な魚を、舟で運び込む光景を想い浮かべたい。
B14122303
何故か「勘介」を彷彿とさせる歴戦の欄干だ。よくぶつけるのか。
B14122304
反対側の欄干。「いをまちはし」とは、如何にも、雅な響き哉。
(捨身 Canon G1X) 

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2014年12月23日 (火)

鎌倉大町界隈 (17)

B14122201

「大町大路」を、やや東へ進むと「小町大路」に交わる。
「大町四ツ角」あるいは「米町辻」(こめちょうつじ)と呼ぶ。
現在は、何の変哲もない、小さな交差点だが、
既述の如く、鎌倉期の大路は、20m超の道幅と判っているから、
渋谷ハチ公前も斯くやと想われる、大交差点だったはずだ。
昼間は、往来する人馬、荷車の騒わめきが途切れることなく、
当時の鎌倉では、最も繁華な場所であったろう。
因みに、市内の発掘調査では、多数の轍が見つかっている。
殆どが荷車のもので、京都や平泉のような、
牛車は使われていなかったらしい。
鎌倉在住の貴人は、外出には、専ら輿を用いたようだ。
B14122202
交差点を渡って、東側より、極楽寺坂方向を観る。
B14122203
さて、再び「小町大路」に戻って右折、海側へ向かい、
「魚町」と「辻町」を目指そう。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月22日 (月)

鎌倉大町界隈 (16)

B14122101

「中座」が在った教恩寺山門から、南へ下ると直ぐ「大町大路」だ。
極楽寺坂を超えて、名越へ抜け、鎌倉を東西に横断する、
所謂「古東海道」である。
「小町大路」をはじめ「大路」と呼ぶ古道は、鎌倉期には、
現在の道幅の3~4倍(20m超か)あったことが、
発掘調査で判っている。
今でこそ、こんな狭い市内で想像するには、
信じられない程の広さだ。
人々が犇めき合って往来していた、そんな広場のような「大路」が、
日蓮の「辻説法」の舞台だったわけだ。
B14122102
角を曲がって「大町大路」に入る。
前回掲げた地図に拠れば「米町」の辺りだ。
古道に沿って、職人の工房や個人商店が点在する。
B14122103
極楽寺坂方向へ、一寸戻ったところに、
昭和の風情を残した肉屋さんを見つけた。
筆者の幼少期には、何処にでもあった店構えだが、
最近は珍しくなった。
ラードを使った、肉屋さん独特の揚げ物の匂いに誘われ、
想わず店内へ…
B14122104
ちょうど小腹の空く頃合だ。
残っていた、揚げ立てコロッケ三枚を求める。
ご覧のとおり、ケースが空なのは、その為である。
もとより、あの懐かしい味わいだった。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月21日 (日)

鎌倉大町界隈 (15)

B14122001

上掲したのは、これから最深部へ分け入ろうとしている、
大町界隈の拡大図だ。
鎌倉祇園会を支えた「大町八町」の推定位置が示される。
今までの探索の足取りを辿れば、
夷堂橋の筋替えを振り出しに、本覚寺→妙本寺
→常栄寺(ぼたもち寺 上図では松殿付近)
→八雲神社(大町祗園天王社 上図では町小路付近)となる。
さて、小町大路を跨ぎ、次の探索地「中座」へ向かおう。
B14122002
典型的な鎌倉の路地裏が続く。
祗園社側を振り返って観る。背後の木立は「祗園山」だ。
おっと、通り過ぎてしまったようだ。
B14122003
住宅街に隠れるように時宗寺があった。
字名を採って「中座山・教恩寺」と呼ぶ。
小田原の北条氏康が材木座の光明寺内に建立し、
江戸初期に「中座」へ移ってきたと伝わる。
もとより時宗寺院も、日蓮宗寺院と同様、
中世世界の都市的な場では、相応しい宗教装置に違いない。
そもそも「中座」と云うのは、
当地に棲む商人や職人=「町衆」(ちょうしゅ)たちが、
地縁的な結びつきで組織した「町座」の中心を指す。
市庭を管理する司令塔であったから、商業的な意味では、
此処が大町の核心部なのだ。
位置的にも、大町祗園社の直近、西正面に当たり、
鎌倉祇園会の際も「船鉾」がまず最初に巡行したのであろう。
B14122004
境内には、新旧入り混じった石塔が並んでいた。
各部材は、継ぎ合わせのようだが、
古くは、中世へ遡る、五輪塔と宝篋印塔か。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月20日 (土)

鎌倉大町界隈 (14)

B14121901

例によって、大町祗園社境内にも、楠の巨木がある。
樹齢、四五百年前後か。
応永二十九年(1422)の佐竹邸夜討ちに遭っていたらと想う。
B14121902
祗園社を出て、結界の内を外側より観る。
今でこそ、鬱蒼とした社叢林はよく守れているが、
関東大震災では、社殿が全て倒壊、壊滅的な被害を蒙っている。
その頃は「お天王さん」と呼ばれ、
中世世界以来の、鎌倉祇園会(祭)を支える「町衆」(ちょうしゅ)
の組織が生きていたようだ。
所謂「大町八町」とは、
「町小路、中座(なかざ)松殿(まつどう)傘町(からかさ)
米町(こめ)魚町(うお)辻町、小坪」の町々を指し、
「大町月番」あるいは「天王番」と呼ぶ、各町五人の人々が、
選ばれて、祭りを取り仕切ってきたのだ。
B14121903
現在、大町界隈で、上記の町々の場所を特定するのは、
かなり難しくなっているが、残っている字名もあるので、
探索してみよう。
まずは、小町大路に戻り、古道を渡った向こう側、
「中座」が在った街区を目指す。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月19日 (金)

鎌倉大町界隈 (13)

B14121801

現存する、大町祇園社の四基の神輿には、
所謂、祇園三神=「素戔嗚」(主神)「稲田姫」(妻)「八王子」(子)に、
加えて、「佐竹天王」と呼ばれる、異形の神が祀られた。
「佐竹天王」とは、一体どんな神なのか。
比企氏の乱(1203)より二百年余り後、この谷戸で再び悲劇が起る。
応永二十九年(1422)鎌倉公方・足利持氏の重臣、佐竹入道常元、
(与義=ともよし)が、祗園社に程近い館で、公方の夜討ちを受け、
自害したのだ。事件の後、彼の怨霊が猛威を振るい、大町から、
鎌倉中へ悪疫が広がって、過半の人々が死に失せたと云う。
B14121802
当時、大町界隈は、既に町屋が立ち並ぶ、繁華な町場であった。
町方の多くの人々が、夜討ちを身近に目撃したのであろう。
疫病を齎した、怨霊の恐ろしさは切実だった。
「佐竹天王」=佐竹入道の御霊が、最寄りの大町祗園社に、
合祀された背景には、そんな事情があったわけだ。
B14121803
ここで、奇妙な暗合がある。
佐竹氏は源氏の名門、なんと先祖は、ここ大町祗園社を勧請した、
新羅三郎義光、その人と云うことになっているのだ。
二つの伝承が、表裏で深く絡み合っているとしか謂いようがない。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月18日 (木)

鎌倉大町界隈 (12)

B14121701

現在の「大町祇園社」の社殿は、実にこぢんまりとして、

悪くない風情なのだが、往時は、もっと立派だったはずだ。

旧暦の六月七日から十四日は「鎌倉祇園会」であった。

各町から「船鉾」が出て、鎌倉府内を巡行し、六浦道を辿って、

鎌倉公方御所(浄妙寺付近)まで至ったと、室町期の記録にある。

御所では、六浦道に面した築地上に桟敷を設け、

公方夫妻の高覧に供するのが恒例だったようだ。

これは、おそらく、京都で行われる祇園会を強く意識したもので、

中世世界で守られた、吉例の踏襲、或いは見立てでもあったろう。

B14121702

だが「鎌倉祇園会」の記録は、この程度で極めて少なく、

吾妻鏡などの「公式記録」では、一行も触れらていない。

あくまでも、武家にとっての鎌倉の祭りは、八月十五日に、

鶴岡八幡宮寺で行われる「放生会」(ほうじょうえ)だった。

本来「鎌倉祇園会」は、町方が主役の祭りなのである。

B14121703

「船鉾」巡行は、江戸期までは続いていたらしい。

近代に入って、鎌倉市内に電線が張り巡らされるに及んで、

大型の鉾は影を潜めてしまったと云う。

境内には、今も夏祭りに出る神輿が四基、展示されており、

いずれも古様で、中世へ遡る可能性がある。

(捨身 Canon G1X)

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2014年12月17日 (水)

鎌倉大町界隈 (11)

1B14121601

常栄寺からやや下り、大町の核心部と云うべき「八雲社」に至る。
明治の神仏分離以前は「祇園天王社」(大町祇園社)であった。
牛頭天王(現在は須佐之命)を祀り、疫病神、怨霊を鎮める社だ。
もとより、中世世界の都市的な場では、必須の宗教装置である。
古く平安の永保年間(1081~84)兄、源義家を助けるため、
奥州へ下った新羅三郎義光が、鎌倉を通った際、
悪疫の流行を見て、京都の祇園社(八坂神社)を勧請したのが、
起源と伝わる。
B14121602
そう、祇園と云えば、祇園御霊会(祇園祭)だ。
大町祇園社でも、「鎌倉祇園会」と呼ばれ、
遅くとも鎌倉後期には始まり、室町中期から戦国期にかけて、
最盛期を迎えたと考えられている。
京都の祇園会と、並び称されるほどの祭りだったらしい。
B14121603
一寸、往時の様子を想い廻らしてみよう。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月16日 (火)

鎌倉大町界隈 (10)

B14121501

小町大路に戻り、夷堂橋を過ぎて、大町の核心部へ進む。
こうやって振り返って観ても、夷堂橋の「筋替え」は、
かなりはっきりと、残っているのがよく判る。
鎌倉市内でも屈指の「筋替え」だろう。
この古道の風情、何所かとそっくりだと想っていたら、
そう「奈良坂」だった。人通りが多いのは別として、
此処が鎌倉なのを忘れてしまうくらいだ。
B14121502
路地裏に入ってみよう。
一転して、鎌倉らしい、昭和の住宅街の小径が現れるが、
時折行われる発掘調査では、足下に中世世界の町屋が、
見つかる所でもある。
妙本寺の並び、海側へ一寸下った辺りだ。
B14121503
三つ目の日蓮宗寺院「ぼたもち寺」常栄寺に突き当たる。
日蓮が「龍ノ口の法難」(文永八年=1271)に遭い、
刑場へ引かれて往く際に、印東次郎左衛門尉佑信の妻、
桟敷尼日栄が、ぼたもちを差し出したと云う伝承に因む寺だ。
大町界隈は、日蓮が棲んだ松葉ヶ谷に程近く、
彼に帰依し、サポートする商人や職人たちも多かったようだ。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月15日 (月)

鎌倉大町界隈 (9)

B14121401

「蛇苦止明神社」境内を探索してみよう。
「蛇形の井」と呼ぶ井戸が残る。
妙本寺の寺伝に拠れば、比企氏の乱(1203)で、
「若狭局」(頼家の嫡子、一幡の母。讃岐局とも)が、
身を投じたのだと云う。怨霊となった彼女は、蛇身へ化し、
今でも、比企一族の家宝を守っているのだとか。
あるいは、尾根を隔てた東側、名越寄りの谷戸、
松葉ヶ谷(日蓮の草庵が在ったことで知られる)にある、
「六方の井」とは底が通じ、主の蛇が間を往復しており、
彼女が居る時は、水面に小波が立つなんてことも。
日蓮が、極楽寺の忍性と雨乞いの祈祷を競ったのが、
当地であったと云うから、その関りで生まれた伝承であろうか。
B14121402
井戸の左手奥の古池にも、入水伝説があるようだ。
落葉で覆われた池中に、ぽつんと五輪塔の残欠が顔を出していた。
形状から推すに、中世のものか。
谷戸奥の、やや斜面に拓かれた平地なので、
比企一族の舘跡内と考えられ、「若狭局」の常の居所が、
建っていた可能性もある。中世世界では、このような故地を選んで、
怨霊鎮めの小堂を祀るケースが多いのだ。
B14121403
さて、世話になった。
縁があったら、また逢おうな。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月14日 (日)

鎌倉大町界隈 (8)

B14121301

一寸気分が変わった。
折角だから、「蛇苦止明神社」(じゃくし)を覘いて往こう。
妙本寺の冠木門のところまで引き返して、左の小径へ入る。
途中、想わぬ「案内者」(あないしゃ)を得た。
B14121302
石段脇の茂みから「にゃごー」と声を掛けられ、
当方の先に立って、参道を露払いしてくれたのだ。
B14121303
参道の歩き方も、端を守ると云う、作法通りで、
実に、堂に入っていた。
時折、此方を振り返って「にゃんご」と何事か呟く。
筆者も「おぅ、そうか」と答えてしまう。
そんな風にして、一緒に上って来た我々を観たのか、
先客のこの子たち、不思議そうな顔をしていたのが、
印象的だった。
B14121304
「さあ、ここが、彼の蛇苦止堂ですぞ」
B14121305
「やぁ、いい写真撮れたかね」
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月13日 (土)

鎌倉大町界隈 (7)

B14121201

妙本寺の参道のところまで戻ってきた。
手前の冠木門は、本堂と庫裏への入り口で、左の小径を往くと、
「蛇苦止明神社」(じゃくし)と呼ぶ小祠がある。
今は妙本寺の鎮守社だが、一寸面白い伝承が残る。
比企氏の乱(1203)以降、ここ比企ヶ谷は怨霊の地となったようだ。
五十年余り後の吾妻鏡、文応元年(1260)十一月の条に拠ると、
北条一族の重鎮、北条政村の娘が俄かに悩乱、
蛇体の様相を呈し、乱で死んだ比企一族の娘「讃岐局」
(頼家の嫡男一幡の母、若狭局とも)が蛇身に変じて、
祟りをなしているのだと口走った。
父親の政村は、時の鶴岡八幡宮寺別当隆弁に調伏を依頼する。
娘は平穏に戻り、比企一族の舘跡に、この社が建立されたと云う。
また、妙本寺を開いた比企一族の生き残りとは、
「讃岐局」の末弟、比企能本(よしもと)であり、
彼は僧籍に入って、日蓮に帰依、当地で法華堂を建立、
一族の亡魂を供養したのが始まりだ。
中世世界では、怨霊となった者の、直系子孫の祭祀を、
一番の効き目があるとする。
吾妻鏡の文応の一件によって、怨霊封じの寺となったわけだ。
B14121202
蛇身となった「讃岐局」の怨霊は、その後も猛威を振るう。
鎌倉後期より、人口が増えた鎌倉では、
薪炭に窮することがあった。
周囲の山々は禿山と化し、比企ヶ谷はもとより、
谷戸々では、土石流が頻発したのであろう。
いつしか、「讃岐局」の怨霊と重ね合わせられ、
「蛇苦止明神」には、人々の水害除けと雨乞いの願いが、
籠められるようになったのではないか。
B14121203
さて、再び「小町大路」を辿ろう。
この古道の風情、何処かとよく似ているような…
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月12日 (金)

鎌倉大町界隈 (6)

B14121101
比企ヶ谷(ひきがやつ)の故事について、一寸だけ触れる。
鎌倉幕府草創期の、一連の権力闘争のドロドロに因む。
頼朝と二人の息子たち、頼家、実朝の不慮の死。
そして、北条氏の権力奪取の端緒に於いて、
頼家と外戚関係にあった比企一族が、この谷戸で滅ぼされた。
比企一族の乱(建仁三年=1203 九月二日)である。
多くの人々が死んだが、その中に頼家の嫡男一幡がいた。
吾妻鏡に拠れば、舘の焼け跡から、
一片の焼け焦げた小袖が見つかったのみと云う。
一幡の小袖を埋めたと伝わる「袖塚」(上)が残る。
B14121102
比企一族の墓所もある。
例によって、完膚無きまでに滅亡してしまった一族なので、
不明な点が多いのはやむを得まい。
一説に、奥州藤原氏と同じ、秀郷流とも云われる。
もとより、武蔵国比企郡(現埼玉県)が本貫地だが、
頼朝の乳母を務めたと云われる「比企の尼」は、
当主能員(よしかず)の養母で、京都在住だったのだろう。
しかも、流人だった頼朝を、当初から一族挙げて、
陰日向より、援助し続けていたのだ。
同様に、頼朝の流刑先の伊豆から、政子の存在を介して、
支援に回った北条一族は、実は後発に過ぎず、
双方の微妙な関係は、いずれは、真っ向から、
ぶつかる必然性を内包していたわけだ。
B14121103
まぁ、乱の経緯は、吾妻鏡の本文に譲るとして、
所謂「北条陰謀説」についても、在り来たり過ぎて、
此処では深く追及しない。
とりあえず、大町界隈のほうへ戻るとしよう。

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2014年12月11日 (木)

鎌倉大町界隈 (5)

B14121001

妙本寺は、戦前まで、代々の住職が池上本門寺と、
兼帯したと云うだけあって、日蓮宗の名刹だった。
朱塗りの立派な二天門は、往時の勢力のほどを、
偲ばせるに十分だ。
B14121002
さて、中世世界の都市的な場に集住した商人、職人たち、
あるいは、時衆、山伏、御師などの宗教者や、芸能者、
道々の輩も含めて、「町衆」(ちょうしゅ)と呼ぶことが多い。
まず、京都、奈良、博多、堺、大坂などの大都市が、
想起されるが、もとより鎌倉も、例外ではなかったはずだ。
B14121003
代表的な、京都の「町衆」と謂えば、祇園御霊会(祇園祭)の、
担い手であり、日蓮宗の信徒が多いことが知られる。
此処、大町界隈では、どうだったのだろうか。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月10日 (水)

鎌倉大町界隈 (4)

B14120901

そもそも、何故、鎌倉大町界隈の探索を想い立ったのか、
簡単に触れておこう。まず、上図を掲げる。
大町の大まかな位置は掴めるだろう。
現在のJR鎌倉駅から、若宮大路を一寸海側、逗子方向へ、
下った辺りで、徒歩十分以内で着ける。
図内、点線で囲ったところは、
吾妻鏡、建長三年(1251)十二月三日の条、
及び、文永二年(1265)三月五日の条に出てくる、
幕府によって「町屋」(常設の店舗と捉える)の設置が、
許可された地域を示す。
つまり、中世世界の鎌倉に於いて、商人や職人たちが集住し、
活発に活動していた「都市的な場」のことだ。
吾妻鏡に、具体的に挙げられている地名は、
大町、小町、米町、魚町、亀谷辻(武蔵大路下)
和賀江(津)、大倉辻、化粧坂上、筋替橋である。
中でも、大町、小町、米町、魚町地区は、鎌倉府内でも、
最も繁華な地域であったことが判っている。
この地域は、鎌倉の衰亡が始まったとされる、
享徳の乱(1455)以降も、戦国期、近世を通じて、
「都市的な場」の空気を保ち続けたと云われる。
だとすれば、ひょっとすると、今日でも、
その残滓を辿れるかもしれないと謂うわけなのだ。
B14120902
さて、妙本寺門前に戻る。
長い参道を進み、谷戸奥へ辿り着く。
石段を上ると、朱塗りの「二天門」が観える。
B14120903
今年の鎌倉の紅葉は、やや早回しのようだ。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月 9日 (火)

鎌倉大町界隈 (3)

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本覚寺山門を出て、夷堂橋を渡ると、筋替えの出口側、
角の前が、妙本寺の参道入り口に当たる。
こちらも、日蓮宗の名刹だ。
B14120802
参道は谷戸奥へ続いている。
比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ぶ。
建仁三年(1203)北条氏に滅ぼされた比企一族の舘跡である。
後に生き残った子孫が、菩提を弔うために、
日蓮の弟子日郎を招き、文応元年(1260)この寺を開いた。
B14120803
比企ヶ谷は、鎌倉市内でも風情のある谷戸として知られる。
一寸、入ってみよう。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月 8日 (月)

鎌倉大町界隈 (2)

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「夷堂橋」の向こう側、つまり大町側から観ると判り易い。
本覚寺の山門と、尖った緑青色の屋根が「夷堂」だ。
現在の建物は、近年の再建だが、
この堂は、本覚寺が出来る前から在った。
頼朝が鎌倉の裏鬼門封じに祀らせたと云う。
B14120702
本覚寺のほうは、室町期(永享八年=1436)に開かれた。
ついでながら、狭い大町界隈に、五ヶ寺以上の日蓮宗寺院が、
現存している。これは後程、重要なキィワードとなる。
比較的広い境内には、日蓮の分骨堂があり、
日蓮が佐渡の配所から鎌倉に戻った際に、
寄寓した故地であることに、因むとも云われる。
B14120703
本堂裏の墓域に、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した、
刀工、岡崎五郎正宗の墓所と伝わる宝篋印塔がある。
石塔自体は、近世のもののようだ。
日蓮宗寺院に加えて、職人である刀工。
これも、大町を探索するための、重要なキィワードとなろう。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月 7日 (日)

鎌倉大町界隈 (1)

B14120601

よく晴れた初冬の週末、再び鎌倉に戻ってきた。
今回の探索は、中世世界の鎌倉のメインストリート、
「小町大路」が滑川を渡る「夷堂橋」(えびすどうばし)から、
始める。八幡宮より、市内を南下して来る古道は、
小町を抜け、大町へ入って往く。
つまり、町の境界地で、実にワクワクするポイントなのだ。
B14120602
橋上にて、滑川の上流方向(北)を望む。
滑川に架かる橋の中では、比較的大きいほうだろう。
擬宝珠は朱色でなく、何故かライトグリーンだった。
まぁ、いいか。
B14120603
「夷堂橋」と呼んだのは、橋の直前、ちょうど筋替えが始まる、
角の所に、「夷堂」と云う堂舎が建っていたからだ。
現在は、日蓮宗寺院、本覚寺の山門が口を開けており、
その境内に当たる。
さて、寺内を一寸覘いていこう。
(捨身 Canon G1X)

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2014年12月 6日 (土)

古拙の微笑

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東博、この秋の特別展「国宝展」も、今週いっぱいで終わる。
連日、長蛇の列で大変だろう。既に十月中旬、観覧したが、
その際、平常展示で気になった絵があった。
戦国期(16C)に描かれた水墨画である。
「仙女図」と呼ぶ。
秦の始皇帝の時代、山間へ入り、
遂には、仙人と化したと云う、官女の姿を題材にしたものだ。
類画は、幾つかあるようだが、
概して、珍品の範疇に入るのではないか。
まず、装いが面白い。
結髪に素足、毛皮、樹葉の蓑を纏い、
仙果とされる桃の枝を松杖に引っ掛け担ぐ。
持物は、左腕に掛けた風呂敷状の袋に、
山中で採れた果実、経巻を入れ、瓢箪を二つ下げる。
もとより、描かれた時代、中世世界の感覚からしても、
「異形」なのだが、山に棲む職能民=山民として、
このような女性が居たとしても、おかしくないと想うのだ。
やや、こちらを見遣り、
不思議に微笑む彼女に、何故か魅かれた。
所謂「古拙の微笑」(=アルカイックスマイル)を、
地で往っているわけだ。
(捨身 Canon S110)

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