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2015年1月16日 (金)

青梅の観音へ参る(13)

B15011501

前回から、三田三代、氏宗、政定、綱秀の諱(いみな)の、

偏諱(へんき)について、想いを廻らしているが、

まぁ、ある程度の見当がついてきた。

氏宗の「氏」は、初代古河公方の足利成氏(しげうじ)から受けた。

彼は「成」の字を偏諱することが通例だったが、「氏」を与えた例も、

あるからで、時代的にも合う。別して氏宗が所望したのかもしれぬ。

「弾正忠」の官職を得たのも、管領・公方の正規ルートで京都へ、

働きかけたのであろうし、その筋への謝礼には、

潤沢な「杣保」の収入で、事欠かなかったはずだ。

或いは、歌道の指南(京都直結で、意外と、失礼!高尚なのだ)を、

頼んでいた、公家の三条西家のコネも無視出来まい。

次の政定は、すんなりと成氏の子、足利政氏の「政」であろう。

最後の綱秀だけは、まるっきり事情が違っていた。「綱」の字は、

小田原北条氏二代、氏綱からと考えられるのだ。

この辺りの経緯は後述しよう。

さてと、梵鐘だ。

B15011502

ありました。

「大檀那 平氏朝臣 将門之後胤 三田弾正忠 政定」

大永元年(1521)には、氏宗の子、政定に、

代替わりを果たしていたわけだな。

B15011503

それにしても、「将門之後胤」と刻された表現の異様さよ。

彼ら三田一族の、何らかの強いメッセージが、

込められてると感じるのは、筆者の想い過ごしだろうか。

(捨身 Canon G1X)

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