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2015年1月17日 (土)

青梅の観音へ参る(14)

B15011601

天寧寺から、山一つ隔てた谷戸で「虎柏社」(とらかしわ)前を通る。

明治の神仏分離以前は諏訪社だった。

天慶三年(940)清和天皇の孫で、「六孫王」と呼ばれた、

清和源氏の嚢祖・源経基が勧請したと云う。

承平八年(938)武蔵国司として、下って来た彼は、

当地で問題を起して、将門の介入を招き、

一連の騒ぎの発端をつくる。

まぁ、将門の乱の当事者の一人だから、

青梅に多く伝わる「将門伝承」の一つとみてよかろう。

後の戦国期に、三田氏宗が天寧寺と共に再興したのも、

そういった経緯と関るやもしれぬ。

B15011602

再び、成木街道をJR東青梅駅方向へ戻る。

天寧寺とは、三田一族にとって、どんな存在だったのか。

まず、城郭と謂っていい結構であるから、勝沼城がもしもの際に、

避難する出城の役割を果していたと考えられる。

平時は、一族のための祈願所であると同時に、

教育機関でもあったろう。

中世世界の禅寺は、仏教のみならず、人文、自然科学一般、

医学、兵法や武術まで、幅広く研究、教授していた。

大檀那であった三田一族の子弟、

もとより、政定、綱秀も、幼少期に預けられ、学んでいたと想う。

B15011603

さて「城山通り」を左折すれば、勝沼城は直ぐ近くだ。

住宅と畑地の後背に、低い丘陵の突端が観えて来た。

(捨身 Canon G1X)

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